「手づくりの国会議員を作る」。1971(昭和46)年4月、病魔に倒れた父・寅太郎氏の代わりに出馬、高知県議会議員となった西岡寅八郎さんは、大蔵官僚だった中村市(現四万十市)出身の谷川寛三氏に的を絞った。(依光隆明)

衆院選高知県全県区で共産党・山原健二郎氏のトップ当選を報じる高知新聞の記事=1972年12月11日付朝刊
溝渕氏も塩見氏も反対
時代は動いていた。1972(昭和47)年6月に田中角栄氏が『日本列島改造論』を発表。翌7月、田中氏は内閣総理大臣に就任する。当初、田中内閣は70%の支持率を誇った。9月、日中国交正常化。12月の総選挙で自民党は過半数を維持するものの、議席を減らす。この選挙は共産党の伸長が目立った。定数5の高知県全県区もトップ当選は共産党の山原健二郎氏で、2位は社会党の井上泉氏。3位以下に自民党の田村良平氏、仮谷忠男氏、大西正男氏が続き、次点は公明党の中野明氏だった。
西岡さんが行動を起こしたのはこの選挙の直後だった。上京し、谷川氏に会うことにした。
事前に連絡した政治家は知事の溝渕増巳氏と参議院議員の塩見俊二氏。谷川氏が出馬すれば、自民党現職の誰かが落ちる可能性がある。当然、現職の衆議院議員と系列県議会議員は猛反発する。県政が波立つ。溝渕、塩見両氏とも反対した。
「溝渕さんは『衆議院の選挙へ人を出すかよ』とびっくりして、『そんなこと、やめちょき』と言いました。塩見さんには『親の七光りで3期ばあは上がれる。無理するな。のんびりせえ』と言われ、(高知新聞社長の)福田義郎さんにも『無理するな』と言われました」
塩見俊二氏(1907~1980)は高岡郡戸波村(現土佐市)の出身。1956(昭和31)年に大蔵官僚(大阪国税局長)を辞して政治家に転身、全国区から参議院議員選挙に挑戦し当選した。1962(昭和37)年の参院選から高知地方区(定数1)に選挙区を変え、3期連続で当選、自治大臣と厚生大臣を務めている。読書家で知られ、1972(昭和47)年には高知市小津町に5階建ての私設図書館「塩見文庫」を創設。1991(平成3)年に土地建物を含むすべてが財団から県へ寄贈され、現在は高知県立塩見記念青少年プラザとなっている。西岡さんによると、塩見氏を政治の世界へ引っ張り出した一人が父親の寅太郎氏だった。
「うちの親父が塩見さんを参議院の全国区へ出したんです。大阪に行って、塩見さんに『全国区へ出てくれ』と頼んで。関西には親父の友人がおって、だから京都の後援会長は宝酒造の大宮社長です。大阪の後援会長は阪急の野田さんでした」
宝酒造の大宮隆社長は寅太郎氏の親しい友人。野田さんというのは阪急百貨店社長や日本百貨店協会会長を務めた野田孝氏のことだ。塩見氏は大阪国税局長のときに関西財界とのパイプを作っていた。選挙では関西財界の大物がバックについた。
「塩見さんには子どもがおらんのです。毎年正月2日は『家に遊びに来い』ゆうので、僕は(兵庫県内の)塩見さんの家へ泊りに行きよった。広い家でした。庭にゴルフのグリーンがあった。関西の財界がバックについちゅうので選挙のときも塩見さんは金で苦労をせんかった。高知から出ることになったときも、『高知では金をもらわんぞ』と言っていたくらいです。塩見さんが高知に来たときは、車は蒲鉾店のN社長、住むところは料亭経営のH社長、身の回りの費用は四国銀行のO専務が面倒を見ていました」
1972(昭和47)年当時、塩見氏は参議院議員3期目。溝渕氏は知事5期目。2人のベテラン政治家から忠告されたものの、西岡さんはそれを蹴る。

