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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑳口利き相場は100万円⁉

1971(昭和46)年に県議会議員になって以来、西岡寅八郎さん(91)は頼まれごとには汗をかいてきた。驚かされることもたびたびあった。(依光隆明)

高知県庁

まるで時代劇のような

議員になってさほど年数がたっていないときだった。西岡さんは教員採用への口利きを頼まれる。子どもが教員採用試験を受ける、なんとか口添えを、と。いちおう口を利いておこうと西岡さんは知事の秘書にその旨を伝えた。「頼んできたのは(高知市)朝倉の人やった」と西岡さんが振り返る。忘れたころ、その人が再びやってきた。「採用試験に受かったらしゅうて、のし付きの菓子折を持ってきたがです。『なんちゃあカネもかけちゃあせんき、いらん』ゆうたけんど、置いていった。開けたら50万円入っちゅう。『こらあいかん、もらわれん』ゆうて横山が戻しに行ったがですよ」

横山というのは西岡さんに影のように付き添う横山新一さん(86)のことだ。横山さんは無事50万円を返すことができた。横山さんによると、「『お気持ちだけ受け取っちょきます。これで息子さんのお祝いを買うちゃってください』ゆうて返して、受け取ってもろうた」とか。これには後日談がある。「(教員採用の謝礼として)『50万は少ないき、戻しに来た』という噂が立っちょったがですよ」と西岡さん。横山さんが笑いながら、「当時は100万が相場やったと」。

冗談のような話だが、笑えないところもある。時代は下って平成初期、1990年代のこと。現職を破って就任した新人県議が同じようなことを頼まれ、同じように口利きをした。忘れたころに頼んだ人がやってきて、「採用されました。ありがとうございます」と菓子折を差し出した。上下2段に菓子が入る菓子折だった。あとで開けてみると、上の段は確かにお菓子。ところが…下段は札束だった。慌てて家まで返しに行くと、当人は「前の人(落選県議)は受け取ってくれたのに」と不審顔だったらしい。当時、この新人県議は「江戸時代かと思うた」と漏らしていた。テレビの時代劇で悪徳商人が奉行や代官に賄賂を贈るシーン、菓子折の下の段に小判を詰めておく手を想起したらしい。実は江戸時代でさえこんなやり方はなかったのだが(時代劇の創作)、いつの間にか高知県で広まっていたらしい。教員採用には口利きがものをいうと信じる人たちがいて、そう信じさせて金銭を懐に入れる人たちもいたということだろう。実際に口利きがものをいったかどうかは関係ない。そう信じる人がいるだけでこの関係は成立する。

谷川寛三氏(右)と塩見俊二氏=谷川氏の著作『清如蘭』より

500万抜いちょった

東京国税局長や大蔵省関税局長を歴任した谷川寛三氏を候補に担いで衆議院議員選挙を戦ったあと、西岡さんはパチンコ業者から国税の査察に手心を加えてくれるように頼まれた。正確にはある県議を通じて頼まれた。一応引き受けたものの、谷川氏はそのようなことが上手にできるタイプではない。ほとんど何もできなかったのだが、その県議がパチンコ業者からのお礼だと言って500万円を持ってきた。「『これ、寅さん取っちょいてや』ゆうて持ってきて。開けたら500万入っちゅう」。これはもらえん、と思った西岡さんは直接パチンコ業者のところに出向く。「『谷川はなんちゃあ始末してないき』ゆうて500万を戻したがです。そしたら『全部もう使うてくれたらえいのに』と言うがです。『え?』と聞いたら、『500万使うちゅうやないですか』と。間に入った県議が500万を抜いちょったがですよ」

1970年代の自民党県議にはカネにまつわる話が少なくなかったらしい。お願いに来る人がペコペコ頭を下げるような雰囲気もあった。西岡さんはそこに反発する。議員バッジをつけなかったこともそうだが、西岡さんには自分の流儀でやってやろうという意識が強い。「僕が言うたのは、『物を頼みに来るときに一張羅を着てきたりするな、いつもの作業着で来い』ということでした。あとは『お礼はいらん。お礼をしたかったら家で作った野菜を持ってきてくれ』と。ほんで野菜はどっさりもらいよった」

先輩県議にしたら面白いわけがない。叱責されたこともある。「誰やったか忘れましたが、年配の県議に注意されました。『県議の重みがなくなる』と」

衆議院議員選挙の結果を伝える1979年10月8日付高知新聞。谷川氏は次点だった

炭が燃えないまま

谷川寛三氏の二期目の選挙は1979(昭和54)年10月7日投開票だった。結果的にこの選挙には西岡さんはあまりかかわらなかった。「旧仮谷軍団がやりよった。僕はカヤの外でした」と明かす。仮谷軍団というのは現職の建設大臣のまま急死した仮谷忠男氏を推す県議会派閥のこと。仮谷氏の死去で仮谷派は谷川派に合流していた。「一期目はアンチ仮谷派が七輪の熾(おき=盛んに燃える)になって必死に動いた。二期目は熾が消えた。炭はようけ(たくさん)できたけんど、火がつかん」。一期目は最大派閥の仮谷派に反発する人たちが谷川氏を推し、必死に動いて当選させた。二期目の構図は一変、仮谷派が加わったことで横綱相撲になったらしい。人はたくさんいたが、熱心に動く人がいない。

