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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール㉑もう選挙はやめて

おそらく1992(平成4)年の初め、西岡寅八郎さん(91)は参議院議員だった谷川寛三氏の妻に呼ばれる。相談ごとは意外な内容だった。(依光隆明)

谷川寛三氏の参院選二期目当選を報じる1986年7月7日付高知新聞夕刊。見出しは「ゆうゆう再選」。1議席を争う高知選挙区は自民党公認候補に有利だった

銀行から借金していた

西岡さんが1976(昭和51)年の衆議院選挙に担いだ谷川寛三氏は、二期目を目指した1979(昭和54)年の衆院選で落選。参院に転じ、翌1980年から参議院議員となっていた。二期目末期の1991(平成3)年11月に科学技術庁長官となり、政治家としてのいわば絶頂期を迎える。東京に住む谷川氏の妻に呼ばれたのは、まさにそのころだった。

谷川氏の改選期は1992年の7月。現職閣僚として余裕の選挙戦となるはずだった。妻と会ったときのことを西岡さんが回想する。「奥さんは『選挙をこれ以上やったら実家の土地も売らなあいかん』と言うがです」。選挙資金のために財産を使い果たし、これ以上選挙をすれば妻の実家の家屋敷も人手に渡る、という話だった。選挙資金について、西岡さんは高知県内に住む谷川氏の甥に任せていた。谷川氏の資産を削って選挙をしているなんて聞いていない。谷川氏の妻に尋ねた。「『甥がきれいにやりゆうでしょう?』と聞いたんです。そしたらぜんぜん。カネ集めをしてなかったんです。集金力ゼロ。カネは全部銀行で借りちょった。谷川さんはそんなこと知らんですきねえ」

谷川氏が衆議院議員選挙に初挑戦するとき、西岡さんは県内を駆け回って選挙資金を集めた。ピンチのときにカネを融通してくれた漁業関係者のことは忘れられない。その苦労は今でも記憶にあって、『あのとき○○さんには世話になった』と口にすることがある。ところが甥は銀行借り入れで選挙資金を賄っていたらしい。「銭ができたできたゆうき、てっきり集めちゅうと思うたら銀行で借りちょった」

銀行で借りるということは、担保を差し出すことを意味している。谷川氏の妻の父は高名な検事だった。最後の資産といえる東京の家屋敷までこのままでは人手に渡ってしまう、と谷川氏の妻は訴えた。西岡さんが言う。「(次期参院選に向けた自民党の)公認はもろうちゅうがです。公認はもろうちゅうけんど、奥さんは『もう(立候補準備を)進めんとってくれ』と…」。西岡さんが解説する。「中選挙区制の時代、例えば衆院選は高知でも選挙資金が4~5億円かかったんですよ。谷川さんは福田派に行ったからカネがないんです」。この時代、カネと勢いがあるのは田中派(のち竹下派)だった。2000年代に入って最強勢力となる清和会(福田派)は、この当時はカネ回りがよくなかったらしい。

平野貞夫さん。1992年の参議院選挙に自民党と公明党の推薦で無所属候補として出馬して当選。二期目は自由党公認で比例区から出て当選。二期12年間、自民党や民主党などの参議院議員を務めた。2024年1月21日に高知市の自由民権記念館で行われた「金権より民権! 平野貞夫×前川喜平×佐高信 【3ジジ放談@高知】」で=デモクラシータイムスより

ゴムバンドの100万円

家庭の問題だけではなく、外でも逆風が吹いていた。「大旺の中谷会長から『谷川さん、いつまでやらすぜ』と言われたんです」と西岡さん。当時県内トップのゼネコンは大旺建設で、社内で圧倒的影響力を持っていたのが会長の中谷健氏。1990(平成2)年から衆議院議員を続ける中谷元氏(68)の父親だ。「大旺の会長は全国のナントカ協会の会長をやりよって、竹下さんが顧問やった。竹下さんは前々から平野を国政に出したかったらしいですねえ」。竹下というのは1987(昭和62)年から89年にかけて首相を務めた竹下登氏。平野は土佐清水市出身の衆議院事務局職員、平野貞夫氏(90)のことを指している。平野氏は竹下側近の小沢一郎氏(84)と盟友に近い付き合いがあり、その関係で竹下派が政界に担ぎ出そうとしていた。