塩見俊二氏の銅像。読書家だった塩見氏らしい雰囲気が出ている=高知小津町の高知県立塩見記念青少年プラザ
仕事の潔癖さが裏目に
上京した西岡さんは、谷川氏を訪ねた。谷川氏は1971(昭和46)年10月、大蔵省関税局長を最後に退官、翌年9月には電源開発株式会社(電発)の理事に就いていた。西岡さんは谷川氏のオフィスを訪ねた。西岡さんが言う。
「『(衆議院議員選挙へ)出てください』と言うたら、一発で『出ます』と」
それからが大変だった。当然ながら周りの反発は強かった。35歳で初当選した西岡さんは、長老たちから「あの若造」扱いされていた。だから「手づくりの国会議員を作る」と谷川氏を擁立したのだが、長老たちは怒り心頭だった。田村氏、仮谷氏、大西氏の誰かが議席を失うかもしれない。その下にいる県議会議員は一蓮托生となる。矛先は西岡さんに向いた。最も激しく攻撃してきたのは最大勢力を誇る仮谷派の県議会議員だった。「今考えたらほんとムチャクチャですよ。目の敵ですよ」と西岡さんが振り返る。「やくざの縄張り争いに入ったみたいなもんで、どこへ行っても袋叩きでした」
西岡さんによると、県議会議員で谷川氏を応援したのは西岡さんと土佐清水市選出の中平博氏だけ。「中平さんは谷川さんの親戚やったと思う」と説明する。西岡さんと西岡さんの後援会メンバーが中心となって県内を駆け回った。
「田舎は一回(応援する議員を)決めたらなかなか変わらん。応援する議員のおらん、若い者を中心に谷川後援会を作っていった。(東洋町の)甲浦から土佐清水まで後援会を作って、けんど次に行ったらガタガタよ。壊れちゅう」
後援会を組織するが、すぐに別の陣営から手が入って組織を壊される。そんなことの繰り返しだったらしい。おまけに大蔵官僚といっても田舎に行けば都会ほどの神通力はない。
「室戸で谷川さんが『関税局長をしていました』と言うたら、地元の人がこう言うた。『郵便局長とどっちが偉いですか?』と。田舎に行ったら大蔵省ゆうてもそんなもんです」
誤算もあった。最も大きな誤算は金銭面だった。
「塩見さんが全国区で出るときの選挙を僕は見ちゅうがですよ。親父に『応援に行っちゃれや』ゆうて言われて。集まっちゅう人にびっくりした。大阪の財界人がずらりとおった」。塩見氏が全国区から出馬した参議院選挙は1956(昭和31)年7月。西岡さんはその2年前に土佐高を辞め、家業の酒販卸を営んでいた。翌1957年の初めごろ、宝酒造に入ってビールを売り始めることになる。
「とにかく塩見さんの選挙は人もお金もどんどん集まった。それを見ちゅうき、谷川さんにもひっとり(ひとりでに)お金が集まると思うた」
塩見氏も谷川氏も旧制高知高から東大法学部卒。塩見氏は終戦後に台湾総督府から大蔵省に移り、熊本、広島、大阪の国税局長を歴任。13歳年下の谷川氏は東京国税局長から本省の関税局長になっていた。塩見氏の選挙を間近に見て、谷川氏も選挙資金には困らないだろうと思ったのだ。大間違いだった。
「まるで反対やったのう」と西岡さんが振り返る。
西岡さんによると、溝渕氏や塩見氏は「よきにはからえ」タイプ。谷川氏は「仕事に対しては潔癖やった。奥さんの関係もあったろう。奥さんは検事の娘やったき」。
仕事に潔癖ということは、税金を厳格に取り立てることを意味している。西岡さんは後年、渡辺派を立ち上げた渡辺美智雄氏に会ったときのことが忘れられない。