「そらあ谷川さんからしたら心地えいですよ、どぶ板やらんですき」と西岡さんがため息をつく。一期目は谷川氏を県内隅々まで連れ歩いた。「関税局長というのは郵便局長より偉いのか?」などと声を掛けられながら回った。二期目はみこしを担ぐ人が交代した。一期目の作業服集団が、恰幅ある背広軍団に変わったのだ。谷川氏は気持ちよくみこしに乗っていればよかったらしい。西岡さんが言う。「美馬さん(美馬健男県議)が事務所で座りよったき、僕は外でやりよった」

開票結果はまさかの次点落選だった。社会党の井上泉氏が8万票台でトップ当選し、公明党の平石磨作太郎氏が7万4000票台で次点。3位と4位には自民党の大西正男氏と田村良平氏が7万2000票台で入り、最下位当選の5位には共産党の山原健二郎氏が7万1000票台で滑り込んだ。

谷川氏は6万6000票で次点。開票翌日、10月8日付の高知新聞はこう書いている。〈谷川氏は主地盤の幡多地域をはじめ、多くの市町村で前回票をかなり下回るなど予想外に票が出なかった。特に大票田の高知市で前回より約五千票少ない一万二千票余りしか取れなかったのが致命傷になり、小差で涙を飲んだ〉

谷川氏にとって風向きが変わったのは、高知選挙区選出の自民党参議院議員だった塩見俊二氏が病魔に襲われたことだ。衆院選から1カ月後の11月6日、塩見氏は現任期限りでの病気引退を表明する(1年後の1980年11月に死去)。自民党県議会議員だった市原芳郎氏、結城健輔氏らが次期参院選公認候補に手を上げる中、谷川氏の名も挙がる。公認候補に選ばれたのは谷川氏だった。1980(昭和55)年6月の参院選で22万票を獲得し、初当選。二期目を迎える1986(昭和61)年7月の参議院選挙でも20万票を獲得して当選を重ねた。1991(平成3)年11月には科学技術庁長官に就任する。

高知県いの町枝川付近。宇治川の氾濫に悩まされてきた=Google Earthより

谷川さんは仕事した

「仕事はやりましたねえ、谷川さんは」と西岡さんが言う。「谷川さんは仕事はできました。尾崎タイプですね。酒も強かった。呑んでも変わらん。100人おったら100人相手にしますよ」。尾崎というのは2007(平成19)年から2019(令和元)年まで高知県知事を務めた尾崎正直氏(58)のこと。東大、大蔵省で谷川氏の後輩に当たる。西岡さんが続ける。「尾崎のお祖母さんは中村(現四万十市)の小学校で谷川さんの同級生やったんです。尾崎が大蔵省に入ったとき(1991年)、お祖母さんが連れて(東京の)谷川事務所へあいさつに来ました。それから谷川事務所に出入りするようになって。谷川さんは早い段階から『尾崎を知事に』と言いよった」

繰り返しになるが、西岡さんは県と四国銀行に嵌められたのではないかという疑いを抱いている。県と四国銀行に懇請されて土佐電気鉄道(土電)の経営に携わっていたにもかかわらず、その県と四国銀行が自分を暴力団扱いして土電から放逐した。あまつさえ四国銀行は自分を銀行破産させて社会的生命を断ち切った、と。そのときの県知事が尾﨑正直氏だった。西岡さんと谷川氏、尾崎氏の絡みはいずれまた触れる。

谷川氏の仕事として西岡さんが挙げるのは、いの町枝川の住宅地を流れる宇治川の改修、国道439号の改良、室戸市への深層水施設誘致――の三つ。例えば氾濫を繰り返す宇治川の改修は衆議院議員となる前後から力を入れていたらしい。「昭和50年(1975年)の災害で仁淀川筋がやられたでしょう。その関係で宇治川をやってくれました。439号の改良は、道路公団の次長を呼んできて予算をつけてもらいました」と西岡さん。例えば衆議院議員となった直後、1977(昭和52)年3月の衆議院建設委員会では谷川氏はこんな調子で大蔵省の後輩に防災予算の増額を迫っている。

〈大蔵省の主計官が見えておるようですが、大蔵省の見解を承っておきたいことがございます。それは予防予算の強化ということでございます。(中略)幾ら福祉を充実しましても一度、災害に遭いますと一瞬にして崩れ去る。それからまた、災害の復旧に多額の経費を支出しておる。これも考えてみますと、国家経済上から見ますと非常に大きなロスであると私は考えます。そこで政府は災害を事前に予防する治山治水事業に余り、けちけちしないで思い切って予算を投入すべきではないか、こういうふうに考えます。予算のバランスの問題もあることはよくわかりますけれども、私は、これが政治ではないかと思うのでありますが、この際、大蔵省のお考えを承っておきたいと思います〉(国会会議録より)

「谷川さんは仕事したねえ」と繰り返しながら、西岡さんがぽつり。「銭では苦労したわのう」。谷川氏の一期目の選挙は、資金集めを西岡さんが担っていた。それ以降は谷川氏の甥がやるというので任せた。谷川氏が科学技術庁長官になったあと、1992(平成4)年の初めごろだったと思われる。西岡さんは東京に住む谷川氏の妻に「相談がある」と呼ばれた。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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