2009(平成21)年3月5日、高知市の城西館に尾崎正直高知県知事、橋本大二郎前知事、藤戸謙吾高知新聞社長、土佐電気鉄道(土電)の竹本昭和社長と、土電会長だった西岡寅八郎さんら7人が集まった。招集をかけたのは四国銀行の元会長、浜田耕一氏。いったい何が話し合われたのか。(依光隆明)

浜田耕一氏が「県のトップ」たちを集めた「濱田耕一様よりのご招待懇親会」(2009年3月5日)の写真アルバム
「26年まではやってくれ」
西岡さんによると、会合の主題は土電の経営についてだった。2014(平成26)年には土電に国の補助金が入る。それまでどうするか、それからどうするか。ざっくりと話す感じだった。
「わしはもう、『順調にいきゆうき、辞めらしてくれ』ゆうてその場でゆうたがですよ。ちょっと体の調子も悪かったですから。けんど、26年までおってくれと。ほんで、県交(高知県交通)をどうやって26年まで引っ張るかという話をしました。当時、土電は単年度黒字を出しよりましたきね」
経営も軌道に乗った、もう代表取締役会長をやめさせてほしいと浜田耕一氏に申し出たが、却下された。そう西岡さんは説明する。26年というのは平成26年、2014年のことだ。電車を中心に多角経営をする土電は単年度黒字を出していたが、バス専業の高知県交通は経営悪化が深刻だった。2014年まで持たないかもしれないと考えられていた。
「浜田耕一さんは『26年に国からの補助金が出るき、それまでやってくれ』と。『26年まではやってくれ』と言っていました。『26年に国からの補助金が出る』と浜田さんが言うたとき、尾﨑知事がうなずいたことを覚えています。公的整理をしようという話も出ました。公的整理をしてですね、それでニュー土電を作って県交と一緒になろうと」
浜田耕一氏とニュー土電の社長人事を話し合ったこともある、と西岡氏は明かす。名が挙がったのは中沢卓史氏だった。橋本大二郎知事の下で県総務部長、尾崎正直知事の下で教育長になった県庁きっての能吏だ。
「社長は誰にするかというのは、僕と浜田さんの間の話です。城西館の会合のときではありません。浜田さんが『誰かおるか?』と言うので、『県なら教育長の中沢がおります』と答えました」
「人事は四国銀行です」
一連のやり取りが事実だとすると、ひとつ大きな疑問が生じる。なぜ土佐電鉄の人事を浜田氏に相談するのか。西岡さんは土電の代表取締役会長であり、進退を銀行の元トップに相談する必要はない。西岡さんの「辞めたい」という意志を浜田氏が却下したのであれば、浜田氏こそ土電の実質経営者だったことになる。ニュー土電の社長に県庁幹部を名指しできるとしたら、県にも強い影響を持っていることになる。
その通り、西岡さんの一貫した主張は「土電は四国銀行の管理下であり、人事は四国銀行が握っていた」ということだ。2013(平成25)年、県主導の土電外部調査は土電が西岡さんの「個人商店」だったと指弾した。当時も今も、西岡さんは「個人商店」という表現に強烈な違和感を持っている。個人商店なんて冗談じゃない、土電は遠い昔から銀行管理。銀行管理の会社を一個人が自由にできるわけがないじゃないか、と。この外部調査は土電における西岡さんの権限を「オーナー」という表現まで使って強調した。土電・県交の解散、統合に勢いをつけた外部調査をめぐる問題についてはのちに触れる。
「暴力団問題」を契機に、西岡さんが土電、県交の合併に強く反対していた、障害となっていたという報道も流れた。西岡さんは土電が県交を吸収する形の合併を想像していたのだから、対等合併には異を唱えたに違いない。対等合併を構想する人や組織からすれば障害だったのだろう。本人は「僕が言いよったのは、労働組合が協調路線になったときに合併したらえいということ。合併自体に反対するわけがない」と説明する。しかも西岡さんが持つ土電の株式は1.08%に過ぎない。加えて土電は実質債務超過であり、西岡さんはメインバンクの四国銀行に連帯保証人の判を取られている。土電末期の取締役会出席メンバーの一人は、西岡さんのことを「四国銀行の回し者、言いなり」と表現した。西岡さんが四国銀行の意のままに動いている、という観察だ。実質的なオーナーとして西岡さんが自身の意図で合併を阻止し続けたのか、四国銀行の意を受けながら動いていたのか、と考えると後者の可能性のほうが高い。
