1983(昭和58)年に土佐電気鉄道(土電)の代表取締役会長となった西岡寅八郎さん(91)は、県OBの大町利夫氏、四国銀行OBの中山隆氏と土電の立て直しに力を注いだ。最初の大仕事は高知市桟橋通の神戸製鋼高知工場跡地に土電をそっくり移転させることだった。土電の社史には移転工事を「推進プロデュース」した意外な企業名が載っている。(依光隆明)

高知市内を走るとさでん交通の電車=菜園場付近
節目は1983年6月
おさらいしておくと、西岡さんが土電の経営陣入りを頼まれたのは県議会議員になって2期目の1978(昭和53)年。西岡さんは42歳だった。「頼む」と西岡さんに頭を下げたのは県の中内力知事、和食延夫教育長、四国銀行(四銀)の吉村真一頭取、久保忠武副頭取、浜田耕一専務、滝本浩専務。県総評の国沢秀雄議長、土電労組の香西誠一委員長、高知新聞の福田義郎社長。情景が浮かぶのだろう、このときのことを西岡さんはたびたび繰り返す。
西岡さんの言葉で経緯を綴ると、「昭和58年(1983年)の9月に土電は倒産する。問題は労務債(退職金)が10億円足りないことで、『それを作るために土電に入ってくれ。株主の代表としておってくれ』と。県の窓口は和食さん、四銀の窓口は浜田耕一さんじゃ、とも言われました」。四銀が10億円を融資するしかないが、土電は信用できない。融資するには土電経営陣を中から見張る人間が必要だ、という意味だったと思われる。断り切れずに引き受け、1979(昭和54)年にまず非常勤取締役となる。「副知事になった和食さんに『県から土電へ小松三良(のちに県出納長)か大町利夫かどっちかを出す。平時の小松、乱世の大町じゃ』と言われて、当時の久米(滋三)社長が大町を選んだ。ところが大町が『(土電に)行く』と言わんき、自治労の竹崎(県本部委員長を務めた竹崎清彦氏)に『早う(県を)辞めんと大変なことになるぞ』と大町を脅してもろうて県庁を辞めさせた。大町は『県庁ヤクザ』と言われよったですきねえ」。大町氏は口調が荒っぽく伝法だったらしい。陰口をたたかれるほど公務員らしからぬ力を持っていたのだろう。
1983(昭和58)年6月、西岡さんは筋書き通り非常勤の代表取締役会長に、県を辞めた大町氏は常勤の専務取締役に就く。翌1984年6月、大町氏は代表取締役副社長となり、四銀からは中山隆氏を取締役として迎えた。のちに大町氏は社長、中山氏は常務となり、大町氏を軸に中山氏と西岡さんが加わって土電のかじ取りをした。

桟橋移転前、はりまや橋交差点にあった土電本社=『土佐電鉄75年の歩み』より
「盃をせんかえ?」
大町氏が副社長となる前後、西岡さんは強烈に記憶に残っていることが二つある。一つは西岡さんが会長、大町氏が専務になって早々のことだった。ある日、大町氏から電話がかかってきた。西岡さんが振り返る。
「はりまや橋に3階建ての土電のビルがあったんです。そこへ『ちょっと来てくれ』言われたき、行ったがです。そしたら大町と石黒がおりますやいか。僕は石黒とは面識があるけんど距離を置いてましたき、『きょうは何ごとぜ?』と言うて」。石黒というのは高知市で金融会社「ジャイアント商事」を経営していた石黒城造氏のこと。西岡さんと同じ1935(昭和10)年生まれで、高知の黒幕の一人として知る人ぞ知る存在だった。「そうしたら石黒がポッコリこう言うたがです。『わしらは兄弟やき、寅さんも盃(さかずき)せんかえ』と。『俺がなんでおんしゃらと盃せんといかんがな。すぐに割れるような盃を』と言い返しました」
盃を交わす、というのはヤクザや任侠の世界でよく使われる言葉だ。7歳年上の大町氏とは義兄弟の盃を交わしている、お前も盃を交わして義兄弟に加われ、と誘われた格好になる。西岡さんは少しイライラしてきた。
