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龍馬記念館のカリスマ、最期のカウントダウン⑨孫さんは泣いていた

高知県立坂本龍馬記念館の名物館長だった森健志郎さん(1941~2015)が亡くなったのは2015(平成27)年11月2日夜だった。最後の日々を、学芸員や学芸課長として森さんを支えた前田由紀枝さんの記憶でたぐる。(依光隆明)=本文は敬称略

亡くなる前日の森健志郎さん。あまりにも笑顔なので、思わず前田由紀枝さんが撮った

「疲れちょったがやと思う」

前田はこの年(2015年)の10月3日から始まった龍馬生誕180年記念企画「龍馬の良き理解者 坂本家・家族の絆」展(翌年1月22日まで)を担当していた。注目を集めていたのは、幼いころから龍馬が使っていた名刀が展示されること。刃長52.7㌢の脇差で、備前長船の刀匠の名と「永正2年」(1505年)が記されている。「龍馬が最も愛した刀」とも形容される逸品である。1929(昭和4)年の展示会後に行方不明となっていたこの名刀を北海道の坂本家関係者宅で前田が発見、龍馬記念館が借り受けて11月1日から86年ぶりに一般公開することになっていた。

すでに書いたが、森は休館日をなくしていた。必然的に展示品の模様替えは夜間に行うほかはない。

「展示開始の前日(10月31日)、私は休みやった。夕方に出勤したら森が『展示はどうなっちゅうがや』『刀はどうなっちゅうがや』ゆうて」。前田は「ちゃんとやりますから、どうぞ帰ってくれ」と森を突き放す。「森は『そうはいかん』と」

11月1日からの新たな展示はこの刀だけ。展示スペースの一画を直すだけなので、前田は困難な作業だとは思っていなかった。

「怒られたらこっちも焦るし、森には触りたくなかった。ハチの巣みたいなもんやったし」

気がつくと午後10時になっていた。いつの間にか森がいなくなっていた。

「事務室にテレビがあって、やかましいばあ音が鳴りよった。『館長?』ゆうて声をかけたけんど、返事がない。入ってみたら、森が『知らん間に寝入っちょった』ゆうて奥から出てきた。疲れちょったがやと思う」

貴重な刀なので、夜間は毎日収蔵庫に収めることにしていた。翌日からの展示のため、この日は刀の展示スペースを作った。森が「できたかや?」と問うたので「できました」と答えた。

龍馬記念館の隣にある国民宿舎桂浜荘。2021年10月から休館中

孫正義さんの参加が決まった!

翌11月1日は日曜日だった。いよいよ刀の展示がスタートする。朝早く行って収蔵庫から展示スペースへ刀を運ばなければならない。

「朝6時に行ったがよ。森も来るかな、と思うたら来んかった」

疲れているんだろう、と思った。

「疲れちゅうなあとは思うたけんど、とにかく11月15日が過ぎんといかんき。15日がすんだら何が何でも休んでもらおう、奥さんに言うてでも休んでもらおうと思いよった」

ミーティングは午前8時半。そこには森も来ていた。

午前10時ごろ、龍馬記念館下の広場で長宗我部鉄砲隊が訓練するのを森が階段の上から見ていた。にこにこと、笑顔で。そんな森が視界に入った瞬間、広場にいた前田は森が空中に浮きあがりそうに見えた。なんともいえぬ儚さを感じた。森の笑顔を前田はスマホで写真に撮る。前田が近づいてきたのも分からないくらい森はにこにこと前を見ていた。これが最期の写真となった

「その日曜日は普通に終わった。翌日の11月2日、森は遅れてきた。『病院に行っちょった。薬をもらいに行っちょった』ゆうて。いつも行きゆう愛宕(高知市愛宕町)のかかりつけ医院に寄ってから来た」

この数日前、森にはうれしいことがあった。11月15日のイベントにソフトバンクの総帥、孫正義が来ることが確実になったのだ。15日の龍馬生誕180年に孫が来てくれれば盛り上がる。なにより孫と会えるのが楽しい。ハンドインハンドに1000人集めることができたら最高のイベントになる、と。

「森は喜んで、『メシでも食おうか。おごっちゃお』と。(隣にある国民宿舎の)桂浜荘でステーキランチをおごってくれた。11月2日も昼食を誘われたけんど、この日に限って展示の関係で用事ができて行けんかった」

午後には「ちょっとお茶行こうか」とも誘われる。しかしこのときも前田は手が離せなかった。

「『刀女子(日本刀に魅せられた女性のこと)が来ちゅうき、行けん』ゆうて返事して。あの日は刀女子が来て、私、2時間粘られた」

2015年11月2日の夕焼け。見たことがないほど美しかった

「ねっとりとした暗闇やった」

11月2日もさほどの問題はなく閉館時間を迎えた。

「午後5時15分が終業時間で、みんなサーッと帰って私と館長だけになった。『早う終わってよかった、館長もう早う帰りましょう、早う終わったき帰りましょう』って言うて。休みをぜんぜん取ってなかったき、きょうは早うに帰ろうと思って」

