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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール㉗“賞味期限”が過ぎたあと

土佐電気鉄道(土電)の桟橋移転が完了したのは1988(昭和63)年の初めだった。このころから大町氏の経営スタイルが前面に出始める。(依光隆明)

はりまや橋の電停からはりまや橋交差点を見る。左奥にデンテツ・ターミナルビルが立つ

暴落直前に売り抜ける

1983(昭和58)年6月、西岡寅八郎さん(91)は土電の非常勤代表取締役会長となった。同時に専務となったのは県を辞めたばかりの大町利夫氏。1年後、大町氏は代表取締役副社長となって土電を切り回す。大町氏を土電に派遣したのは県副知事の和食延夫氏だった。のちに出納長となる小松三良氏と大町氏の名を西岡さんに示し、「どちらかを県から土電に出す。どっちを取る?」と言いながら「平時の小松、乱世の大町じゃ」と言葉を添えた。西岡さんは土電の久米滋三社長に相談し、久米氏が「潰れかけの会社やき」と乱世型の大町氏を選択する。大町氏の土電入りが決まったあと、和食氏はこう西岡さんに念を入れた。「大町の賞味期限は4年ぜよ」

その通り、「4年間は大町は働きました」と西岡さんは言う。4年が過ぎた1988(昭和63)年の初め、土電は桟橋移転を完了した。このころが土電の大きな転換期だったといえる。それまでの土電は巨額の赤字と乱脈経営、暴力団絡みの株主や社員でガタガタの状態だった。大町氏と西岡さんに四国銀行(四銀)OBの中山隆氏も加わり、少しずつ土電の経営を軌道に乗せた。西岡さんは「大町は会社をまともにしました」と振り返る。そうやって氏の手腕を評価しながら、こう続けた。「まともにしましたけど、土地転がしでカネが入ったら賞味期限が切れて大町が好き勝手し始めた」

土地転がしというのは桟橋移転のことを指している。土電は高知市知寄町の電車通り沿いに持っていた広大な土地を高値で売却、安く手に入れた同市桟橋通の神戸製鋼高知工場跡地に移転した。水面下で動いたのは副知事の和食氏だった。土地を転々と転がした(転売した)わけではないので土地転がしとは違うが、西岡さんはこの言葉を使う。当時の流行用語だったからだ。1980年代後半、日本は空前のバブル景気に沸いた。牽引したのは地価だ。「地価は絶対に下がらない」が一種の信仰となり、企業も個人も土地を買いあさった。日本中が土地バブルに沸いた。土地バブルが崩壊するのは1990(平成2)年4月の政府による総量規制(金融機関が不動産業に貸し出せる融資額を抑制)がきっかけだった。バブルは泡と消え、翌年から地価は暴落する。幸運だったことに土電の桟橋移転はバブルのさなか。地価暴落の手前でうまく所有地を売り抜けていた。

西岡さんが言う「大町が好き勝手し始めた」のスタートはテナント用の自社ビルづくりだった。1988年当時、土電には10億円単位の移転差益が入っていた。その一部で負債を減らし、余ったカネで自社ビルを建てた。はりまや町の旧本社ビルを建て替えた8階建て、現在もはりまや橋交差点にそそり立つデンテツ・ターミナルビルだ。西岡さんが振り返る。「大町が『8階建てにする』ゆうて言うたがですよ。斜め向かいにある四銀の本店が7階建てでしょう。『土電落城の日に上から四銀を眺めるがじゃ』ゆうて」。四銀は土電のメインバンクであり、土電から見ると生殺与奪を握る存在だった。

はりまや橋交差点に立つデンテツ・ターミナルビル

一等地にテナントビル

『土佐電鉄八十八年史』は当時の大町氏をこう書いている。〈入社以来、社内外の問題処理をほとんど一手に引き受け人員合理化を進める一方、チンチン電車の復元、その他ユニークな事業を実施、懸案の基地移転を実現したが、続けて重要課題のひとつであった、はりまや町の電鉄ターミナルビル新築工事に着手することになった〉。取り壊された旧土電本社は1928(昭和3)年に運輸課事務所として建築された鉄筋3階建てで、県民には「土電ビル」の名で親しまれてきた。1989(平成元)4月から取り壊しに入り、さら地にして新ビル建設工事に移る。場所ははりまや橋交差点に面する高知市街の一等地。隣接する県警派出所と公衆便所も取り込み、491平方㍍(うち土電分が387平方㍍、高知市分が104平方㍍)の敷地を確保した。地下1階、地上8階で延べ床面積は3800平方㍍。正式名称をデンテツ・ターミナルビルとし、1991(平成3)年3月に完成した。