「大町に『用はなんぜよ』と言うたら、『黒ちゃんがよねえ、寅さんに会いたい言いゆうき』と。大町は石黒のことを『黒ちゃん』ゆうて言いよったです」。西岡さんは石黒氏を向いて「(用事は)なんぜ?」と聞いた。あとはこんなやり取りだったらしい。「会長が…」「会長ち誰ぜ?」「中山会長や。寅さんが土電の会長になったお祝いをせなあいかん、いつがえいろうと聞きに来たがや」「いつでもえいぞ」
中山会長というのは山口組系暴力団「豪友会」の中山勝正会長のこと。すでに書いたように、西岡さんとは旧知の仲だった。「いつものレストランで肉を食べました。勝正さんと2人だけです。もちろん昼間ですよ。僕は夜は人と会わんし、宴会には絶対に出ませんき」
このころ中山氏は広域暴力団山口組の若頭補佐を務めていた。その世界では大物中の大物だったと言っていい。西岡さんは「石黒は豪友会の会長(中山氏のこと)にヒロヒロしよった。その石黒に大町は弱かった。あればあヤクザっぽいことを言いゆうくせに、大町は気がこんまい(小さい)」とも。大町氏の口調が荒っぽく伝法だったということだろう。
中山勝正氏は翌1984(昭和59)年6月、新しく決まった山口組四代目組長の下で山口組若頭に就任する。人事に納得しない一部の組は山口組を脱退して一和会を結成。1985(昭和60)年1月、山一抗争とも呼ばれる争いの中で中山氏は四代目組長とともに射殺された。石黒氏は山一抗争渦中の1984(昭和59)年11月、ニュータウン建設をめぐる吾川郡春野町(現高知市春野町)の汚職事件で高知県警に逮捕されている。逮捕容疑は贈賄で、豪友会系暴力団組長や高知市の不動産業者も同じく贈賄で逮捕された。収賄側は前春野町長が逮捕されている。

2009年3月5日に城西館へ集まったメンバー。前列左から浜田耕一氏、橋本大二郎氏。後列左から竹本昭和氏、藤戸謙吾氏、尾﨑正直氏、浜田常男氏、西岡寅八郎さん
「真っ赤な嘘」だったのか
もう一つ、西岡さんが印象に残るのは連帯保証人の判をめぐる騒動だ。これは大町氏が代表取締役副社長になる1984(昭和59)年6月前後のことだったと思われる。
「当時、代表取締役は判をつかんといかんかったんです。土電の借金は34億円あって、その連帯保証です。そらあ誰でも嫌ですわね。大町は『判らあつけるか。そんながやったら辞める』ゆうて怒って。四銀からも県からも人が来て、『迷惑かけんき(判を)ついてくれ』ゆうて頼んで。僕もおんなじやったですよ。『迷惑かけんき』と言われて判をついたけんど、いかんわ。それを文書にしてなかったき」
25年後の2009(平成21)年3月、西岡さんは浜田耕一氏に招かれ、土電社長だった竹本昭和氏と一緒に高知市のホテル城西館へ足を運んだ。集まっていたのは浜田氏のほか高知県知事の尾﨑正直氏、1年3カ月前まで高知県知事だった橋本大二郎氏、高知新聞社長の藤戸謙吾氏、高知市の靴店「つるや」社長で四国銀行中央支店後援会長の浜田常男氏。
四銀の頭取、会長を歴任した浜田耕一氏は西岡さんの師匠のような存在だった。その浜田氏に対し、西岡さんは何度か「もう土電を辞めらしてくれ」と言っていた。「辞めらしてくれざったです。浜田耕一さんは『平成26年(2014年)に公的整理をしてニュー土電を作る』と言いよったがですよ。『26年に国の補助金が入る。そのときに県交(高知県交通)を一緒にして新しい土電をスタートさせる、それまでおってくれ』ゆうて」。城西館での会合でも浜田耕一氏はその話を持ち出した。そもそも浜田氏は西岡さんに土電入りを頼んだ1978(昭和53)年の会合のただ一人の生き残りだ。浜田氏は城西館での会合の3カ月後、2009年6月に亡くなっている。死期を悟った浜田氏が「このメンバーが見届け人じゃ、迷惑はかけん。安心して土電にいろ」と念を押すために会を開いた、と西岡さんは理解していた。大町氏も社長を辞めたあとに連帯保証人を外れている。連帯保証人の判を振りかざして四銀が自分に襲い掛かってくるとは、西岡さんは夢にも思っていなかった。
