高知女子大、高知県立大の教授を長く務め、防災に造詣が深かった大村誠さん(67)が8月末に高知を離れる。星空を見ることから科学への興味をスタートし、測地学を修めて兵庫やヒマラヤの活断層に足を運んだ。現在、高知県立大名誉教授で国際測地学協会フェロー。離高を前に話を聞いた。(依光隆明)

テントの中で精密経緯儀を使って観測中の大村さん。大学院生だった25歳のころだ。山崎断層(兵庫県)近傍の三角点で、隣り合う三角点との水平角・鉛直角を徹夜で測り、前年の値との変化を求めた
固い地球が姿を変える
大村さんは1958年鳥取県の生まれ。米子東高校から京大理学部に進学し、地球物理学を学ぶ。中学では理科部(天文班)、高校では科学研究部(天文班)に所属、星空に心躍らせる天文少年だった。東亜天文学会に入会して、高知市のコメットハンター・関勉さんからハガキで彗星情報をもらったり、鳥取出身のアマチュア天文家・本田実さんに出紙を出し、返事をもらって感動したこともある。天体物理学の道へ進もうと「天文台と大口径望遠鏡のある」京大へ。ところが入学早々の1977年5月、天体物理学をあきらめる。「一般相対論の数学が難しすぎるし、自分はきれいな星雲・星団の写真を撮りたいだけなのでちょっと違うな、と」。その後、山歩きに惹かれ、学部では地球物理学科へ進み、測地学・地殻物理学を学ぶ。地質学鉱物学科の授業科目の履修も可能だったので、そちらも修めた。
測地学というのは地球の大きさや形、重力、その変化(動き)を測る学問。プレートテクトニクスや地震学、地形学との関連が深い。測地学を専門にしたのは、いろいろな出会いがその方向に向けて自分を導いたからだ、と語る。教養課程の地学実験で測地学の住友則彦先生と親しくなって研究室に出入りするようになり、そこにいたユニークな先輩たちから大きな刺激を受けた。学部に進むころ、高校の同級生と偶然大学近くの交差点で行き会ったこともきっかけの一つだった。奈良女子大に進んだ女子学生だが、京大理学部の動物学の日高敏隆ゼミにもぐり込んでいたらしい。昔はもぐりの学生にも大学はおおらかだった。その女子学生が、京大から奈良女子大へ出張授業に来ている測地学の中川一郎先生を「あの先生の授業、面白いよ」と教えてくれた。「じゃあ聞きに行ってみようか」とその先生の授業にも出るようになる。
学科の演習を選ぶ3回生の終わりごろ、説明会で測地学・地殻物理学の田中豊先生の話を聞いて、測地学研究室のお世話になることにした。測地学研究室の人たちと仕事をすることも多くなり、測地学の魅力に引き寄せられる。その面白さを大村さんはこう表現する。「潮の満ち引きと同じように固い地球も姿を変えている。その動きはものすごく小さいけれど、機械を使うと動き続けていることが分かります。また、活断層で地震が起きると地形を何mもずらします。しかも、その動きが数百年から数千年ごとに、百万年間程度も継続して地形を数kmもずらしていることに驚きました。地球は本当に動き続けているのだと」

