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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑫衆院選の構図が一変

大蔵省関税局長だった谷川寛三氏を衆議院議員候補に引っ張り出した西岡寅八郎さんは、予想外に長く続く谷川氏の選挙運動に駆け回った。衆議院議員の任期満了まで1年を切った1976(昭和51)年1月、衝撃が高知県に走る。(依光隆明)

1970年、大蔵大臣当時の福田赳夫氏(右)と谷川寛三氏(左)=谷川氏の著作『清如蘭』より。中央の人物は「青木一男元大蔵大臣」と説明が入れられている

質素だった福田赳夫氏

当時、自民党衆議院議員のほとんどが派閥に入っていた。最も勢力があったのは田中角栄氏が率いる田中派。対抗するのは福田赳夫氏の福田派(清和会)で、「角福戦争」と呼ばれるほど対抗していた。ほかの派閥は三木武夫首相の三木派、大平正芳氏の大平派(宏池会)、中曽根康弘氏の中曽根派など。現代のような小選挙区制であれば、自民党の公認さえもらえば党が半ば丸抱えで応援してくれる。同じ政党の候補者同士が戦うことはあり得ない。ところが当時の中選挙区制は全く違う。派閥が党のようなものだった。派閥からカネが出るし、同じ選挙区で別派閥の候補と戦わないといけない。派閥の存在感は大きかった。

谷川氏は福田派に加わった。これは谷川氏本人が決めた。西岡さんによると、「福田さんが大蔵省の局長出身ということで、谷川さんが『福田に行かないかん』と言うた」。高知県選出の自民党衆議院議員は仮谷忠男氏が田中派、大西正男氏が三木派。藤山愛一郎派が消えたため、田村良平氏は田中派に移っていた。田中派が2人もいるということは、谷川氏が田中派に入る選択肢はもともと低かったのかもしれない。いずれにしろ谷川氏は福田派に加わることになった。福田赳夫氏は大蔵省主計局長から政界に転じ、自民党幹事長や大蔵大臣、外務大臣を歴任した大物。1972(昭和47)年の佐藤栄作首相退任時には次期首相の最有力候補だった。そのときは総裁選で田中角栄氏に敗れたが、いずれ首相に就くとみられていた。

福田派から衆院選に挑戦すると決めたとき、谷川氏は福田邸へあいさつに行った。西岡さんは中平博県議と一緒に随伴した。

「福田さんの家はごくごく普通の家でしたよ。朝行きましてねえ、福田さんは食事中やった。『入って来い』と言われて入って、お茶をもろうて…」

エプロンをかけたお手伝いさんがお茶を入れてくれた。

「福田さんはふっくらした顔やった。いろいろ話をして、『引き揚げよう』となった。エプロンをかけた人が玄関先まで送ってくれたので、中平さんがふと『奥さんはおいでませんか?』と聞いたら、『私が家内です』と。びっくりした。エプロンしてお茶を入れよったき、お手伝いさんとばっかり思いよった」

福田氏の家の質素さ、奥さんの素朴さが深く印象に残った。あとは庭も。

「ちっちゃい庭にリンゴを置いちょった。オウムが食べにきよった」

オウムかインコ(オウムとインコは見分けがつきにくい)がリンゴを食べに来ていたらしい。1960年代後半から70年代にかけて、東京では輸入インコをペットにするブームがあった。一部が逃げ出し、半ば野生化したものもあったといわれている。

ちなみに西岡さんは田中角栄氏の家にも行ったことがある。福田氏とは対照的だった。

「誰かが『連れて行っちゃらあ』ゆうて行ったけんど、大きなお屋敷で、貸切バスもどっさり来ちょって、チンて鳴ったら『次の人』ゆうて入っていく仕組みで。わし、呼ばれて入ったら開口一番『オウ西岡君、待ちよったぞ』と。オウ西岡君、と。これじゃも。それで気持ちはほぐれるわねえ。あの人心掌握術はすごいと思うた。田中さんには2回会うた」