森も帰る構えを見せた。夕日が見たこともないくらい赤く、美しかった。美しさに魅入られ、前田はスマホを向けて写真を撮った。

いざ帰ろうとしたときだった。

「セコムの警報がビービー鳴って。セコムに電話したら『分かりました、行きます』という返事やったけんど。待てど暮らせど来ん。『来ん!』ゆうてイライラしよったら森が『まあえいわや』と。結局来たのは7時くらいやった」

前田は「遅かった!」ときつめに言った。セコムは「優先順位があるき」と弁解し、森は「かまんかまん」と鷹揚だった。

森と一緒に駐車場へ出たのは7時過ぎ。真っ暗だった。

「暗闇。ねっとりしたような暗闇やった。暗く、重たいもんがあった」と前田がそのときの雰囲気を振り返る。暗闇の中、森は桂浜荘に長期滞在中の女性客に「声をかけてくる」と言って桂浜荘に足を向けた。

「足がふらふらしよったき、『一緒に行きましょうか』と声をかけたら『かまんかまん、おまえはお母さんおるき帰っちゃれ』と」

このころ前田は母親の介護で忙しい日々を送っていた。森の様子が気になったものの、前田は車に乗って家に帰る。「あのとき、なんか妙な感じやった」と前田。「なんか、後ろ髪を引かれるような感じ。ねっとりと暗うて…」

後日、前田はこんな事実を知る。森は桂浜荘に行ったものの知人は不在だった。帰ろうとして車に乗ったあとか、車に乗る前か、森は駐車場で知り会いに電話をかけている。

「真っ暗い駐車場で電話をかけちゅうがよ。相手の人は『(森の様子は)普段と違うちょった。絞り出すような声で15日に来てくれと言いよった』と。ハンドインハンドへ1000人集めるのに必死やったと思う」

桂浜のイベントで浦島太郎に扮した森健志郎さん(2009年ごろ)

深夜の電話、「父が死にました」

自宅に帰った前田は、夜遅くなって友人と電話で話した。電話を終えて気がつくと森から着信が入っていた。

「着信が入っていたのが午後11時で、私がかけ直したのが11時すぎくらい。こんな遅くになんだろうと思ってかけ直したら、娘さんが出て『父が死にました』。一瞬、なにを言いゆうが?と思うて。『どういうこと?』と言うと『父は死にました』。『どこにおる?』と聞いたら『日赤です』。『分かった、行くき!』」

すぐに飛び出そうとして迷う。母にどう伝えようか。

「母も森館長が大好きやったき。亡くなったらあゆうて言えんやいか。母には『どうしても行かないかん用事ができたき、館に行かないかん』ゆうて。母は『いいよ』と」

車の中から携帯電話で館の一番年長者に電話した。

「『どういうことですか!』と問われたので、『分からん!』と答えてほかの人への連絡を頼んだ。別の職員から電話が入って、『どういうことですか!』と。『分からーん!』と大声上げて。河ノ瀬の交差点(高知市河ノ瀬町)やったと思う。その電話を切った途端に体がブルブル震えだして。日赤まで行けるろうか、車で来るがやなかったと思うて」

震えながら高知市新本町の高知赤十字病院にたどり着いた。救急入り口から入ると、森の家族が警察に事情を聞かれていた。なんでこんなときに家族に事情を聞くのだろうと思いながら立っていた。と、高知新聞報道部長(社会部が他部と合併して報道部になった)の山岡正史が入ってきた。

「森は山岡さんに会いとうて。その日も山岡さんのことを言いよったがよ。けんど山岡さんは森を避けて館に来んようになっちょった。私は山岡さんに『森さんが一番会いたがっちょったがで。なんで来てくれんかったが』って言うて」

伝説的新聞記者だった森は、死ぬまで新聞記者だった。高知新聞を愛し、愛するがゆえに新聞への注文も多かった。

「『どうなっちゅうがや、おんしゃのところは』『ちゃんとせえや』があいさつやった」と前田。怒られながらも龍馬記念館に足を向ける記者は何人もいた。怒るというより、森にすれば理詰めで問うていたのかもしれない。怒られて足が遠のく記者もいたし、怒られるのを承知で顔を見せ続ける記者もいた。

前田によると、高知新聞からは山岡の前任の社会部長だった石川浩之も日赤に来た。山岡か石川が社長の宮田速雄に連絡したのだろう、森と親しかった県外の地方紙OBに連絡すると「宮田から連絡があった」と言われた。宮田は森の3代あとの社会部長だった。

高知県立坂本龍馬記念館

「館長のいすに座って泣いていた」

森の最期について、前田はこう聞いた。

「龍馬記念館から高知市内の家に帰って、ご飯もあまり食べず、家族がテレビを見ゆうときに『風呂行ってくる』ゆうてふっとおらんなって。なかなか出てこんので見に行ったらお風呂の中で亡くなっちょった。午後9時すぎやったらしい」

