今、西岡寅八郎さん(90)は「まさか四国銀行に裏切られるとは」と繰り返しつぶやいている。高知県知事や四国銀行頭取、高知新聞社長が集まった1978(昭和53)年の会合で、西岡さんは土佐電気鉄道(土電)の経営にかかわってほしいと要請された。引き受けた理由の一つは、父親の代から四国銀行に愛着を持っていたからだ。(依光隆明)

福田義郎氏=『高知新聞八十年史』より
外遊の福田氏に干物を託す
高知新聞の社主兼社長を務めていた福田義郎氏は、その会合で「人のためにやっちゃれ。俺が立会人になる」と西岡さんの背を押した。誰かが「ここにおる人の言葉は有価証券ぞ」とも言った。断り続けた西岡さんは、結局土電の取締役に入ることを承諾する。想定外だったのは、「立会人になる」と言った福田義郎氏が1980(昭和55)年5月に急死したことだ。
西岡さんの父、寅太郎氏が1971(昭和46)年に亡くなったあと、福田氏は西岡さんの後見人的な役回りを果たしていた。寅太郎氏と福田氏は同じ1908(明治41)年生まれ、仲のいい友人という間柄だった。寅太郎氏が元気だったころ、西岡さんは福田さんに何度か干物を届けたことを覚えている。「福田さんが外遊するとき、親父に言われて僕は開きの魚(干物のこと)を持って行かされよったんです。当時、姉がロンドン、妹がパリにおって、福田さんの案内をしよったですから。娘のところまで福田さんに干物を持って行ってもらうわけです。福田さんは『生ぐさい、荷物が生ぐそうなる』ゆうて文句を言いながら持って行ってくれました」。福田氏は異国を見ることを好み、1955(昭和30)年から1977(昭和52)年までの23年間に32回の外遊を行っている。昭和30~40年代はまだ外国行きの制約が多かっただけに、現地では友人の娘を案内役にしていたのかもしれない。寅太郎氏は寅太郎氏で、その機会に娘へ高知の干物を届けていた。新聞社トップの荷物の中に娘への干物を加えてもらっていた。
仕事上の付き合いもあった。寅太郎氏は高知市の大橋通を拠点に富士ハイヤーという会社を経営していた。昭和30年代は外貨不足のために(外貨の流出を防ぐために)外国車の輸入は制限されていた。外国車の購入は割当制で、割り当てを受けていたのは観光用のハイヤーと高知新聞などの報道機関。寅太郎氏は高知新聞が使ったあとの外車を富士ハイヤーに払い下げてもらっていた。併せて高知新聞は取材などで使うハイヤーに富士ハイヤーを使っていた。福田氏と西岡家とのつながりは深く、西岡さんは「掛水さん(福田氏の秘書、掛水俊彦氏)からいっつも電話がかかってきよった」と振り返る。
「立会人」を買って出た福田氏が急死したあとも、しかし西岡さんに不安はなかった。四国銀行とも太い絆で結びついていると信じていたからだ。四国銀行との紐帯(ちゅうたい)も寅太郎氏が築いていた。

旧伊野町中心部にある路面電車の伊野駅と、仁淀川上流の下八川=Google Earthより
「大国正宗」と「土佐泉」
西岡寅太郎氏は、正式には二代目寅太郎。先代の名、寅太郎を襲名して寅太郎となった。初代の西岡寅太郎(1857~1942)は、明治期に吾川郡下八川村(のち吾北村、現いの町)で雑貨店を開く。もともとは現在の土佐市宇佐町の出身だったらしい。初代寅太郎は製紙原料を扱って業況を拡大。明治末期の1800年代末には経済都市として成長していた吾川郡の中心地、伊野町(現いの町)に支店を作って大蔵省印刷局に製紙原料を納入するようになった。酒造業にも進出し、「大国正宗」「土佐泉」という銘柄の日本酒を醸造する。
当時、土佐の製紙原料といえば楮(コウゾ)と三椏(ミツマタ)が主だった。特に吾川郡のある仁淀川筋の楮は全国的にも評価が高かった。業況の拡大をばねに、初代寅太郎は満州に製紙工場を建設する。1931(昭和6)年の満州事変、翌年の満州国建国を契機として日本は満州(中国東北部)への産業移転を始めていた。それが地方の中小企業にまで広がったのは1937(昭和12)年頃。初代寅太郎が満州に工場を造ったのはそれ以降だと思われる。満州では工業化が急速に進展、包装紙や事務用紙、印刷用紙の需要が高まっていた。工場を置いたのは満州の大都市・奉天と輸出入の窓口だった港町の大連。西岡家がどのような紙を製造していたのかは分からない。満州には和紙原料はほとんどないので、木材などで作ったパルプ紙の工場だった可能性もある。いずれにしろ1945(昭和20)年の敗戦で工場をすべて失う。敗戦3年前に初代寅太郎は亡くなり、二代目寅太郎(以後は寅太郎氏と呼ぶ)が後を継いでいた。