当時の報道によると、最初に考えたのは高知県知事選だったらしい。半年後に知事選を控えた1991(平成3)年6月、小沢一郎氏の意を受けた党本部副幹事長の中西啓介氏から自民党高知県連に「川崎では難しい。評判がよくない。平野はどうだ」と電話がかかってきた。川崎氏とは大蔵官僚を経て高知県副知事を務めていた川崎昭典氏。小沢氏の周辺は川崎氏が選挙に向いていないことを調べていたことになる。慌てた県連は急いで党本部に根回しし、初期消火に成功した。予定通り公認候補として川崎氏を担いで知事選に臨む。このときの県連会長は谷川氏だった。小沢氏側の情報が正確だったと分かったのは開票日の夜だ。落下傘候補だった元NHK記者の橋本大二郎氏(無所属)にトリプルスコア的な差をつけられて川崎氏は敗北する。自民党県連は足元からガタついた。

そのあと小沢氏が目を付けたのが参院選高知地方区、つまり谷川氏の選挙区だったと思われる。県連の動揺を見透かすように「平野は参院選に出る」が噂として流れ始め、それが中谷健氏の「いつまでやらすぜ」という言葉につながっていた。中谷氏は「竹下さんに会うてくれ」とも言った。「健さんは竹下さんと親しかったみたいですねえ。会うてくれと言われたので、竹下さんに会いに行きました。竹下さんは、『小沢一郎預かりで平野というのを参議院に出したい。高知から出したい。谷川さんと話がつかんか』と」。平野氏は1992年2月29日に自民党県連へ推薦願を出し、直後に県庁で正式出馬会見を開いている。竹下氏と西岡さんが会ったのはその前だと思われる。竹下氏の話を聞きながら、西岡さんの脳裏で谷川氏の妻の話がリンクする。すぐに西岡さんは谷川氏の妻のところへ足を運んだ。「奥さんに『谷川先生に引いてもらおうかと思いよります、どればあ借金がありますか?』と聞いて…」。再び竹下登氏のところに出向く。竹下氏は「交代してくれるか」と喜び、「あとは青木と話してくれ」と言った。竹下氏の秘書から国政に転じ、小渕恵三内閣の官房長官などを務めた青木幹雄氏の弟のことだ。

「青木幹雄さんの弟が竹下さんの秘書をしよって、あとは青木秘書がやってくれました」。西岡さんは青木秘書と何度も会って話を詰めた。最終的に、現金を黒い袋に入れて谷川事務所まで持ってきてもらった。「ゴムバンドで止めた100万円の束でした」と西岡さん。銀行でもらう100万円の札束には帯封に銀行名や日付が押印されている。新札以外でもらったとしても、これでは帯封から出所をつかまれる。万が一の事態を考え、帯封を使わないのは有力政治家の常識だったらしい。竹下派から谷川氏に入るのは1憶5000万円だった。100万円の束が150個。多いようだが、「借金を全部返すことはできざった」と西岡さん。次期参院選は7月。間近に迫っていた。「ポスターとかいろいろ、もう準備していましたからねえ」。選挙に向けて高知市内に後援会事務所も開いていたし、すでにかなりの費用を使っていたということだ。もちろん谷川家の借金返済にも回し、「谷川さんの借金を全部返すところまではいかざったけんど、奥さんの実家の家屋敷は残りました」と明かす。

谷川氏が出馬辞退を発表したのは4月3日だった。西岡さんは「公認取り消しで出馬をやめた。(竹下氏から現金をもらったことは)谷川さん本人はおそらく知らないでしょう。世間は『広田勝が谷川を平野に替えた』と思うちゅうけんど、事実は違う。一番は家庭の問題でした」。広田勝氏は土佐清水市を地盤とする県議で、当時の自民党県連幹事長。のちに二度国政へ挑戦して果たせなかった。息子の広田一氏が父親の後継県議となり、現在は徳島・高知選挙区選出の参議院議員を務めている。

