西岡寅八郎さん(91)が高知県議会議員に初当選したのは1971(昭和46)年4月だった。高校を辞めたときと同じく、このときも父親のことがきっかけだった。(依光隆明)

西岡寅太郎氏らの自民党入党を報じる記事=1956年7月13日付高知新聞朝刊より
「出たら義理が果たせますか」
1971(昭和46)年2月24日付の高知新聞朝刊一面に小さな記事が載っている。見出しは〈吾川郡区で変更 自民党の県議候補〉。自民党高知県連が〈西岡寅太郎氏(現職)の公認辞退を認め、代わりに同氏の長男、西岡寅八郎氏(新・会社役員)を公認候補とすることを決めた。寅太郎氏の辞退は健康上の理由〉と書いている。寅太郎氏はすい臓がんだった。
寅太郎氏は1955(昭和30)年4月の県議会選挙で初当選した。当選時は無所属だったが、1956(昭和31)年7月に自民党入りする。前年11月、民主党(鳩山一郎総裁)と自由党(緒方竹虎総裁)が合同して自民党が誕生していた。寅太郎氏は病気で1期休んだものの、3回の当選を重ねる。がんが分かったのは1970(昭和45)年の末か翌年の初めごろだった。西岡さんが言う。
「改選を前にした年末か、1月か。京都の病院で診てもらったら、親父はすい臓がんだと分かったんです」。改選期は4月だった。「四天王」や県議会仲間ら、寅太郎氏の周りの者が「これは大変だ、後継者を探せ」となった。
「(参議院議員の)塩見俊二さんの秘書が溝渕さんのところへ行って『西岡が出れんなったき、後継者を探さないかん』と言うたらしいです」
溝渕さんというのは県知事の溝渕増巳氏。同氏や四国銀行頭取の前野直定氏、高知新聞社長の福田義郎氏ら「四天王」の面々は善後策を協議したらしい。白羽の矢が立ったのは長男の西岡さんだった。当時、35歳。家業の酒販卸会社を経営していた。
「最初、細木善一郎県議と泉清利県議が来て、『出ろ』と。『なんで出なあいかん。嫌じゃ』と…」。15年近く前、寅太郎氏が選挙に出ることをきめた際に西岡さんは憤って高校を中退した。父親が政治にかまけて家業をおろそかにすると思ったからだ。高校を辞めてまで会社経営に力を入れているのに、自分が政治の道に進むなんて考えられない。
「それから溝渕さんと塩見さんの秘書が言うてきて、別の角度から福田さんが言うてきて…」。誰に言われても断っていた。最後、前野氏が来た。
「前野さんは溝渕知事と話してから来て、『お前が出え』と。『なんで出なあいかん』と答えたら、『親のすねをかじりゆう人間が太いことを言うな』と」。前野氏は43歳で大蔵省から四国銀行頭取となった人物で、何ごとも積極推進派。押しが強い。寅太郎氏とは親友と言っていい間柄だった。徐々に西岡さんは断れなくなっていく。
「『出たら義理が果たせますか』と前野さんに言うと、『果たせる』と。『じゃあ出ますわ』と…」
寅太郎氏が自民党公認だったので、それも受け継いだ。

