1975(昭和50)年10月27日未明、西岡寅八郎さん(91)はホテル三翠園に電話する。そこに宿泊している人物に用事があった。その名は尾崎清光。高知県の裏面史に欠かせない名だ。(依光隆明)

尾崎氏の知事選出馬表明を報じる高知新聞1975年10月28日付夕刊
「あんた、知事選に出ろ」
知事選告示は1975年10月29日に迫っていた。現職の溝渕増巳氏が6選を目指して出馬を表明し、前回は身を引いた元副知事の中内力氏も出馬を決めていた。前回溝渕氏を公認した自民党は、中内氏を公認。溝渕氏は無所属での出馬を決め、自民党が公認した中内氏の挑戦を受ける構図となっていた。
保守系有力候補同士の激突が回避されたのは告示直前の10月27日未明。病気のため溝渕氏が出馬を辞退する、という幕引きとなった。憤ったのは溝渕氏の支援者だ。すでに戦いは始まっている。カネを集め、ひたすら動き、支持票を積み…。必死で動いているさなかに担いだ神輿が消えたのだ。自民党の県議会議員も溝渕派、中内派に割れていた。さや当てを続ける相手方陣営に頭を下げる気になるわけがない。西岡さんが明かす。
「カネも集めたのに、なんなやと。ぞうくそが悪いき(不快なので)、電話したがです。午前3時、尾崎清光に」
尾崎清光氏の肩書は全日本同和会常任顧問、自民党県連総務、自民党佐川支部顧問、日本開発興業会長など。高知ばかりではなく日本社会の裏面と表層を行き来する人物だった。その尾崎氏が三翠園で溝渕、中内戦争の決着を待っていた。西岡さんは決着した直後、10月27日の午前3時に尾崎氏へ電話して溝渕氏の出馬辞退を告げ、さらにこう続けた。
「『あんた、知事選に出ろ。あした表明しろ』とゆうたがです。尾崎が『よし、出る』と言うので、『その代わり中内と話がついたらやめろよ』と言いました」
尾崎氏と西岡氏はともにこのとき40歳。尾崎氏は参議院議員選挙全国区に出る構えを見せており、政治への意欲は高かった。そこに西岡さんが火をつけた。いや、客観的に見れば西岡さんの電話に関係なく尾崎氏はこの知事選に出馬表明する腹を固めていたと思われる。じりじりしながら溝渕、中内会談の決着を待っていたに違いない。
尾崎氏はすぐに動いた。
翌日、1975(昭和50)年10月28日の高知新聞夕刊にこんな記事が載っている。見出しは〈尾崎氏が出馬表明 県知事選へ無所属で〉。記事には28日午前に尾崎氏が県庁内の県政記者室で翌日告示の県知事選への立候補を表明したこと、28日午前に自民党へ離党届を出すことが書かれている。出馬の理由として、その記事には〈「溝渕知事が出馬を見送ったのは単なる病気のためではなく、中曽根幹事長ら自民党幹部の圧力によるものだ」とし、「県民に広く私の所信表明をし、自民党の反省を促すために立候補を決意した」と述べた〉ことも盛り込まれていた。

宮崎学氏の『突破者-戦後史の陰を駆け抜けた五〇年』(1996年南風社)
「それで弘瀬が偉うなった」
その日、10月28日の午後、尾崎氏から西岡さんに電話がかかってきた。
「『知事と話ができるようになった』と言っていました」と西岡さんが明かす。話ができるようになった、というのは中内氏の懐に入ることができたという意味だろう。中内氏はおそらく知事になる。ということは県庁に食い込むことができる。出馬辞退と引き換えに、尾崎氏は得たいものを得た。
尾崎清光氏は佐川町の出身で、上京して暴力団や国会議員事務所に出入りしながら活動したあと1972(昭和47)年ごろに帰郷。佐川町を拠点に、行政や同和団体を徹底的にかきまぜることで存在感を高めていった。ささいな端緒を見つけてそこを突く。食らいついたら離さない。拡声器でがなる。電話をかけまくる。呼び出す。脅す。告訴する。民事訴訟を起こす。騒動を広げるだけ広げ、相手が音を上げるまで手を緩めずに騒いでカネに変えるという術に長けていた。作家の宮崎学氏は自伝的ノンフィクション『突破者』(1996年)の中で尾崎氏を「エセ同和の帝王」「恐喝の天才」と評している。そのような人物が知事選に出たらどんなことになるか分からない。徹頭徹尾、反中内キャンペーンを繰り広げるかもしれない。ささいな不始末でも見つければ、そこを徹底的に突くだろう。しかも尾崎氏は自民党の肩書きを持っていた。つまり身内筋だと言っていい。尾崎氏が有権者の反感を買うような行動を取れば取るほど自民党もダメージを受ける。
