大阪府高槻市。JR高槻駅から車でわずか10分ほど、景勝地・摂津峡を望むことのできる高台に、この春、関西最大のベトナム寺院「越南安寺」が完成した。僧侶の釈徳智さんをはじめ、ボランティアのベトナム人、日本人らの手によって寺院内外の整備のほぼすべてを自力で行った手作りの寺院だ。(七尾和晃)

「越南安寺」の正面玄関にて僧侶の釈徳智さん=大阪府高槻市
共生都市、神戸
釈さんによれば、日本国内ではおよそ10カ所でベトナム寺院が活動している。国内最初のベトナム寺院は埼玉県に建立された南和寺で、神戸市長田区には関西地方で最初の寺院、和楽寺がある。釈さんは主に越南安寺と和楽寺で活動している。
神戸がベトナム人社会として大きくなったきっかけは1995年1月の阪神・淡路大震災だった。震災当時でも、神戸市内にはすでに800人近いベトナム人が暮していたとされる。技能実習生の受け入れが拡大する前から、神戸はベトナム人社会との縁を育む共生都市の最前線だったのだ。30年を経た現在、とくに長田区では多くのベトナム人住民が暮らしており、地域社会の一員として生活している。
関西地方で最初のベトナム寺院である和楽寺が神戸に建立されたのも、こうした歴史的背景を考えれば頷ける。
ベトナム戦争が終結した1975年以降、日本がインドシナ難民を受け入れ始めて間もなく、日本政府は、彼らの定住を支援するために神奈川県大和市と兵庫県姫路市にそれぞれ定住支援センターを設置した。その結果、関東では「いちょう団地」を始めとする神奈川県大和市周辺に、関西では兵庫県姫路市周辺に、難民は日本での定住先を確保し、生活圏を形成していった。

越南安寺。長く廃屋となっていた建物を生まれ変わらせた=大阪府高槻市
労働力の空隙を埋める
長田区役所地域協働課総務担当によると、長田区での経緯はこうだった。
「生活するためには当然、仕事が必要になります。難民として日本に来られた段階ではすでに大人になっているひとが多く、最低限の日本語教育を行っても、それまでの母国語であるベトナム語が身についていて、皆が皆、同じように日本語が上手になれるわけでもないんです。すると、仕事の多くは日本語を使わなくてもできる仕事に限られてきてしまうのです。幸い、神戸には第二次大戦後に大きな産業となった、日本を代表する靴の製造業が出来上がっていました。昔はケミカルシューズと言われたものです。この辺りでは靴の製造に携わる職人さんを『お針子さん』と呼んでいましたが、ちょうど難民が日本国内で職を探し始める頃は、このお針子さんと呼ばれた靴職人さんが皆、高齢化して、数も少なくなってきていました。ちょうど世代交代もあり、労働力が不足し始めているところに、ベトナムからの難民が入ってきたんです」
日本語が通じなくても働ける場所、それがケミカルシューズの生産現場だった。日本を代表する生産拠点であった長田区周辺に、ベトナム難民らは職を求めて定住していく。阪神・淡路大震災がさらにその流れを加速させた。長田区に住むお年寄りが言う。
「結局、復興の間も人間は働かざるをえません。すると、やっぱり日本人も、職を求めて神戸から外に出て行ってしまうんです。そして新しい場所での生活が出来上がると、もう帰ってはこんようになりました」