もちろん田中氏とは初対面だ。高知から出てきた若い県議会議員に対し、政界第一の実力者が開口一番いきなり親しく名前を呼ぶ。そのときの驚きを振り返りながら、西岡さんは何度も「すごい」と繰り返した。

仮谷忠男氏急死の衝撃を伝える1976年1月16日の高知新聞夕刊

「突然心臓が止まった」

谷川氏を担いで次期衆議院選挙を戦うべく懸命に動いていた1976(昭和51)年1月15日、現職の建設大臣だった仮谷忠男氏が急死する。62歳だった。

翌16日の高知新聞を見ると、高知県に与えた衝撃が分かる。朝刊では1面トップで「仮谷建設相が急死」。社会面では「あまりにも突然…仮谷さん」。「信じられぬ突然の死」という地元の声を集めた記事もある。田中角栄前首相は写真付きで「信じられない」。夕刊は1面トップで「県政界に大波紋」。脇見出しがたくさんあって、「後継者擁立の声も」「野党も複雑な分析」「仮谷派の動きがカギ」。いつ解散総選挙があっても不思議ない状況にあって、最も当選確実だった現職大臣が急死したのだ。しかも仮谷氏は系列県議会議員の数が最も多い。急いで後継者を立てるべきだ、という声が16日付夕刊にはもう出ていた。

16日付高知新聞朝刊に仮谷氏が亡くなったときの状況が載っている。12月31日に高知へ帰郷し、1月2日に風邪をひいた。5日夜に高知から上京。6日の閣議に出席し、田中角栄氏のところにいってあいさつ。その日、かかりつけの病院にも足を運んでいる。そのときの見立てが主治医のコメントとして高知新聞に載っている。

〈四カ月ぶりにお見えになったが、インフルエンザからすでに軽く気管支肺炎を起こしていた。熱が三十八、九度もあったので、入院を勧めたが、「私は大丈夫、元気ですから」と笑っておられた〉

13日に往診し、再び入院を勧めたが、本人が拒否。高知新聞の記事によると、13日に持病のゼンソクが悪化したらしい。14日午後には高知から夫人が駆けつけて看病に当たっている。主治医のコメントはこう続く。

〈けさ(十五日)、具合が悪いとの電話があったので本人がいやがるのを無理に救急車で入院させた。夕方五時、突然心臓が止まった。急性心不全だった。持病のゼンソクと糖尿病、それに気管支肺炎の併発。(中略)もっと私が厳しく「このままでは死んでしまいますよ」と言っていたら、と今にして思えば残念でならないし、地元の皆様にも申し訳ない〉

建設大臣として、仮谷氏は本州四国連絡橋(本四架橋)の実現に情熱を傾けた。オイルショックで凍結されていた本四架橋の着工を「1ルート3橋」という手法で政治決着、凍結解除にこぎつけている。1ルートは児島―坂出ルートで、3橋は大鳴門橋、因島大橋、大三島橋。前年12月21日、本四架橋初の工事となる大三島橋の起工式に出たばかりだった。

「ロッキード総選挙」の公示を報じる高知新聞=1976年11月15日付朝刊

唯一の任期満了選挙

仮谷氏の死去で衆議院選挙の構図が一変した。最も注目されたのは県議会仮谷派の動向だったが、結果的に後継者を出すことはできなかった。自民党の公認は田村氏と大西氏、そして谷川氏の3人に決定。三木首相が解散権をふるえないまま、衆議院議員は任期満了を迎える。任期満了に伴う衆議院議員選挙は1976(昭和51)年11月15日公示、12月5日投開票で行われることとなった。

通常、衆議院は解散によって総選挙に入る。解散を決めるのは内閣で、国事行為として天皇が解散する。つまり実質的に解散権を握るのは内閣ということだ。内閣側は解散権を使って選挙を有利に運びたいので、任期満了まで解散しないのは異例中の異例。実際、任期満了による衆議院選挙は今に至るもこのときしかない。ロッキード事件で7月に田中角栄前首相が逮捕されたこともあり、この選挙は「ロッキード総選挙」と形容された。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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