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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑰社会に暴力団がいた時代

1974(昭和49)年ごろのことだったと思われる。県議会議員を務めながら家業の酒販卸を営んでいた西岡寅八郎さんに電話がかかってきた。(依光隆明)

尾崎清光氏の著書『憂国への出発』(1976年)より。街頭で演説をする尾崎氏

大きな男が頭を下げる

「朝6時ごろでした。『尾崎です』と名乗る電話がかかってきました」と西岡さんが説明する。「尾崎ち誰ぜ?」「尾崎清光です」「どうした?」「あの場所、貸してくれんか」というやり取りだったらしい。尾崎清光氏が「貸してくれ」と言ってきたのは高知市中心部の土地だった。電車通りを挟んで大橋通の南にあった富士ハイヤーの旧本社跡。富士ハイヤーは西岡さんの父親が作った会社だった。参議院議員選挙全国区に出るので、そこを事務所にしたいと尾崎氏は言ってきた。当時、県内ではもう尾崎氏の名は知られていて、佐川町の混乱ぶりが新聞で報じられてもいた。西岡さんが振り返る。「『イメージが悪い。嫌じゃ』と答えたら尾崎は怒って、『覚えちょれよ‼』と電話を切りました」

尾崎氏の頼みを正面から断る人は少なかった。だから尾崎氏は行政を始め金融機関、ゼネコンなどさまざまな組織に食い込んだ。西岡さんが言う。「あれは必ず朝6時ごろか夜遅くに電話してくるんです。電話された相手は嫌がって、そのうち『ハイハイ』と言ってしまう。それさえ録音したら目的を達したということです」。深夜であろうと早朝であろうと尾崎氏は電話を切らない。耐えかねて相手はつい「ハイハイ」と言ってしまう。それを言質として尾崎氏は一歩踏み込んでくる、というスタイルだったらしい。西岡さんは尾崎氏と面識はないが、名は知っていた。即座に断り、尾崎氏を怒らせた。

その日の午前8時前だった。西岡さんの家を知り合いが訪ねてきた。

「中山ゆきおさんが来ちゅうがです。『何事ぜ?』とゆうたら、後ろの大きな男が『先ほどは失礼しました。こんな偉い先生とお付き合いしゆうとは知りませんでした。仲良うしてください』と。その男が尾崎清光でした」

東海テレビ制作「ヤクザと憲法」公式ページより

社会悪か、社会の枠外か

西岡さんが話を続ける。

「中山ゆきおさんは豪友会の会長やった中山勝正さんのお兄さん。先に知り合うたがは勝正さんながよ。酒を配達しゆう先に勝正さんと懇意な女性がやりよった飲み屋があって。それで勝正さんと知り合うて、そうこうするうちにお兄さんの中山ゆきおさんを知った。お兄さんは高知市議選に出て落ちたこともあった」

豪友会というのは当時、高知県で最も勢いがあった暴力団。構成員1万人を超える広域暴力団山口組の二次組織で、会長の中山勝正氏(1937~1985)は10年後の1984(昭和59)年に山口組のナンバー2である若頭に就任。翌年、山口組四代目組長とともに抗争相手に射殺されている。豪友会はもともと山口組系暴力団中井組の傘下で生まれ、やがて中井組をしのぐ勢力を持つようになった。豪友会を一から育て、40代で山口組のナンバー2に上り詰めたこともあり、中山勝正という名は高知県では一種畏敬をもって語られることもある。年齢は西岡さんの2歳下だった。