尾崎氏が出馬表明をした直後、中内氏の陣営が尾崎氏に接触したことは容易に想像できる。出馬を辞退してもらうには「おみやげ」がいる。それが「知事と話ができるようになった」こと。つまり県庁にがっちりと食い込めたことだった。
「あれが間違いのもとやったわねえ」と西岡氏は何度か繰り返した。尾崎氏の県政への食い込みは想像を超えた。「あれから弘瀬が正月に県庁へ来だしたきねえ。それで弘瀬が偉うなったわねえ」
弘瀬というのは高知市の桂浜で土佐闘犬センターを経営していた弘瀬勝氏。2カ月後に知事選が迫った1975(昭和50)年8月、ある財団法人が設立されていた。「とさいぬ保存登録協会」。設立準備会議長は尾崎清光氏で、設立発起人代表が弘瀬勝氏。登記上の住所は弘瀬氏の自宅になっていた。西岡さんも指摘するが、尾崎氏と弘瀬氏の関係は深かったと思われる。行政への食い込みや暴力団との微妙な関係、声の大きさ、派手な外車を乗り回すところなど、尾崎氏と弘瀬氏は共通点が多かった。弘瀬氏が5歳下だが、いわば持ちつ持たれつの関係だったのかもしれない。
「正月に県庁へ来だした」というのは弘瀬氏が県庁幹部を集めて訓示し始めたことだ。毎年、正月明けの仕事始めに弘瀬氏が県庁に乗り込んで居並ぶ幹部に訓示を与えるようになった。17年後、知事が中内力氏から橋本大二郎氏に交代したあとに橋本氏が弘瀬氏の訓示を知って激怒する。驚くべきことに、県庁幹部は「もうやめろ」という橋本氏の指示に逆らって弘瀬氏による訓示を続けさせた。当時の県幹部は知事よりも弘瀬氏の方を向いて仕事をしていたということになる。橋本氏は弘瀬氏と県庁とのしがらみを切るべく動く。県体育協会の重鎮となっていた弘瀬氏と橋本氏の暗闘が2002(平成14)年のよさこい高知国体を前に火を噴くのだが、それはのちに触れる。
その原点、弘瀬氏が県庁に訓示に来始めるきっかけが尾崎清光氏の知事選出馬表明だったと西岡さんは明かす。中内知事が尾崎氏に出馬辞退という「借り」を作ったことが弘瀬氏の訓示につながった、と。

高知新聞の『黒い陽炎』(2001年高知新聞社刊)。のちに新書版も出た
知事室へも出入り自由
実は尾崎氏は溝渕知事の時代から県庁に食い込んでいた。1975年知事選から1年後の1976年11月30日、尾崎氏は参院選全国区への出馬を視野に『憂国への出発―政治に新しい息吹をふきこもう』という単行本を上梓する。この本の冒頭に「推薦の言葉」を寄せた一人が溝渕氏だった(ほかの2人は衆議院議員の園田直氏と政治評論家の戸川猪佐武氏)。溝渕氏は「尾崎清光氏は、行動と実行の人である」「多方面に亘る実業家として土佐の生んだ怪物と異名をとり、地元の期待を一身に担っている」「共産党と対決する決意は出身地、佐川町に於ける体験に基づいたものであるだけに私達の胸に迫り、同感の意を深くする」「私は氏の将来に大いなる期待をもっている」と最大級の賛辞を寄せている。
知事が代わって県庁との関係が切られたら困る、それが出馬表明を“脅しネタ”に使った中内氏への食い込みだったと想像できる。出馬辞退をえさにして首尾よく中内氏に食い込むことができ、おそらく溝渕知事時代以上に県庁内を闊歩できるようになった。象徴の一つが弘瀬氏による正月訓示だった――と推察される。
2001(平成13)年の高知新聞連載「黒い陽炎」(同名で単行本化)には、尾崎氏と県庁との関係がこのように書かれている。