昭和初期の伊野新町(現いの町新町付近)。土電の電車が走っている=『土佐電鉄75年の歩み』より
キーマン前野直定氏
戦争末期、統制策によって全国の造り酒屋は強制合併(整理・統合)させられる。高知県の酒蔵が整理されたのは終戦前年の1944(昭和19)年。西岡家が手掛けていた酒の醸造は、合併新会社の高知酒造が担うようになっていた。銘柄名は「花の友」。戦後、西岡家は製紙からも造り酒屋からも離れて酒の卸業者として再スタートを切る。当主となった寅太郎氏は下八川村の出身で、下八川小学校から高知商業に進んだ。戦時中は九州の三池炭鉱へ行っていたらしい。家業の本拠だった伊野に戻った時期はよく分からないが、土電の監査役に就いた1951(昭和26)年前後にはすでに県経済界で活発に動いていたと思われる。1955(昭和30)年には吾川郡の住民に推される形で県議会議員に立候補して当選する。
当時、おそらく福田氏以上に寅太郎氏と親しくなったのが大蔵省の官僚から四国銀行頭取となった前野直定氏(1911~1971)だった。前野氏は高知市出身で、寅太郎氏の3歳年下。1954(昭和29)年から17年にわたって四国頭取を務めた。西岡寅八郎さんはたびたび「四国銀行には愛着があった」と漏らすのだが、その源泉は前野氏と寅太郎氏との関係だと言っていい。たとえば、と西岡さんが振り返る。
「前野さんに言われて、四国銀行の東京支店の土地を世話したんですよ。東京支店は神田にありますが、それはもともと宝酒造という、京都の宝酒造という会社の持ちもんやったんです。宝酒造の会長というのは、石原裕次郎の面倒をずっと見よった人ですよ。その大宮隆さんという人とうちの親父が親しゅうて、それで神田の土地を売ってもろうて。四国銀行じゃなくて四国洋紙店という、まあ高知の人ですけんどね、親父の知り合い。その人がそれを買って、ビルを建てて、そこへ四国銀行の東京支店が入ったわけですよ」

四国銀行東京支店のある辺りを西から望む。右のビル街は丸の内と大手町。右下が皇居=Google Earthより
高知に「四天王」がいた
宝酒造というのは焼酎や日本酒を中心に製造販売する総合酒類メーカー。業況を一気に伸ばしたのは第3代社長も務めた愛媛県宇和島出身の技師、大宮庫吉(1886~1972)だった。その娘婿でのちに社長、会長を務める大宮隆氏は寅太郎氏とほぼ同年配。寅太郎氏の会社が高知県における宝酒造の代理店を務めていたこともあり、寅太郎氏とはきわめて親しかったらしい。
神田の土地というのは現在の千代田区内神田1丁目。皇居にも東京駅にも近い一等地だ。寅太郎氏が大宮隆氏にその土地を譲ってほしいと頼み、これも寅太郎氏と親しかった四国洋紙店に頼んで購入してもらった。四国洋紙店は現在、紙専門商社の東京四国紙グループとして発展を続けている。グループの本社は宝酒造が持っていたであろう内神田1丁目の土地に建てた9階建てビルで、1階に四国銀行が入っている。ビルができたのは1964(昭和39)年なので、寅太郎氏が汗をかいたのはその頃の話だと思われる。大宮隆氏は社長になる直前だった。
前野氏と寅太郎氏の関係を明かしながら、西岡さんが「四天王」の話に触れた。高知県には四天王がいた、と。どういうことだろうか。(つづく)

