「人事は四国銀行です。土電の社長は県と四国銀行が送り出して、それを受け取ってやりよった。役員人事を決めるのは社長で、僕は一切ノータッチです」と西岡さんは言う。社長は主に県OBが務めた。天下り社長と表現しても外れてはいない。県の補助金がなければ資金に窮する状態だったからだ。「県が2人ばあのリストを出して『どっちにしますか?』と」。歴代社長の中で竹本昭和氏だけは四国銀行出身だった。1995(平成7)年、竹本氏は四国銀行から高知市西部にある民間病院の事務長に出ることに内定していた。が、浜田耕一氏が行き先を土電(部長職)に替えたと西岡さんは言う。「竹本が四国銀行の伊野支店長やったき、同じ町内という縁で(当時西岡さんは高知県伊野町に住んでいた。現在は兵庫県在住)僕が呼んだと言う人もおったけんど、全然違う。面識はなかった」。2007(平成19)年に県OBの社長、徳橋明氏が退任するときはこうだった。「浜田耕一さんに呼ばれて、『(次の社長を)どうしたらえいろう』と相談されました。『そらあ考えてくださいや』と答えたら、『もう黒字になったき、ぼちぼちえいろう』と。単年度黒字が出るようになったので、四国銀行出身者が社長になってもいいだろうということです。それで竹本が専務から社長に昇格した」。四国銀行の者を赤字会社のトップに送り込むのはまずいが、黒字になったから社長にしてやろうということだ。社長になったあと、竹本氏は浜田耕一氏がバックについていることを意識して行動し始めた、と西岡氏は振り返る。
「県との直接的な関係はあんまりなかったですからねえ。大事なのは四国銀行でした」と西岡さんは言う。「年末資金を借りるために副知事の十河(清)と一緒に四国銀行へ行ったこともあります。会社を26年まで持たすためにです。のちの岩城(孝章)副知事が『私の功績は悲願やった土電と県交の一本化をしたことです』と新聞に話していましたけど、僕に言わしたら馬鹿らしい。初めからもう流れはできて、くっついちゅうがやに」
土電、県交の一本化は既定路線だったということだ。違ったのは公的整理の中身と、どのような統合をするか。一般に公的整理というのは公金を投入し、行政がかかわって債務を整理すること。私的整理を中心とする公的整理か、法的整理を中心とする公的整理かで大きな違いが出る。私的整理は当事者同士の話し合い解決、いわば談合。法的整理は裁判所が入って厳格にやる。浜田耕一氏がたびたび会社更生法という言葉を使っていたので、西岡さんは法的整理が行われると信じていた。会社更生法を使って土電を再生し、県交を吸収合併するのだと信じ切っていた。

統合直前、2014年6月6日の土電定時株主総会資料として株主に示された統合スキーム案
なぜ私的整理だったのか
「(法的整理に基づく)公的整理をするということは四国銀行が決めちょったんですよ。当時、土電と県交で債務が70億。浜田耕一さんは『公的整理をしたらえいわ』と言っていました。会社更生法を使って公的整理で債権放棄です。債権放棄の責任を取って四国銀行のトップが何人か辞めて、西岡も辞めて。なんで私的整理になったかといえば、自分たちが(その地位に)残りたかったからじゃないですか?」
自分たち、と西岡さんが表現するのは四国銀行中枢の人たちのこと。金融機関が債権放棄し、巨額の公金を投入して会社再建をするとなれば、破綻企業のメインバンクは責任をまぬがれ得ない。責任を取って四国銀行の経営陣は辞任し、土電の経営責任を取って西岡さんも辞める。そんな将来像を考えていた、と西岡さんは説明する。