〈尾崎氏は県庁内を闊歩し、知事室、部長室へフリーに出入りした。そこから省庁の幹部に電話をかけて人脈を印象づけたりもした。人脈は広かった。それこそ電話一本で建設省などの幹部に話をつけた。高知県警の手が入ったのは五十二年だった。「尾崎清光事件」と形容される企業恐喝。調べによると、尾崎氏は大手ゼネコンなどを脅して三億円の不法所得を稼いでいた。また県信用保証協会は同氏のグループ企業に二億一千万円の保証を付けていた。高知県警は丹念に金の流れを調べた。嫌がる被害者の口を開き、官民に広がる恐喝の全貌に迫ろうとした。当時、高知新聞の社説はこう書いている。「尾崎が県庁をわが物顔で闊歩しているさまを目撃した県民は少なくないだろう。なぜ彼は、それほどに幅を利かせていたか。深夜の電話戦術は有名だ。執拗に電話をかけられ、ノイローゼ気味になった県幹部の話も聞く。それにかかわる煩わしさは、だれしも敬遠したくなるだろう。だが、後退すれば必ずつけ込んでくる相手であることぐらいは、公務員として十分知っていたはずだ」。十分知っていながら、高知県庁は尾崎氏の闊歩を許していた。当時の知事秘書は、冬のさなかに知事公邸で知事にかかってきた尾崎氏の電話を受けた。知事につなぐこともできず、切ることもできず、もちろん反論もできず、寒さに震えながら、一晩中相手の電話を聞き続けるほかなかった。多くの県幹部が尾崎氏の影におびえた〉
引用されている社説は1977(昭和52)年の5月16日付。〈「尾崎清光事件」と形容される企業恐喝〉で尾崎氏が逮捕されたのは、3カ月前の同年2月だった。当時の新聞記事によると、被害額は恐喝金の8600万円。不法取得金が2億3000万円。尾崎氏を逮捕した県警に対し、県民が喝さいを送ったことも記事にある。
『憂国への出発』には溝渕氏のほか全日本同和会名誉会長だった松尾正信氏、国際勝共連合会長の久保木修氏、韓国の国会議員で、のちに副首相となる崔永喆氏らとのツーショット写真も載っている。巻末にある戸川猪佐武氏との対談「保守革命は若人の手で」では参議院選挙への出馬を明らかにしていたが、出版からわずか2カ月余りで尾崎氏は逮捕。参院選出馬は立ち消えた。

高額所得者の公示を報じる1983年5月2日付高知新聞夕刊。「長者番付」とも呼ばれたこのランキングで尾崎清光氏が四国一に躍り出た
所得番付で四国一に
「尾崎清光事件」で有罪(執行猶予付き)が確定したあと尾崎氏は東京に活動の拠点を移す。「日本同和清光会」という団体を作り、同和問題を前に押し出しながら活動していたらしい。県民を驚かせたのは1983(昭和58)年5月発表の所得番付で尾崎氏が四国のトップに躍り出たことだ。所得金額3億19万円。所得が3億円を超えたのは四国で尾崎氏だけ。2億円以上も8人しかいなかった。8人の中で医師が5人。尾崎氏を除く残りの2人は大王製紙の経営者一族で、二人とも所得の大部分は退職金だった。高知新聞は5月2日の夕刊でこう書いている。〈今年の四国一位は高知市宇津野の尾崎清光・日本開発興業会長。申告所得金額三億十九万円で、複数の会社の役員報酬による所得とみられる〉
税務署が高額所得者を発表していたのはこの年まで。翌年からは納税額の発表に変えたので、尾崎氏は「最後の長者番付四国一」となった。
翌1984(昭和59)年1月、尾崎清光氏は都内の病院で射殺される。宮崎学氏の『突破者』はこう書いている。
〈その末路もいかにも悪党にふさわしいものだった。八四年一月三〇日の夜一〇時頃、入院中の東京女子医大特別室に在室中の尾崎を、ハンチング、白マスクの三人組の殺し屋が襲った。三人いた尾崎のボディーガードはなぜか病室から姿を消していた。殺し屋の一団は病室に入るなりサイレンサーで尾崎の後頭部と背中を銃撃し、さらにドスで背中をえぐってとどめを刺した。そして、平然とした素振りで病院から逃走した。この間わずかに三十秒足らず。明らかにプロの殺し屋の犯行であった。享年四八歳〉
尾崎氏と西岡さんの関係はさほど深かったわけではない。1970年代の前半ごろ、尾崎氏からあることを求める電話があり、西岡さんがそれを断ったことから尾崎氏が激怒--というのが知り合う発端だった。(つづく)

