神戸市長田区にある和楽寺
製靴産業の現場を支えた
震災は長田区からの人口流出を加速させ、人口と労働力の空隙を埋めるように、長田区に移り住むベトナム人は、さらに数を増していった。
高齢化していたお針子さんら職人のなかには、震災を潮に引退する者も多くいた。日本ケミカルシューズ工業組合の関係者が説明する。
「このままでは職人さんも、人手も不足して成り立たなくなってしまうというところに、ベトナム人が沢山きてくれて、ケミカルシューズの現場は支えられたんです」
神戸の、長田区周辺の日本を代表する製靴産業は、ベトナムからの人々によって支えられ、持ちこたえたのである。だからかもしれない。同区地域協働課まちづくり担当は「幸いなことに、地元住民とベトナム人との間で国籍を理由とした軋轢や大きな反対運動というのは、これまでないんです」と話す。「もちろん、文化の違いは当然ありますから、多少の苦情といったものが寄せられることはあります。でも、それが地域社会を揺るがしたり、大きな分裂を生んだりさせたりするほどのものは不思議にないんです」

越南安寺の庭に咲くバラ。毎朝刈り取ったバラは、寺院の食堂や拝堂など至るところに飾られる=大阪府高槻市
つらくなったら来てほしい
僧侶の釈徳智さんにとって最初、長田区に設けられた和楽寺を手伝い始めたのが、日本で活動を始めるきっかけとなる。増え続ける技能実習生らの悩みや、自殺といった状況に接するたびに、心を痛めてきた。
「現在でも、日本国内では毎年60〜70人ほどのベトナム人が、交通事故や労働災害、溺水、急病、自殺など、さまざまな理由で亡くなっています。自殺に限れば数人程度ですが、異国で苦しみや孤独を抱えている人がいることに変わりはありません。だからこそ、つらくなったら寺に来てほしい。ここで心を休め、ベトナムを思い出し、また生きる希望を取り戻してくれたら嬉しいと思っています」
釈さんは言葉を選ぶように、こうも話す。
「働く環境や孤独、人それぞれなので、一括りにはできません。でも言えるのは、つらい、だけではなく、希望を失ってしまうからではないでしょうか。そんなとき、あそこに行けば、あそこに行けるっていう、ほんの少しだけの期待を持てれば、もしかしたら、絶望以外のことを考えられるかもしれない…だから、つらくなったらここがあるよって。そういう場所になればいい」
法務省の出入国在留管理庁によれば、2025年末時点で、日本にいる412万人超の在留外国人のうち、ベトナム人は68万1千人超を数える。中国人に次いで2番目に多い規模だ。
関西方面にはおよそ10万人のベトナム人が居住し、そのうち大阪府には3万人が在住しているとされる。新たにできた越南安寺は、神戸の和楽寺や、姫路にある2つの寺院とともに、こうした在日ベトナム人らの心の拠り所となることが期待されている。

仏像はひとつ。日本の仏像とは雰囲気が少し違う。仏具などはベトナムから運んだ=越南安寺
食堂や宿泊施設も
越南安寺は、長らく廃墟同然となっていた既存の建物を整備した。内装や設備は、すべて釈さんやボランティアの手によるものだ。釈さんによると、「まず清掃から。それから内装まで、ボランティアの人たちと一緒に1年以上かけて」作り上げた。
仏具を含めた設備や調度品類は、ベトナムからコンテナ2個の量を運んできた。ベトナムの人間国宝から寄贈されたものもあり、本国でも日本での活動への期待の大きさがうかがえる。「ベトナムは大乗仏教で、細かい宗派はないんです。ですから、誰でも心を寄せることができます。うちには信者の名簿などもありません。誰でも歓迎です。それで、心はひとつになればいい。そんな願いを込めて、仏像はひとつだけにしました」(釈さん)
地上2階、地下1階の施設には、食堂や宿泊施設もある。「日本で働いているベトナムの皆さんがつらくなったり、どこにも行き場がなくなったらここに飛び込んできて、そして気持ちが落ち着くまでいられるように」という配慮だ。「母国同様に心を落ち着けられる場所を」と個室も設けた。
地下の食堂施設は「ベトナムの人たちだけでなく、地域の日本の皆さんとも交流できる場にもなれば」と釈さんは期待する。ベトナム風おじやなど、絶品の味わいだ。