冷静に振り返ると、浜田耕一氏の死去後に風向きが急変していった。浜田氏が亡くなった直後の2009年8月、四国銀行は連帯保証の判を西岡さんに押し直させている。西岡さんは四銀関係者から「形だけだ」と説明を受けた、と話す。大町氏を始め、それまで連帯保証の判を押した土電の経営者は確かに誰も迷惑をかけられていない。「お前に迷惑はかけん」という亡き浜田氏の言葉を信じて西岡氏は判を押す。これが伏線かつ法的な決定打となった。
2013(平成25)年4月に暴力団問題(過去に暴力団組長だった人物との付き合い)で土電を追われたあと、西岡さんは翌年10月に「連帯保証の判を押している」というただ一点で四銀から土電の負債の支払いを催告される。2016(平成30)年、四銀の申し立てによって強制破産(債権者申し立て破産)させられ、破産手続きがスタート。四銀は免責を認めることも拒否し続け、西岡さんは移動の自由も通信の自由も認められないまま2024(令和6)年までの8年間を逼塞して過ごした。
精神的にも肉体的にも追い込まれる中で募ったのが四銀経営者と県幹部への恨みだ。「迷惑をかけん」が真っ赤な嘘だったことを、西岡さん本人が身をもって知っている。「体を悪うするばあ働いて、単年度黒字を出すまで土電の経営を改善した。立ち直った土電を無理やり潰して、『判をついちゅうき』と僕を破産させて…」と恨みを繰り返す。そのことはのちのちまた触れる。

高知市桟橋通に移転した電車、バス基地。現在はとさでん交通が使っている=Google Earthより
移転を「推進プロデュース」
1984年当時、土電最大のミッションは桟橋移転だった。神戸製鋼高知工場の跡地へ土電の本社と電車基地、バス車庫を集約させるという大事業。西岡さんによると、大きなカギは知寄町の電車通り沿いにある電車基地の行方だった。債務を減らすために高値で売りたい。しかし土地の中央に水路があり、水路を挟んで電車通り側の土地と反対側の土地は評価額に差があった。「水路があって、その前と後ろで土地の値段がぜんぜん違うがです。それをパチンコの玉井が同じ値段で買うてくれた。やってくれたのは和食さんです。安芸同士というつながりで玉井へ売ってくれた」
副知事だった和食延夫氏は安芸市の出身。玉井グループの総帥として君臨した畠山玉重氏も安芸の出身だった。そのつながりで和食氏が玉井に買わせてくれた、と西岡さんは説明する。当時の新聞によると玉井が購入した面積は1万5500平方㍍(約4700坪)で、1986(昭和61)年12月に購入している。桟橋通の神戸製鋼高知工場跡地で車両基地や本社社屋の建設工事がスタートしたのは翌1987年の4月。1988(昭和63)年1月に完成し、同月21日に高知新阪急ホテルで移転落成パーティーを開いている。
『土佐電鉄八十八年史』はこう書く。〈総面積は三万九千二百平方㍍、建物延べ面積は一万八百五十九平方㍍で、(中略)ジャイアント商事が推進プロデュースとなり、塩田建築設計事務所が設計管理、工事は香長建設、須崎工業、小松建設三社が共同で行った〉。違和感を残すのは、工事関係企業の筆頭に「ジャイアント商事」が出てくることだ。「推進プロデュース」というのも聞き慣れた言葉ではない。「推進」はすでに決まった事業や計画を前に進め、実現に導くこと。「プロデュース」は企画を構想し、人材・資金・組織などを組み合わせて成果を生み出すこと。この段階で石黒氏の会社ががっちりと土電に食い込んでいたことが分かる。(つづく)

