西岡寅八郎さんの初当選を報じる1971(昭和46)年4月12日高知新聞朝刊。右下と左上に西岡さんの名が見える
9000票でトップ当選
「親父の選挙らあ1回も手伝うたことがないき、何をしてえいか分からんがですよ。嫌になって県外へ逃げようとしたら、細木県議と泉県議が親戚の者を呼んで『あいつに付いて逃げんように見よってくれ』と」。隙あらば逃げかねないと思われていたらしい。告示日の前日は泊まり込みで見張られた。「夜中に逃げるか分からんきゆうて、清水さんゆう人が自分の隣へ寝よりました」と振り返る。
西岡さんは西岡さんなりに選挙のことを考えていた。
「伊野だけは親父の後援会があったけんど、吾北や池川や春野にはなかった。自分が行って、同い年か年下の人たちと話をして、『選挙をやってくれんか』と頼みました。『自分の仕事をしてからやってくれよ』と」
中心部の伊野町は後回しにし、吾北村(現いの町)や池川町(現仁淀川町)、春野町(現高知市)を回って後援会を作った。若い層を中心に組織づくりをしたので、それらの人たちがその後も西岡さんの選挙を支え続けることとなる。
告示後だと思われる。演説会があった。「なんの演説をしたらえいがな」と言うと、誰かに「書いちゃらあ」と言われた。会場は伊野小学校の講堂だった。書いてもらった原稿を手に壇上を上がり、演台で原稿を書いた紙を広げると…。
「会場が暗うて、原稿が読めんのですよ。仕方ないので原稿を読むのはやめて、『皆さんにお世話になってきた親父が病気になった。親父の代わりにお前が出ろと言われ、自分が出ることになった。自分には右も左も分からないので、皆さんよろしくお願いします』と言うた。そしたらみんなが拍手してくれました」
投開票日は1971(昭和46)年4月11日。定数3の吾川郡選挙区で西岡さんは9016票を獲得、トップ当選を飾った。
当選後、西岡さんは寅太郎氏の病室を訪ねる。
「親父が入院しちゅう病院に行って、『何をしたらえい?』と聞いたんです。そしたら『お前のやりたいようにやれ』と。『俺は知事にも国会議員にも県会議員にも借りはない。やりたいようにやれ』と言われました」
西岡さんにそう言ったあと、寅太郎氏はこう付け加えた。
「『ただし2点だけ言っておく』と。『県会議員のバッジを着けていばるな。バッジなんかつけるな』ということと、『人に頼まれたことは一生懸命せえ。できざったときは報告をちゃんとせえ』です。その二つを言われました。だから僕は県議会議員のバッジは一回も着けたことはありません。『できざったときの報告』というのは、努力しなかったら報告に説得力がないということです。つまり、報告ができるくらい努力しろということでした」

現在の高知県議会=2026年3月10日
谷川寛三氏に的絞る
突然の候補者差し替えと、35歳での初当選。出馬を誰にも知らせなかったので、当選後に土佐高の元同級生から次々と電話がかかってきた。
「親父やのうて(なくて)おんしゃが出たがか」「おう」「なんで馬鹿みたいに自民党から出た」「親父が自民党やき自民党から出るしかないじゃいか」「おんしゃあ自民党を知っちゅうがか」「知らなあや」――という会話が繰り返されたらしい。
県議会に行くと、いきなりこう言われた。「あの若造に何ができりゃあ」と。西岡さんが振り返る。
「当時、自民党の県議会議員は老人社会でした。とにかく年寄ばっかり。会話にならん。『若造に何ができりゃあ』と言われたので、『よし、やっちゃる。手づくりの国会議員を作っちゃる』と」
当時、自民党の県議会議員は国会議員ごとにグループができていた。当時、衆議院選挙は高知全県区(定数5)。自民党の衆議院議員は田中(角栄)派の仮谷忠男氏、三木(武夫)派の大西正男氏、藤山(愛一郎)派の田村良平氏がいた。それらに対抗するには手づくりで国会議員を作るほかない、と思った。
「親父のところへ行って、『誰かおらんか』と聞いたら『高知出身やったら谷川がおらあや。谷川のところへ行ってこい』と」。中村市(現四万十市)出身の元大蔵官僚、谷川寛三氏(1920~2015)。理財局次長や東京国税局長を歴任し、1970(昭和45)年に国税局長に就任していた。寅太郎氏が名を挙げたとき、49歳。
西岡さんの当選から3カ月後の1971(昭和46)年7月、寅太郎氏は高知市の病院で亡くなった。西岡さんは谷川氏に的を絞る。谷川氏は同年10月、大蔵省を退官して日本鉄道建設公団(鉄建公団)の理事に就いていた。(つづく)












-2-150x150.jpg)