実際のスキーム(枠組み)は西岡さんの予想とは全く違うものだった。土電(関連会社のとさでんドリームを含む)と県交を消滅させ(会社清算)、優良資産だけを新生「とさでん交通」が承継する。問題はそれが私的整理で行われたことだ。どの資産を承継し、どの資産を債権放棄するか、私的整理なので外からは見えない。四国銀行など債権者の6行が26~28億円の債権放棄をしたとされているが、金額も含めて実態はよく分からない。もう一つの問題は会社の形態だ。県と沿線市町村で公金10億円を注入したものの、慌ただしくことを進めたために住民への説明は十分ではない。なぜ民間でも第三セクターでもなく「とさでん交通」が自治体100%出資会社なのか、の合理的説明も乏しかった。行政に経営能力があるはずもなく、「とさでん交通」の借入金は減っていない。毎年、巨額の公費が注ぎ込まれている。
県交の経営者は「判が抜けた」
西岡さんが強制破産に追い込まれた直接の原因は、2009(平成21)年に土電の代表取締役会長として手形取引保証約定書へ連帯保証の判を押したことだった。代表取締役に新任された1983(昭和58)年に連帯保証の判を押したことも記憶に焼き付いている。それも手形取引保証約定書だったのか、銀行取引約定書(基本約定)に基づく包括保証だったのかは分からない。西岡さんが強調するのは「連帯保証の判は形式的なものだった」ということだ。法的にいえば保証印に形式的なものも本気もない。当然、法的には西岡さんの感覚は通用しない。だから強制破産に追い込まれたのだが、西岡さんはそれを承知で「形式的だった」と繰り返す。
2021(令和3)年9月、免責の可否を判断する高知地裁の審尋で、裁判官が〈本件会社(土電)が主債務を返済することができると思っていたか〉と聞いたことに西岡さんはこう答えている。
〈私は、代表取締役就任時から一貫して、本件会社は主債務を返済できないと思っていました〉〈浜田氏は、私に対し、負担はさせないから形式的に判だけついてくれと要請してきたため、私は、形式上連帯保証人になったにすぎず、自分が保証債務の支払いをすることになるとはまったく考えていませんでした〉
西岡さんが言う。
「県交の社長、会長をやった岸本宇根さんからあるとき電話がかかってきて、『寅さん、出てこいや』と言われたことがあります。岸本さんとはよく麻雀をやった仲でしたから。岸本さんの野市(香南市野市町)の家へ行って『どうしました?』と聞いたら、『判が抜けたぞ』と。連帯保証人から抜けることができた、ということです。『あとの社長には「財産整理してから判つけよ」と言うちゅう』とも言っていました」
岸本氏は1976(昭和51)年から1995(平成7)年まで高知県交通の社長、2011(平成23)年まで会長を務めた。西岡さんは岸本氏から「判が抜けた」と聞いた時期を覚えていないが、1990年代の終わりか2000年代の初めごろだったと思われる。高知県交通のメインバンクは土佐電鉄と同じ四国銀行だ。西岡さんは自身も連帯保証人から外してほしいと考え、浜田耕一氏にそのことをお願いする。西岡さんが言う。
「浜田さんはこう言いました。『県交は県交よや、寅さん心配すな(するな)。こっちから頼んじゅうがやき、迷惑かけやあせんわや。俺らがおんしゃ(お前)をだますらあゆうことがあるかや』と。結局、だまされました」
俺らというのは浜田氏個人ではなく四国銀行を意味している。西岡さんが懸念を口にするたび、浜田氏は「大丈夫」「形だけ」といい続けた。しかしそのことは文書にはなっていない。審尋の際、裁判官の「なぜ書面に書き残さなかったのか」という質問に対し、西岡さんはこう回答している。
〈口頭で確認しましたが、書面には書き残していません。確認をしたのは、高知市内にあるホテル城西館の個室会食場で会食していたときであり、その場にいた出席者(橋本大二郎前知事、尾崎正直新知事、藤戸謙吾高知新聞社長、濱田常男四国銀行中央支店後援会長、竹本昭和本件会社社長)の全員がその話を聞いていました。なお、仮に、書面を要求したところで、高知県の実質的な采配者である濱田(耕一)氏に自分を信用しないのかと言われればどうしようもなかったため、書面化することは求めませんでした〉
審尋の話をもう少し続ける。(つづく)

