山岡謙蔵氏の出馬表明を載せた1982年4月8日の高知新聞夕刊

山岡さんが出てくれた

1980(昭和55)年に谷川氏が参議院へ移ったあと、西岡さんが衆議院議員候補に担いだのは同僚県議の山岡謙蔵氏だった。西岡さんが言う。「福田赳夫さんが僕に(衆院選へ)『出ろ』と言うてきたんです。ほかにもあちこちから言われたけんど、僕はやる気ないき。とにかく逃げないかんと思うて、必死に人を探して。山岡謙蔵さんに「カネは何とかするき」と言うたら受けてくれた」。福田赳夫氏は谷川氏が所属する福田派の領袖だ。福田氏は福田派から谷川直系の候補を出したかったのではないだろうか。山岡氏が決意を固めたのは1980年の後半か81年だったと思われる。山岡氏は1982(昭和57)年3月19日に県議会議長となり、20日後の4月8日に衆議院議員選挙への正式出馬表明を行った。

山岡氏は高知市議から県議になって西岡さんと同じ3期目。高知農業高校の出身で、農業関係に強い。高知県で農業分野のドンといえば溝渕県政時代の四天王の一人、藤田三郎氏だ。1975(昭和50)年から6年間、全国農協中央会(全中)の会長を務めていた。西岡さんは山岡氏と連れ立って藤田氏の元に足を運ぶ。時期はおそらく1981年、西岡さんは藤田氏に呼ばれたと記憶している。「藤田さんのところに行ったら、『中川一郎と渡辺美智雄と、どっちか(の派閥)に入ったらどうぜよ』と言われた」と西岡さん。中川一郎氏も渡辺美智雄氏も1970年代後半、つまり藤田氏が全中会長だった時代に農林水産大臣を務めた人物。そのあと中川氏は自分の派閥を立ち上げ、渡辺氏は派閥横断の政策集団をつくり上げていた。山岡氏と西岡さんは東京に行って二人に会う。

「二人に会うたら、ミッチー(渡辺氏)の方が会話も面白いし波長も合う。『山岡さん、どっち(の派閥)へ入るぜ』と聞いたら『寅さんはどっちがえいぜよ』と聞かれたき、『ミッチーよ』と答えた」。山岡氏も同じ感触だったのだろう、渡辺派に入る。

衆議院選挙は1983(昭和58)年12月18日投開票だった。山岡謙蔵氏は5位で当選を果たす。トップは公明党の平石磨作太郎氏、二位当選が共産党の山原健二郎氏、三位が社会党の井上泉氏。四位以下に自民党候補3人が並び、大西正男氏と山岡氏が当選、田村良平氏は次点だった。

「二回目の選挙は『高知農業(高校)出身者でやるき、寅さんは後ろに引いちょってや』と言われたんです。そしたら落ちた」。その選挙が1986(昭和61)年7月で、山岡氏は次点。山岡氏は次の衆院選にもチャレンジする。この選挙は1990(平成2)年2月で、中谷元氏ら新人4人が当選。世代交代の波をかぶった山岡氏はまたも次点で涙をのんだ。西岡さんが振り返る。「山岡さんに呼ばれたんです。山岡さんは『県議会のときは借金は作らんかったけんど、借金作ったぜ』と言うて。お前が勧めざったらわしは借金作らんかった、と。『どうして借金作ったぜ?』と聞いたら『高知農業のグループはカネを作ってくれんかった』と。そのあとじきに亡くなった」

山岡謙蔵氏が亡くなったのは落選から7カ月後の1990年9月。「それから人に国会議員への出馬を勧めるのはやめました」と西岡さんは言う。国会議員選挙自体にもほとんどかかわっていない。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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