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高知市による民有地占拠疑惑⑥「退職したらお返しを」

古谷寿彦さん(81)、滋子さん(78)夫妻がのちに「あそび山」となる高知市福井町の谷沿いを購入したのは2004(平成16)年の11月だった。そこから夫婦の「あそび山」造りが始まった。「あそび山」の物語を続ける。(依光隆明)

古谷滋子さん。県子ども課長時代の思いを形にしようとした

横内オリオンズの監督に

「退職したら何かお返しをせんといかんと思いよったがです。42年も働かせてもろうて」と滋子さんは言う。2004(平成16)年のことである。安芸高を出て県庁に入り、60歳の定年まであと2年になった。なにか社会にお返しを、と思ったときにひらめいたのがこども課長時代に取り組んだ「あそびの森事業」だった。生き生きとした子どもたちの笑顔を思い出し、「あのような場所を提供したい」と発想する。寿彦さんに言うと、「えいやんか、僕が(土地を)探しよっちゃお」と答えてくれた。寿彦さんは郵政民営化に反発して59歳で郵便局を退職、たっぷりと時間があった。「朝昼晩のご飯も、(滋子さんの)お弁当も僕が作りよったがですよ。今はやってもらってますけど」と寿彦さんが笑う。高知女子大名誉教授で料理研究家の松崎淳子先生が開いた「男性料理教室」に参加して腕を磨いた。男女共同参画センター「ソーレ」の館長になった滋子さんに頼まれ、「ソーレ」で「男性料理教室」を開いたこともある。「得意な料理?普通の田舎料理ですよ。芋の煮っころがしとか」

寿彦さんは高知市中心部の出身。追手前小学校を出たあと潮江に転居し、潮江中から丸の内高校を経て郵便局に就職する。先生は「名古屋の大学に推薦で進める」と言ってくれたが、就職を決めた。郵便局に務めながら夜間の県立高知短大を卒業した。

滋子さんとの出会いはお見合いだった。結婚し、子どもができたあと、寿彦さんは滋子さんのサポートに回る。「生活を大事にしたいと思うたがです。妻も働きゆうし、子どもも小さいし」と寿彦さん。郵便局に入って早々、寿彦さんは松山の四国郵政局で1年間の長期研修を受けていた。出世ルートだったが、出世するためには県内外への転勤が欠かせない。今後の人生と家族のことを考え、寿彦さんは転勤を拒否する。退職時は高知中央郵便局の課長代理だった。

実は寿彦さんも子どもとのかかわりは深い。体は小さいが、寿彦さんはスポーツで鍛えている。特に好きなのは野球。中学時代は当時まだ潮江にあった高知商の練習をよく見に行った。当時の高知商は強く、早実エースの王貞治さんと投げ合って春の甲子園で準優勝した元巨人の小松俊広さん(1940~2023)らそうそうたるメンバーがいた。寿彦さん自身が取り組んだのはソフトボールで、守備位置は主にピッチャー。ちなみに妹2人はテニス選手となり、上の妹は高新スポーツ大賞を受賞するほどの実績をあげている。

ソフトボールの経験を見込まれたのは1979(昭和54)年、37歳のときだった。請われて少年野球の監督に就いたのだ。チームは福井町のお隣、横内地区の横内オリオンズ。

古谷寿彦さん。少年野球の監督として子どもたちにかかわっていた

少年野球人脈が支えてくれた

「少年野球の監督は11年やりました。1000本ノックもしよりましたよ」と笑う。といってもスパルタではなく、練習は週1日プラス休日。「あちこちグラウンドを借りながら練習しました」。監督の11年を含め、少年野球にかかわったのは15年。「お父さんお母さんとはよう飲みました。勝って飲み、負けて飲み。そんな時代があったなあ」

寿彦さんには考え方があった。「レギュラーは上級生」と「弱い子どもほど大切にしないといけない」。勝つのは二の次だったが、優勝したこともある。「県大会でも優勝したし、四国大会にも出ましたよ。松山まで行って試合しました」。勝利第一主義ではなかったが、年によって強いチームができることがあった。いい選手もいた。その後も野球を続け、伊野商に入って春の甲子園で優勝した選手もいる。「学校帰りに僕の家の壁にボールを投げてアピールする子がいたりね。かわいい子どもばかりだった」

家の壁にボールを投げるというのは、いわゆる壁当て。壁にボールを投げ、跳ね返ってくるボールをキャッチし、また壁に投げる。家の中にいると音で分かる。あ、またあの子がここで練習しているな、と。