大村誠さん。8月末に高知を離れる
ヒマラヤに行かないか?
3回生になると、静岡県の伊豆半島や兵庫県で活断層の調査を手伝った。1970年代の伊豆半島周辺は地震が多く、代表的なものだけでも1974年5月に起きたマグニチュード(M)6.9の伊豆半島沖地震(死者30人)、1978年1月の伊豆大島近海地震(M7.0、死者25人)があった。最も頻繁に足を運んだフィールドは兵庫県の六甲山地と山崎断層だった。どちらも動きの激しい、地震とかかわりの深い場所だ。「毎年11月には山崎断層で測地測量をしました。伊豆半島では他大学の先生や学生・院生と共同で電磁気探査でした」。電磁場の変化を測定し、「地下のどこに、どれくらい電気を通しやすい部分があるか」を画像として描き出すのが電磁気探査。活断層の調査でよく使われる。中国縦貫道ができたり、山陽新幹線のトンネルが六甲山地を縦断したりしたこともあり、1970年代は関西の活断層が次々と発見される時代だった。先生に連れられて活断層研究の最先端を駆け回り、さまざまな測定法を身につけた。
4回生になった1980年5月、人生の転機が訪れる。測量助手として「ネパールヒマラヤにおける地殻変動の研究」プロジェクトへ参加しないかと誘われたのだ。もともと山は好きで、北アルプスを中心に登山を続けていた。「入学した年の7月、北穂高岳山頂3106㍍から見る槍ヶ岳の夕景に感激した覚えがあります」と大村さん。ヒマラヤへの誘いは魅力だった。「留年するけど、行ってみようと。外国へ行くのは初めて。飛行機に乗るのも初めてでした」。卒業後は高校教師になろうと思っていた。「一回だけヒマラヤに行って、卒業後は地元に帰って高校の理科教師になるつもりでした」。1980年10月、アンナプルナ山群とダウラギリ山群に挟まれた大峡谷沿いにあるネパール・ダナ村に行く。

地元地区の防災会で南海トラフの地震について分かりやすく説明する大村さん
4年後も行かないと!
プレート運動で北上したインド亜大陸はユーラシア大陸と衝突、今も押し続けている。大陸地殻同士が激突した場所は高く盛り上がり、巨大な断層が幾筋もできた。それがヒマラヤだ。そこでは巨大断層と巨大山脈が今も激しく動き続けている。では実際にどの程度地殻が動いているか、精緻に測ってみようというプロジェクトだった。リーダーは琉球大学教授の木崎甲子郎氏。地形班が空中写真で指摘した断層を横断して、測地学研究室の先輩・横山宏太郎氏と大村さんの測地班は、光波測距儀と精密経緯儀を使って4つの基準点の精密な距離を測り、一方、川沿いの街道に沿って標尺と精密水準儀を使った水準測量で水準点の標高差をミリ単位で出した。4年後、その基準点を測り直して地形の変化を探るのが目的だ。
作業の合間、大村さんはトレッキングもした。「1980年10月には3日間歩いてゴサインクンド(ヒンドゥー教の聖地)に行きました。標高4380㍍、湖に映える真っ赤な夕暮れが美しかった」。年末で測量作業が終わったので、1981年の正月は自由だった。「1月2日にはクーンブ地方のロブジェに泊まって夕暮れを見て、翌朝カラパタールの5545㍍まで登ってエベレストを望みました」
このヒマラヤ行は二つの意味で大村さんに大きな影響を与えた。4年後に測り直すということは、4年後も行かなければならない。大村さんは、再びヒマラヤに行くために大学院への進学を決める。このときに高校教師になる計画を転換、研究者の道を歩み始めた。もう一つは世界の高峰の魅力に取りつかれたことだ。「帰国後、ヒマラヤの6000メートル級に登りたいという思いが抑えられなくなって。社会人山岳会に入って後輩とトレーニングしました」。ほぼ毎朝、鴨川河畔をランニングして、1983年7月には富士山で高所テスト、同年12月には初冬の八ヶ岳連峰で雪氷トレーニングのあと、1984年3月にネパールヒマラヤのパルチャモ峰(6187㍍)に挑む。
「シェルパと後輩と3人で登りましたが、6000メートルで撤退しました。天候が悪化した上にクレバス帯に阻まれました」と大村さん。撤退後、現地で大村さんは秋に予定されたダナ村とインド国境近くの活断層再訪プロジェクトの下準備をする。4年前の基準点を再び測らなければならない。大村さんは測量の責任者となっていた。最も重要な問題は、基準点が無事に存在するかどうか。基準点には金属製のシャフト(棒)を埋め込んであるが、それが盗まれでもしていたら測量は不可能になる。プロジェクトの経緯をまとめた『ヒマラヤはどこから来たか』(木崎甲子郎著、中公新書)には大村さんのことがこう書かれている。