「『西岡君、あんた(選挙は)誰やりよった』と聞かれたき、『谷川寛三さんです』と答えた。そしたら顔をしかめて『俺は大っ嫌い』と。谷川さんが(関東信越)国税局長のとき、国会議員になって一期目やった渡辺さんが何かのお願いに行ったらしいがです。そしたら次の日からよけ厳しゅうなったゆうて…」
税務調査なのか査察なのか、誰かの依頼で渡辺氏が谷川氏に「お手柔らかに」とお願いをしたら、谷川氏は前にも増して厳格に調査したらしい。のちに外相や副総理を歴任する渡辺氏が顔をしかめるほど厳しかったとみられる。西岡さんが言う。
「谷川さんは仕事には忠実な人で、贈り物らあが来たら反対にその日から調査に入ったりしよった。そんな人やき、企業の人気はない。お金は集まらん。集金力ゼロ。塩見さんとはぜんぜん違う。ほんで銭集めには苦労した」

田中角栄前首相の逮捕を報じる高知新聞号外=1976年7月21日付
解散できずにずるずると
もう一つ、大きな誤算があった。時代が激動していた。
1973(昭和48)年10月には第四次中東戦争をきっかけとして第一次オイルショックが発生、「狂乱物価」と形容されるほど諸物価が値上がりする。12月、物価高騰で内閣支持率は20%に低下。1974(昭和49)年秋、田中角栄首相の金脈問題が起きる。12月、田中内閣総辞職。三木武夫氏が内閣総理大臣に就任。1975(昭和50)年、税収減を補うために赤字国債(予算不足の穴を埋める国債)を発行。1976(昭和51)年2月、ロッキード事件が勃発。7月、田中角栄氏逮捕。自民党内で倒閣運動(三木おろし)が顕在化――。ロッキード事件とは、米・ロッキード社の大型航空機受注をめぐる疑獄事件。田中氏ら収賄したとされる政治家のほか、全日空社長や丸紅社長、右翼の大物など数多くの逮捕者を出した。
通常、総選挙から2∼3年のうちに次の解散総選挙が行われる。西岡さんも「2年後には解散総選挙があると思うちょった」と明かす。ところが日本の政治状況は選挙どころではなくなっていた。辞めたばかりの総理大臣が収賄で逮捕されたのだ。選挙をすれば与党が大負けする危険があった。党内闘争も起きた。解散できないまま、ずるずると時間ばかりがたっていった。
衆議院議員の任期満了は1976(昭和51)年12月だった。選挙までの期間が長くなればなるほど必要な資金が増える。谷川氏は1973(昭和48)年4月に電源開発の理事を退任、西岡さんは谷川氏を担いで選挙運動を始めていた。動くたびにカネは要る。なにをやってもカネが要る。どうやって資金を集めるかで頭が痛いのに、西岡さん自身の二期目の選挙もあった。
「二期目の県議選は大変やった。全部の政党が僕を『落とせ!』ゆうて(選挙区へ)入ってきたき、びっくりした。国会議員まで『あいつを落とせ』ゆうて入ってきた。けんど若い連中が頑張ってくれて、一期目のときより票を増やした」
現職として迎えた二度目の県議選は1975(昭和50)年4月13日投開票だった。定数2の吾川郡選挙区で2位当選だったが、トップとはわずか66票差。得票数は9897票で、前回を881票上回っていた。
県議選が終わると、県議会議員が目を向けるのは衆議院選挙だ。現職衆議院議員の中では仮谷忠男氏が最も強いとみられていた。勢力筆頭の田中派に属しているうえ、現職の建設大臣だったからだ。仮谷氏は1974(昭和49)年12月に三木内閣の建設大臣に就いていた。建設大臣ともなればご祝儀票は少なくない。仮谷氏は安泰で、野党を含めてあとは誰が落ちても不思議ないような超激戦が予想されていた。
ところが…。1976(昭和51)年1月、予期せぬ衝撃が高知県を揺るがした。(つづく)

















