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龍馬記念館のカリスマ、最期のカウントダウン③節目だった「坂本直行展」

高知県立龍馬記念館(高知市浦戸)の名物館長だった森健志郎さんが最も信頼した部下は、学芸課長や学芸監を務めた前田由紀枝さんだった。前田さんにとっても森さんにとっても画期となったイベントがある。2006(平成18)11月から翌春にかけて開催した「反骨の農民画家 坂本直行展」だ。(依光隆明)=本文は敬称略

札幌の時計台。もとは北海道大学の施設だった

「坂本直行、やらせてください!」

坂本直行(1906∼1982)は郷士坂本家の8代目。安田町の高松家に嫁いだ龍馬の姉、千鶴の次男・坂本直寛(高松習吉)を祖父に持つ。直寛は龍馬の実兄、権平の家督(郷士坂本家)を継いだ。直寛が北海道に移住したため直行は道内で生まれ育ち、北海道大学を卒業した後、親の反対を押し切って十勝原野の開拓者となる。骨身を削る開拓生活の傍ら10代から親しんだ絵筆も忘れず、開拓原野の自然をモチーフに絵を描き続けた。晩年は画業に転向、その画風は六花亭(北海道帯広市に本社を置く菓子メーカー)の包装紙で知られている。

森が館長に就いた2005(平成17)年8月、前田は森に申し出た。「直行(の企画展)、やらしてください!」

前田が龍馬記念館の学芸員となったのは2004(平成16)年4月だった。実は来た早々から前田は坂本直行の企画展を考えていた。前田が企画展を担うのは坂本直行で3度目。1度目は途中から担当しただけだから、実質的には2度目だった。初めて自ら企画した「亀山社中と海援隊」は2005年11月5日にスタートし、翌年1月末まで開催した。館長に就いたばかりの森に「なんやそれは」「分かっちゃあせんねや」と怒られながらやり切った。

「亀山社中と海援隊」を開催中の2005年11月末、前田は北海道に飛んだ。「直行展」のリサーチである。

「プレッシャーやったねえ、大変やったねえ」と前田が振り返る。

「(郷士)坂本家ゆかりの人たちと龍馬記念館はそれまで全く行き来がなかった。森は何回も北海道へ行かせてくれたきねえ。北大の構内にも何回行ったことか。校内に北大山岳部OBが作った『山岳館』があるき。直行は山岳部伝説の人やった」

坂本直行は北大山岳部草創期の部員だった。「山岳館」を管理運営しているOBを中心に、今なお直行を慕う人は多い。情報収集と資料確認のため、前田は頻繁に北大を訪れた。

坂本直行展の入り口。「おかえり!直行さん」と書き入れた(2006年11月、「高知県立坂本龍馬記念館」)

「たたくぞ!」「なに言いゆうクソじじい!」

「反骨の農民画家 坂本直行展」がスタートしたのは翌2006(平成18)年の11月11日だった。当時の記念館は年末年始を除いて休館日がなく、前田たちは閉館後に深夜までかかって展示物を並べた。休みなく働いた。森とはよくぶつかった。

「怒った怒った。(森は)本当に怒ったき。私が『これ以上やったら死にます!』と言うと、『まだ死んじゃあせん!』。極まった時には『たたくぞ!』と言われ、『なに言いゆうクソじじい!』ゆうて言い返して(笑)」

必死の取り組みが実ったのだろう、「直行展」は大成功だった。森はこの企画展から年末年始も開館させた。年末から人波が押し寄せた。12月から3月までは閑散期なのだが、3月31日のフィナーレまで人波は途切れなかった。

「年末年始とか、すごい人やった。それまで龍馬記念館の入館者数は年11万人やったけど、2006年の年度末には14万人まで上げた」

この成功にならい、県文化財団傘下の各施設もその後次々と年末年始の開館を実施することになる。龍馬記念館にとって、直行展は大きな節目となった。なにより館に成功体験ができた。森は東京のディスプレイ会社が制作した常設展示物を撤去、龍馬暗殺の舞台となった「近江屋」の模型など、独自の発想で館をリフレッシュさせていく。