カリガンダキの河原に立つ大村さん。25歳のとき
西に3~4センチ、隆起が6ミリ
〈先年測量助手だった大村は大学院生となり、今度は測量主任と出世していて、作業はもう手慣れたものである。大村はシャフトの安全をたしかめるために、前年(一九八三)わざわざひとりでここにやってきていたのだ。というのも、シャフトの頭は十字が切ってあってピカピカ光っているので、村人か子供に抜かれて持っていかれる危険があった。なにしろ、この貧しい辺地ではシャフト一本でも貴重なのである。四年前、測量をしている最中でさえ、シャフトの頭が石かなにかで叩かれてつぶされかかっているのを見つけたことがある。これは危ないとセメントをかぶせて隠してきたが、そんなことで隠しおおせるものではない〉
ここにある〈前年(一九八三)〉は1984年春の間違いだと思われる。「1984年の春です。自分で行って、測量の下見をしました。そのとき、さらに上流のカリガンダキの河原にも行きました。アンモナイトの黒い化石があるところです」と大村さん。『ヒマラヤはどこから来たか』によると、4年後の測定が明らかにしたのは活断層付近の大地が確実に動いていることだ。ダナ村では断層の北側が西に3~4センチ水平移動、相対的なヒマラヤ側隆起が6ミリだった。インド国境近くの活断層付近の水準測量でも断層破砕帯内での大きな変動がとらえられた。大村さんは「ヒマラヤの構造線における水準測量および光波辺長測量」と名付けた修士論文をまとめ、1985年に博士課程へ進む。
1987年の7~8月にはヒマラヤの西、パキスタンのカラコルム山脈に行った。目的は世界最大級の氷河といわれるバルトロ氷河のトレッキング。その最奥部、標高5100メートルのK2・BCから世界第二の高峰、K2を見上げることができた。高知にやってきたのはその3年後、1990年。県立高知女子大学家政学部の助教授に採用された。担当は地学だった。学部名が生活科学部に変わり、2004年に教授。高知女子大が高知県立大となったあと、2012年には文化学部に。理科系から文科系への転換だったが、寺田寅彦の資料などを取り入れながら防災教育に力を入れた。高知市での生活は37年ほどになる。

カラコラム・バルトロ氷河から望むK2
ミリ単位の変化を衛星から
国内の活断層では、山崎断層の精密三角測量を行っていた。やがてGPS測量が導入される。地表での光学測量から衛星からの測量へ。一気に、劇的に変わったと言っていい。1980年代後半から、GPSによる測量が盛んに行われ、衛星の数が増し、解析システムが進歩するにつれて高精度になっていった。山岳地での測地測量が容易になった。一方、もう一つの衛星利用の流れとして、人工衛星リモートセンシングがある。宇宙空間の衛星から見ると数十キロ範囲の変動が一目瞭然だった。
1996年には合成開口レーダーの活用にも手を伸ばす。「資源工学の専門家、極地研究の専門家、地殻変動の専門家からほぼ同時に『合成開口レーダーがすごいぞ』と聞いたんです。当時はちょうどパソコンが普及していたので、それを使って干渉処理をして。確かにすごい技術でした。現在も防災用・軍事用として活用されています」。合成開口レーダー(SAR)というのは衛星から地上にマイクロ波を照射し、反射波をキャッチするシステム。ほぼ同じ軌道位置から2回の観測で得られた反射波の位相を干渉処理することで衛星と地上目標の距離変化を数ミリ単位でとらえることができる。ただしパソコンでの解析に専門技術が欠かせない。この分野で大村さんと学生たちは実績を重ねていった。
「1997年にシンガポールで地球科学系リモートセンシング(遠隔探査)の国際学会が開かれたんです。日本の衛星からのSARデータを使った外国の研究者の発表が目につきました。実は当時の人工衛星搭載SARは日本のものが貴重だったんです。日本は良い人工衛星データを持っているのに、日本はデータ利用が遅れている。これはいけない、日本に帰って研究会を作ろうとなりまして…」。シンガポールで開かれたのは地球科学・リモートセンシング学会(GRSS)が主催する国際地球科学・リモートセンシングシンポジウム(IGARSS)のことだ。帰国後、ほかの参加者と一緒にInSAR(干渉合成開口レーダー)技術研究会を立ち上げ、大村さんも世話人の一人となった。
InSAR の技術が発揮されたのは2011年3月の東日本大震災だ。陸域観測技術衛星「だいち(ALOS)」のSARデータを解析することで広域の大きな地殻変動を明瞭に把握できた。国際測地学協会のフェローに推されたのは同年7月だった。
自身の専門は「変動計測」だと大村さんは説明する。長さ1キロで1ミリ伸び縮みする、そんな小さな変動を測る。大村さんの場合、対象とする地質学的な時間では、人間の生きる時代を含む、約260万年前から現在までの第四紀に起きた地殻変動を研究する。地質学的には「第四紀構造地質学」、「ネオテクトニクス」とも呼ばれる。さらに、地震などで現在起こっている地殻変動も扱う。