デンテツ・ターミナルビルはテナント料を稼ぎ、土電の収支改善に貢献する。その利点を説明したあと、西岡さんは苦虫をかみつぶす表情をした。「大町がねえ、自分と仲のえい会社(仮にK社とする)をよう使いよったがですよ。あのビルもK社が受けて下請けに大旺を使うた。ありえんです。おそらく10%は(マージンを)取っちゅうがやないろうか。ムチャクチャよ」。大旺というのは当時県の圧倒的トップゼネコンだった大旺建設(法的な倒産整理を経て2009年から大旺新洋)のこと。西岡さんが明かしたのは、大町氏が自身と懇意なK社を元受けにし、大旺建設を下請けにしてK社にマージンを落とした構図だった。実際にそのような構図があったのか否かは分からない。ただ『土佐電鉄八十八年史』はK社がデンテツ・ターミナルビル建設の「総合企画」を担当し、工事を大旺建設が担ったと記している。

「大町はリベートをもらいよったんです。デンテツビル建設のときもそうやし、バスを買うときももらいよった。中山隆が大町に『度が過ぎやあしませんか?』と直言したことがあるがですよ。そしたら大町が『中山を替えたい』と言い出して。『どいたぜ?』と聞いたら『あんまり仕事ができんぜ』と。中山が鬱陶しゅうなったがでしょうね。そうこうしゆときに中山は死んだ」。過労が理由の一つだったのだろう、中山氏は病を得て常務在職中に亡くなる。大町氏に直言する幹部はいなくなった。

高知市の潮江橋を走る外国電車。これはドイツから買い付けた=『土佐電鉄八十八年史』より

外国電車とオルゴール

大町氏が社長になったのはデンテツ・ターミナルビルが建設に入った1989(平成元)年6月だった。このころ大町氏は外国の街を走る路面電車を購入し始める。第1号は西ドイツ・シュトゥットガルトを走っていた二両連結電車。船で輸入して整備に努め、1990(平成2)年8月に高知の街を走り始めた。続いてポルトガル・リスボンから2両(うち1両はイギリス生まれ)、ノルウェーのオスロから1両、オーストリアのグラーツから1両。「外国電車は土電にとってプラスだったと思います」と西岡さん。「オルゴールはマイナスでしたけどねえ」。オルゴールも大町氏が買い付けてきた。西岡さんは「(リベートを)適当にポケットへ入れよったんじゃないですか?」と大町氏に不審の目を向ける。当然ながら実際のところは分からないし、調べようもない。1991(平成3)年4月には南国市の後免町駅構内に「はらたいらと世界のオルゴール館」を建設した。漫画家・はらたいら氏の作品群とアンティークオルゴールで一時は客を集めたが、入館者数は次第に低下。2004(平成16)年末で閉館する。

ポルトガルのリスボンから持ってきた電車。生まれはイギリスらしい。PINGO DOCE(ピンゴ・ドース)はポルトガルのスーパーチェーン名。リスボンを走っていたラッピングのまま高知の街を走った=『土佐電鉄八十八年史』より

飛行機の座席は一番前

中山隆氏を切ろうとしたように、むしろ「賞味期限」が切れてから大町氏の力は増していった。西岡さんが言う。「僕は経理の方はノータッチで分からんのですけど、土電にはカネができちょったんでしょうねえ。大町が出張するときは大名行列です。役員クラスの幹部を引きつれてぞろぞろ歩いていました。空港ビルの中に土電の売店があって、そこでてんぷらとかいろいろ買うて『これ会社へつけちょけ』とか。飛行機の席は必ず一番前やった。一番前やないといかんかった」

桟橋移転、デンテツターミナルビル建設、外国電車の導入、「はらたいらと世界のオルゴール館」。大町氏は観光客誘致を図りながら土電の売り上げアップを構想していたと思われる。1991(平成3)年1月に出版された『土佐電鉄八十八年史』(発行人=大町利夫)はラストをこう結んでいる。〈南国市の後免町駅に外国電車も発着する電車とバスのターミナルをつくり「はらたいらと世界のオルゴール館」を建設、将来に備え後免町を東の拠点として開発する構想も練っており、平成三年は、はりまや町の電鉄ターミナルビル完成、イギリス、ポルトガル、ノルウェー電車の登場、後免町駅地区の開発と、“攻め”の土電へ大きく方針が転換されることになる〉

大町氏の手法はリスクもはらんでいた。(つづく)

ポルトガル・リスボンから運んできた電車。Cola Cao(コラ・カオ)とはスペイン、ポルトガルで親しまれているココア飲料のブランド名。リスボン市街を走っていたままの姿で高知の街を走った=『土佐電鉄八十八年史』より

 

(C)News Kochi(ニュース高知)

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