フローリングを含め、内装工事はすべて釈さんとボランティアで完成させた=越南安寺
一軒一軒、地元を説明して回る
越南安寺開院までの苦労は一筋縄ではなかった。釈さんが振り返る。
「とにかく、ご地元の理解を得ることがすべてです。私自身が一軒、一軒、ご挨拶を重ねて、さらに理解のある日本人の大学の先生にもご一緒していただきました。丁寧に丁寧に寺院の趣旨をご説明して、互いの顔が見えるように、こちらの考えていることが正確に伝わるように努めました」
折悪しく、日本では外国人に対する風当たりが強い時期とも重なってきた。
「ですから、ご地元の皆さんが少しでも不安に思われることがあればすぐに対応できるように、ご地元の方々とは電話番号も交換して、何かご迷惑がかかるようなことがあれば私自身ですぐに対処できるようにして、また、寺院に通ってこられるベトナムの皆さんにも、繰り返し丁寧に説明しています」
不安払拭のための地元理解にはとにかく徹底して、準備を重ねてきた。

越南安寺から見る風景。自然に抱かれている=大阪府高槻市
心身を病んでしまう前に
ベトナム寺院の果たすべき役割、期待される役割はこれまでになく大きい。
釈さんが向き合っているのは自殺だけではなく、交通事故や労働災害、急病を含め、在日ベトナム人のさまざまな苦悩や不幸な出来事だ。その中には若い世代の突然死もあり、それが近年、増えつつある。
自殺や突然死が増加する原因は、「やはり過労や生活環境ではないかと思います。もちろん、ストレスも含めて」。僧侶として釈さんは、若いベトナムの同胞らが心身を病んでしまう前に、心置きなく休息できる場所としてベトナム寺院を頼って欲しいと考えている。心身の安寧があってこそ、日本社会との調和もより深みを増すと釈さんは信じている。

自家菜園が越南安寺を囲んでいる=大阪府高槻市
蛍を見て故郷を想う
越南安寺の開院とほぼ同時期、東京・綾瀬市でも新しいベトナム寺院、大恩寺が開院した。日本社会とベトナム人社会との架け橋となるベトナム寺院が、各地で活動している。それは決してベトナム人だけのものではなく、日本人や地域社会、関係する人々にとっても新しい意味を育むものかもしれない。
釈さんが説く。「相手を理解、信頼するということでは、ベトナム人も日本人も、文化の違いはなく、一緒ではないでしょうか」
越南安寺の近くの川では、夏になれば蛍が舞う。昨年から、川の掃除も地域の人たちと一緒になって行っている。協働の先に蛍が舞う光景に、喜びが増す。訪れるベトナム人たちもまた、故郷の蛍を思い出すのだ。そして、「日本を第二の故郷として大切に思える心が芽生えれば」と釈さんは願う。
地下の駐車場にはツバメの若い雛が育っていた。
「こんなに雛が育って。もうすぐ巣立ちです。巣立つと、ツバメは海を渡ってベトナムへと飛んでいきます。そしてまた子供を育てるために日本に帰ってくる。ツバメも日本とベトナムを繋ぐ架け橋なんです」

食事には自家菜園のとれたて野菜も。庭に咲いたバラを毎朝食堂に飾っている
調和して生きていける社会を
越南安寺をはじめとする各地のベトナム寺院は篤志家や有志らによる寄付や協力で運営されている。釈さんは言う。
「日本という国は、私にとっても、日本で暮らす多くのベトナム人にとっても、第二の故郷なんです。この地で、外国人が日本人と共に調和して生きていける社会を築くことは、私たちにとっての責任であって、使命だと思っています。もちろん、私一人の力では到底足りません。ですから、どうか皆の、一人一人の手を貸してもらいたいと思っています。私は、きっと多文化共生社会を築くことができると信じています」
お志のある方や企業さんがあれば、ぜひ釈さんまでご連絡を差し上げてみられてはいかがでしょうか。釈さんのメールアドレスは Thichductrijp@gmail.com

