地元防災会で地震のメカニズムを解説する大村誠さん
いつでもどこでも地震は起こる
指導教官だったのは地殻物理学・測地学の田中豊先生で、その共同研究者の藤田和夫先生(1919~2008)は構造地質学の分野から活断層にアプローチした。関西を主なフィールドにした藤田先生は、「近畿トライアングル」を提唱してその地殻変動の激しさを解明している(岩波新書『変動する日本列島』など)。隆起と沈降の規模は100万年に1000メートル。つまり年1ミリ。併せて警鐘を鳴らしたのが六甲山地や大阪平野の下に潜む活断層だった。田中先生・藤田先生が始めた六甲山の活断層を横切るトンネルでのひずみ・傾斜観測を大村さんは 引き継いだような感じだ。大村さんは「関西の人は地震なんてないと思っていますけど、高知(南海トラフの地震)より早い時期に地震が発生すると思います。100万年のスパン(期間)で見ると今は関西の活断層の動きのスピードが上がっています」と話す。「関西や琵琶湖の周りの活断層のどれかでM7級の直下型地震の可能性があります。大阪の上町断層も、動けばM7級。内閣府(平成22年)の被害想定では死者数が最大4万2千人という凄まじいものです。免震構造の建物が増えていますが、免震構造も万全ではありません。長周期パルスでは壊れることがあります」
語感は似ているが、長周期パルスは長周期地震動とは被害の状況がかなり異なる。直下型地震、それも活断層に近いところで現れる揺れで、一瞬の間に地面が1メートル以上動くことがある。免震装置そのものが壊れる。大村さんは2010年にできた地元地区の防災会で役員を続けてきた。印象に残っているのは2011年の東日本大震災が与えた衝撃だ。「行政も学校も住民も防災に一生懸命でした。高知新聞主催の防災講演会も人がいっぱい。5年間くらいのうちはそんな感じでした。ところがそれ以降は出席者が少なくなり、高知市主催の防災士養成講座も年2回が年1回になっています。受講意欲のある市民は受講してしまったのかもしれません。社会的関心は10年もたないな、と思っています」
ことし7月28日午後、熊本で震度7の地震があった。地震のたびにさまざまな問題が顕在化するが、大事なのは、日本では地震がいつでも起こり得るという認識を持って備えることかもしれない。「日本の大都市は、結果的に、活断層の真上を選んで作られています。何百回もずれた活断層がそこら中にあるんです」と大村さんは言う。








の池田さんら。沖には白い山脈のように津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)-1-150x150.jpg)