何度も念押ししなければならないが、暴力団に対する見方は現代と50年前では全く違う。かつて暴力団は社会の一員だった。社会の構成員だったからこそ暴力団を生々しく描く映画がテレビでも放映されたし、「暴力追放運動」も盛んに行われた。転機は1992(平成4)年施行の暴力団対策法だった。度重なる法改正に加え、2010年ごろから全国の自治体で施行された暴力団排除条例(こちらの方が実質的に厳しい)が暴力団の存在自体を社会から排除した。さらに各種団体、企業が採用した暴力団排除条項(反社条項)が追い打ちをかけた。たとえば何かをしようとすれば「暴力団ではない、反社会的勢力ではない」という項目にサインしなければならない。これによって暴力団の構成員は実質的に銀行口座を作れない、アパートを借りられない、携帯電話を持つこともできないようになってしまった。社会から追い出された、と言ってもいい。もちろん暴力団なんてない方がいいが、それを社会悪(社会の構造・制度そのものが生み出す害)ととらえるのか、本気で社会から抹殺しようとするかでは質が全く違う。住居の確保のような基本的な生活権さえ奪ってしまっていいのか、更正の道を断つことにもなるのではないか、そうなると無限ループのように裏街道を歩くしかないのではないか、それが匿名・流動型犯罪グループ(トクリュウ)の増加につながっているのではないか、そもそも暴力団員だからといって基本的人権すら認めないのは憲法違反ではないか、という議論も一方にはある。

2015(平成27)年に制作され、翌年に映画化されて反響を呼んだ東海テレビ(名古屋)の「ヤクザと憲法」はまさにそこを突いている。100日間にわたって大阪にあるバリバリの暴力団事務所にテレビカメラを入れ、生身の暴力団構成員の素顔、生態を国民の前に提示した。書類を出しながら「親がヤクザやからねえ、幼稚園来てくれるなゆうことです」と説明する暴力団の会長。迫力ある映像を続けざまに出しながら、日本社会は憲法の傘から彼らをはみ出させている、という問いかけを発した。

東海テレビ制作「ヤクザと憲法」公式ページより

「暴力団とは話をしない」

西岡さんが土佐電気鉄道(土電)の会長と高知県議会議員を放逐(形は辞職だが、実質的には放逐)された決め手は暴力団問題だった。2013(平成25)年に勃発した土電問題の要点は、当時の土電社長に暴力団の威を借る疑いが出たこと。土電本社で株主の一人に、かつて山口組系暴力団組長だった県外に住む高知県出身者(故人)の顔写真を見せたのだ。同じ部屋に西岡さんがおり、この元暴力団組長と交流があったことを指摘されて西岡さんも指弾された。この問題はのちのち触れるが、顔写真の人物が暴力団組長だったのは30年も前の話。西岡さんとその周辺は「30年もたったら一般人だ」という感覚を強く持っている。例えば暴排条例は暴力団組員に「5年ルール」を課している。暴力団を辞めても5年間は暴力団扱い、5年過ぎれば暴力団員と見なされなくなるということだ。暴排条例でいえば、30年前の暴力団員は一般人という扱いになる。しかも西岡さんや土電社長が知り合った際、この元暴力団組長は名古屋高知県人会の世話役的な仕事をしていた。土電社長が写真を出したときには故人となっていたし、写真を見せたのも土電社長であって西岡さんではない。それなのになぜ自分が県議会でも報道でも徹底追及され、社会的地位に加えて財産すべてを失わなければならなかったのか、と西岡さんは思い続けている。

特に四国銀行とは父親の代から極めて良好な関係だと信じていた。ところが西岡さんによると、2013年の土電問題勃発から四国銀行経営陣は「暴力団とは話をしない」と言って西岡さんを完璧にシャットアウトした。それでいて、土電の借入金に連帯保証人として署名押印していたことを根拠に西岡さんへ25億円の保証債務残高を突きつけている。要するに〈あなたは土電の連帯保証人だから土電の債務25億円はあなたの借金なんですよ〉と通告している。そのとき既に西岡さんは土電の役員を引いていた。元役員に累積した社の債務を押し付けるのであればまず話し合うのが社会的常識だが、客観的に見て四国銀行は話し合おうとはしていない。そればかりではない。話し合いを忌避する理由付けに「暴力団」を使ったように見える。西岡さんを「暴力団だ」とレッテル張りすることで話し合いを拒否し、銀行破産(銀行申し立て破産=銀行が裁判所に申し立てて個人を破産させる)に追い込んだ構図に見えるのだ。西岡さんが何度も強調するのは、交渉をしようとしても「暴力団とは話さない」と突っぱねられたこと。法的根拠は不明だが、当時の四国銀行経営陣は西岡さんを暴力団と認定したと思われる。暴力団と認定した上で、暴力団と同じように西岡さんを社会の外に追い落とした。