「10何年、楽しかったねえ。『あそび山』が市とトラブルになったときも、その子たちが応援してくれました。今でも道で会うと『監督―っ!』って呼んでくれますよ。保護者の人たちも応援してくれています」

「あそび山」に咲くネムノキ。空から地上を見下ろしている

里山でターザンごっこ

2004年11月の話に進む。「あそび山」の予定地を購入したものの、かなりの整備が必要だった。来る日も来る日も寿彦さんは作業に没頭した。「もともと(地盤が)低い土地で、そこに自転車やらなにやら捨てられちょった」と振り返る。換地で里山の一部を入手し、平地と山を一体的に整備していった。荒れ地をならし、山に密生する竹を切った。体を動かすのは苦にならない。寿彦さんは黙々と体を動かした。休日には滋子さんも手伝った。「9カ月間くらい整備をしました」と滋子さん。長かった整備が終わり、2005(平成18)年9月に「あそび山」はオープンした。

子どもたちは大喜びだった。特に目を輝かせたのは山での遊びだった。

「最初はこの山の上まで使いよったんですわ」と滋子さん。「小学5年くらいの子が来てターザンごっこやったりして、山をたつくって(泥だらけになって走り回ること)。山を使えると小学校の上級生も面白く遊べるんですわ」。ところがあるとき「ここはうちの土地や」という人が現れる。山の上の部分は近くの人から「先祖の土地やき、使いや」と借りていたのだが、境界を勘違いしていたらしい。滋子さんが言う。

「『それはすまざった。ここ、貸してくれんろうか』ってゆうたら、『事故があったらいかんき、いかん』と。仕方がないき、その人が『ここまでや』って言う場所までを『あそび山』にして子どもらあを遊ばすようにしたがです」

実は古谷さん夫妻が「あそび山」を造ろうとしたとき、知り合いはこぞって止めた。

「皆に止められたがです、『事故があったらどうするぜ』ゆうて」と滋子さん。「弁護士にも相談したんですよ。そしたら『やめちょいたほうがようないか』と。それでもやっぱりやりたかったんです」

これまで事故らしい事故はほとんどない

「1回だけ、ターザンやりよった子が綱を離してしもうて、転んでねんざしたんです。そのときはお母さんも来ておって、『なんちゃあ心配せんでもえいえい』ゆうて。幸い、たいしたことがなかったみたいでホントよかった」

「あそび山」の面積はざっと1500平方㍍。現在は小学校低学年までの子どもに使ってもらっている。

古谷寿彦さん、滋子さん夫妻。仲良く市と戦っている

「僕も土佐のいごっそうやき」

古谷さん夫妻に対し、市が唐突にクレームを入れてきたのは整備さなかの2005年2月、業者に頼んで通路橋を造り始めたときだった。通路橋建設の許可は高知市を通じて県からすでにもらっている。つまり市も建設を認めている。それを高知市は「許可は誤りだった。通路橋の入り口は水道局の土地だ、それを認めて改めて申請し直せ」と言ってきた。夫妻は驚いた。既に工事は始めている。いったん出した許可が誤りだったというのもおかしいし、そもそも通路橋の入り口付近は民有地であり、橋が対岸と接するポイントは赤線(里道=国有地)のはずだ。通路橋工事をいったんストップしたものの、公図と現地を確かめた上で見切り発車的に工事を再開した。

市と係争が始まったのはそこからだ。市は「通路橋を撤去しろ」と強硬な主張を続け、道路上にゼブラ(縞模様)をペイントして占有を始めた。「もう20年ですよ」と寿彦さんはため息をつく。「(市役所との)争いをしだして血圧が上がりだした」と。市の主張を崩すため、情報公開請求を重ねた。開示書類を見るたびに市がやってきた事務処理のおかしさが目に付く。仕方なくまた情報公開し、法務局にも足を運び、必要があれば市に質問状を出し…。寿彦さんは安眠もできずにこの問題を考え続けているが、市役所は担当がくるくる変わる。担当が変わると一から説明しないといけない。しかもお役所の人間はお役所が正しいことを前提に考えるから話は通じない。下手をするとおかしいおじさん扱いされることもある。そのたびにストレスは募る。気を取り直し、寿彦さんが笑顔を見せた。

「僕も土佐のいごっそうやき、ダメはダメと言うしかないがです」

(C)News Kochi(ニュース高知)

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