病名は胸部大動脈瘤破裂。次の日、前田は森の自宅に行った。森が亡くなったことは母には言えなかった。

「浴衣を着て、寝ているように見えた。森は幼児洗礼をしたカトリックで、『ヘブライ語で聖書を暗唱できる』とも言いよった。でも葬儀はカトリックの神父が見つからず、神道ですることになった。そうそう、橋本大二郎さんに森さんが亡くなったことを電話したらびっくりしちょった。葬儀のとき、いい弔辞やなあと思うたら大二郎さんやった」

森が亡くなって12日後の11月14日、森の遺志に添うかのように孫正義が高知にやってきた。龍馬記念館を訪れた孫を、前田は館長のいすに案内する。

「館長のいすに座って、孫さん泣きよった。龍馬が最も愛した脇差を、森は『孫さんに持たせたい』って言いよったがよ。森の遺志やと思うて、脇差を持ってきて孫さんに『持ってください』って。孫さんは『いや、それは』って。『館長の思いですから。持ってください』って重ねて頼んだら持ってくれた」

翌11月15日午前8時半。孫も参加してシェイクハンド龍馬像と桂浜の龍馬像を結ぶハンドインハンドが行われた。参加者は森の悲願だった1000人を超える1020人。平和を願う「人間の鎖」が二つの龍馬像を結んだ。

龍馬記念館の前庭から見える太平洋

森ファンの職員が活動を支えた

森が亡くなったあと、森の「遺言」を実行していくのは前田の役目だった。最大の遺言は巡回展「土佐から来たぜよ!坂本龍馬」展だった。2017(平成29)年1月から9月にかけ、前田は岡山、熊本、東京、広島で次々と巡回展を成功させた。

「ほかの人は指も動かさんかった」と前田。森の死後、前田は所属する県文化財団や県当局と孤立無援でやり合うことになる。龍馬記念館の雰囲気も急速に変わっていった。いや、元に戻ったのかもしれない。もともと森の前例にこだわらない発想とブルドーザーのような行動力がお役人体質の組織と合うはずがない。前田がチクリ。

「文化財団は森の葬儀のときも花だけ送ってきて、『一番目立つところへ置いてください』と。あのお役人的なふるまいは目に余る」

もちろん組織内に森ファンがいなかったわけではない。

「森さんの死を聞いて泣き崩れた職員もおった。生前、『何でも言うてください』ゆうて森に協力してくれよった職員もおる。そんな協力者がおったき、いろんなことができた。そういう職員が森さんを支えよった。コツコツやってくれた」

森が亡くなって一息ついたころ、「お別れ会」をやってはどうかという声が出た。それにも文化財団は反対したが、シェイクハンド龍馬像造りに深くかかわった吉岡郷継や元高知放送アナウンサーの渡辺護らが声を上げて民間ベースで話が進む。高知新聞社長の宮田速雄が実行委員長となり、翌年2月に実現した。

お別れ会で記帳した人は県内外の271人。芸術家、マスコミ人、政治家、歴史ファン、主婦などなど、森の懐の深さを表すように多彩な人たちが森を偲んだ。

龍馬記念館前にある「船中八策」の碑

「本当に悲しくてなりません」

前田は森が「風」という言葉が好きだったことを思い出す。森の発案で「風になった龍馬」展をしたこともある。森が亡くなった今、前田は「森は風になった」と思う。

生前、森は「自分が会った最高の人やった」と2人の名を挙げていた。

その一人、台湾の総統を務めた李登輝(1923~2020)は2009(平成21)年9月に龍馬記念館を訪れた。李の人柄にほれ込み、森はのちに旅行団を編成して台湾まで李に会いに行っている。森が死んだ直後、李はこのような追悼文をくれた。

〈高知県立坂本龍馬記念館の森健志郎館長の急逝の報に接し大変驚きました。2009年9月、日本青年会議所の招待により、東京で坂本龍馬の「船中八策」をテーマにして講演することとなり、せっかく訪日するならばということで、龍馬の故郷である高知にも伺ったのが森館長とのご縁の始まりでした。若くして明治維新の立役者となった龍馬を慕う者同士、初めてとは思えないほど意気投合したのを覚えております。今まさに混迷する国際社会において、日本も台湾も、龍馬のような信念をもって改革をなしとげられる人材や精神が必要とされています。そのような時期、龍馬の情報発信に尽力されてきた森館長のような存在を失うことは大変残念でなりません〉

もう一人、ソフトバンクグループ総帥の孫正義はこのような追悼文をくれた。

〈森館長は、私が敬愛してやまない坂本龍馬の功績の伝道師であり、龍馬を誰よりも深く理解なさっておりました。今年は龍馬生誕180周年で各種イベントに精力的に取り組まれており、私も15日のイベントに参加させていただく中でお会いできるのを楽しみにしておりましたので、突然の訃報にいまだに信じられない思いです。個人的に何度もご一緒いただき龍馬談議に花を咲かせましたが、お会いするたびに龍馬の志について再認識し、大きなビジネス判断時の勇気をいただいたものでした。多くの方に勇気を与える生き様やお人柄も素晴らしく、今後はこのような機会がもてないかと思うと本当に悲しくてなりません〉

(C)News Kochi(ニュース高知)

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