金科玉条のように使われた「暴力団」という表現に、西岡さんは全く納得していない。今の感覚で過去を見ることにも納得していない。西岡さんの脳裏には、暴力団がまだ社会の一員だったころの記憶が残っている。

2日前に行われた高知市議選の最終結果を報じる1959(昭和34)年5月2日付高知新聞朝刊。この選挙は67人が立候補し、36人が当選している。中井組組長だった中井啓一氏の得票は2000票を超え、67人の中で4位当選を果たした

組長は市議会議員

話を戻す。尾崎清光氏を伴って西岡さんを訪れたのは中山勝正氏の兄だった。「尾崎が西岡に会いたい言いゆき、連れてきた」と話していた。その兄を、尾崎氏が「私の先生です」と言っていたことを西岡さんは記憶している。その後、尾崎氏は佐川から高知市に出てくる途中に西岡さんの家や会社へ寄るようになった。「大きな車で来よった」と西岡さん。「乗りませんか?ゆうき、『嫌じゃ』と断ったりして。尾崎はいつもバッグへ300万円入れちょった。土建業者からゆすりよったがやと思う」

西岡さんによると、中山勝正氏の親分筋に当たる中井組の組長に尾崎氏は高級乗用車のベンツをプレゼントしていた。西岡さんは「豪友会の幹部には背広をやりよった。(デパートの)大丸で作った背広。尾崎は大丸へ毎月200万払いよった」とも。さらに「大丸だけにはきっちりとカネを払いよった。非合法で稼いでもたまらんわねえ、(暴力団に)全部抜かれるき」。

西岡さんの若いころ、暴力団は社会に根付いていた。例えば中井組の中井啓一組長(1924~1991)は組長の傍ら高知市議会議員も務めていた。暴力団の看板は街のあちこちにあり、暴力団員が普通に街を歩いていた。暴力団から迷惑を受ける人も多く、暴力追放の看板もたくさんあった。社会の一部に暴力団が組み込まれていたからこそ暴力団の暴力が目に余ったし、暴力追放の動きも盛んだった。

良い悪いは別にして、西岡さんは暴力団だからといってことさら避ける規範を持っていない。背景には育ってきた環境がある。「親父はピンからキリまで付き合いよったき」と西岡さんは言う。父、寅太郎氏が分け隔てなく人と付き合っていたということを意味している。寅太郎氏が中井啓一氏を知ったのは議員同士という関係だったらしい。寅太郎氏が高知県議会議員となったのは1955(昭和30)年4月。中井氏は4年後の1959(昭和34)年4月、高知市議会議員に初当選した。既に暴力団中井組を立ち上げ、その組長だった。西岡さんは「議員同士ということで、(寅太郎氏と中井氏が)知り合った」と説明する。西岡さんは寅太郎氏の県議出馬をきっかけに土佐高を辞め、1959年当時は家業の酒販卸業に精を出していた。西岡さんが中井氏と初めて会ったのは中井氏が高知市議会議員だったとき。会うきっかけは犬だった。

「親父にシェパードがほしいと言っていたんです。そしたら中井さんが親父に『シェパードの子が4匹産まれたき、1匹やる』と」。西岡さんがシェパードを欲しがっているのを寅太郎氏が中井氏に話したのかどうか、とにかく中井組長が子犬をくれることになった。

「確か中央公園の横に中井さんの事務所があったと思います。親父が『俺の名刺を持って行って「シェパードがほしい」と言え』と言うので、事務所に行きました」。西岡さんは中井氏の事務所に行って訪いを入れた。「そしたらごっついの(体が大きく威圧感ある男)が2人出てきて『なんな!』と。名刺を渡して『中井さんに会いたい、シェパードをもらいに来た』と言って」。無事に中井氏と会い、シェパードを1匹もらってきた。

中井氏は4年後、1963(昭和38)年の選挙で落選し、政治の世界から身を引く。そのころ中井組の若頭に就くのが中山勝正氏だった。中山氏の豪友会が中井組から独立するのは1970年代の初めだったといわれている。西岡さんは1971(昭和46)年4月に病気の父親に代わって県議会議員選挙に立候補し、当選していた。県議になる前から中山氏を知っていたので、付き合いは長い。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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