「それから間もなく5年計画をたてたとき、森は入館者目標を年15万人にしたがやき。『ありえん!直行展が成功しても14万人やに、どうやってやるが?!』と森に言うた」

坂本直行展の展示から

県教育長から声をかけられて

前田はもともと教員(常勤講師)として高知市内の中学校で勤務していた。学校現場を離れたあと、県教育長だった大崎博澄から「やってみないか?」と誘われたのが龍馬記念館の学芸員だった。「迷うたけんど、飛び込んだ」と前田が振り返る。飛び込んだとき、前田はまだ学芸員資格を持っていなかった。森は「学芸員資格を取れ。早う取れ」と前田を後押しし、前田は「面倒くさいなあ」と思いながら東京まで行って文部科学省の学芸員資格認定試験を受ける。学芸員資格を得たあとも待遇は全く変わらなかった。

前田に声をかけた大崎博澄は知事の橋本大二郎が教育長に抜擢し、8年間にわたって橋本県政の教育政策を担った人物である。森も、前田も、橋本県政が生み出した人事だったことになる。橋本大二郎は1991(平成3)年、副知事だった自民党公認の元大蔵官僚を大差で破って高知県知事に就いた。県内ほとんどの団体・企業が元大蔵官僚を推していたから、高知県にとっては激震だった。「一票一揆」という言葉さえ生まれた。

当然、橋本県政は各所で軋轢を生じさせた。既得権益層といえばいいか、それまで高知県を支えてきた層との軋轢である。その一つがお役所の常識を常識と考える県庁人(幹部、職員の多数派)との緊張関係(橋本への反発)だった。知事就任当初は表明化しなかったその緊張関係が、橋本県政の末期には徐々に浮上する。森、前田にとって不幸だったのは、龍馬記念館に参画したのが橋本県政末期だったことだ。橋本と県庁人との緊張関係が森+前田と県+県文化財団の関係に持ち込まれるのは必然だったかもしれない。

たとえば「直行展」で前田は六花亭のお菓子を売ろうとした。龍馬記念館の一画に並べるのである。これが大騒動になる。

六花亭の小田豊社長(中央)も直行展に訪れた。小田社長の右が森健志郎さん、その右が前田由紀枝さん。バックの壁画は坂本直行の「晩秋の日高山脈」

県は「黒幕」の存在を気にしていた

「龍馬記念館では食べ物を売られんかったがやき。とにかく当初は内部での反対が大きかった」と前田が振り返る。「特に総務の職員は『コンパちゃんが忙しゅうなるだけでなんちゃあにならん』って。なんでもかんでも反対やった。コンパちゃん? 契約職員(解説補助員)のことをコンパって言いよったがよ。開館当時に呼びよった『コンパニオン』を縮めたがやと思う。ひどいよねえ」

食べ物だけではなく、当時はショップすらなかった。前田によると、物品販売に手を出さないのは開館当時からの決まりだったらしい。おそらく背景にあるのは桂浜一帯のボス的実力者だった土佐闘犬センター社長、弘瀬勝の存在である。橋本の前任者、中内力が知事だった時代、弘瀬は県庁内で幹部職員に訓示するほどの力を持っていた。その弘瀬を橋本大二郎、大崎博澄コンビが県政のラインから徐々に排斥する。しかし地元の桂浜ではまだまだ力を持っていた。弘瀬に遠慮し(かみつかれるのを恐れ)、県は開館当初から龍馬記念館での物品販売に及び腰だった。食べ物を売るなんてありえなかった。

森は新聞記者時代から弘瀬勝と面識があった。弘瀬の理解者と表現してもさほど的外れではない。森は肩書では人を見ない。だからこわもて側の言い分も聞くのである。

六花亭のお菓子販売に森はゴーサインを出す。「直行展」の人気と相まって六花亭の菓子はよく売れた。なし崩し的にショップも作り、そのスペースを大きくしていった。前田が記憶する限り、弘瀬サイドからの抗議はなかった。「皆に謝りなさい!皆忙しゅうなっちゅうがやき!」と総務の職員に切れまくられながらも、前田には満足感があった。

「『忙しゅうなるだけでなんちゃあにならん』ゆうて言われたけんど、販売を担当した契約職員全員にボーナス的に約10万円の支給があったみたい。見返りもあったということよねえ。まあいろいろ言われたけんど、いま考えたら総務の言い分も分かるところはある」

龍馬記念館にしつらえた「直行展」のショップ。六花亭の商品が並んだ

(C)News Kochi(ニュース高知)

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