高知県の森林率は全国トップの84%。つまり日本一の森林県と言っていい。特徴は植林の多さであり、少し山に入るとスギ、ヒノキの林が育っている。しかし自然林もまだわずかに存在する。そのわずかな自然にシカが殺到した。(依光隆明)

四国の原生林の減少過程=『危機に立つ四国山地の自然』(三嶺の森をまもるみんなの会)より
「源流域の自然林」に集まる
三嶺の森を守るみんなの会は2017(平成29)年に『シカ食害で悩む三嶺の森―再生への途と課題―』を出している。その冒頭付近に「何故、三嶺山域でシカは激増したのか」という一文がある。
〈三嶺山域(剣山地)では、2000(平成12)年前後からシカが増え始め、5、6年後には「激特被害期」に入ったといっていいほど激しい被害をもたらすようになった。このような短期間でシカが急増し、高い生息密度に達した理由はエサ資源が豊富だったからと考えられる。戦後のシカ増加原因の一つである「拡大造林」(天然林の伐採と植林)は、1980年代にほぼ終息する。植林木は10年もすれば成長して林内はうっぺいし下草がなくなる。三嶺の高知県物部川流域では、植林地面積は山林の70%以上を占め、多くの植林地では木が成長して下草がなくなり餌場としての機能は低下している。一方、源流域の自然林地帯は、稜線部の豊かなササ原とともに、樹林内も2003年頃までは緑いっぱいの林床植生に恵まれていた。このことはシカの繁殖に好都合であったのに加え、他地域からも優れた餌場にシカが移動して集まり、急激に生息密度が高まっていったものと考えられる〉
植林木が成長するまでの10年間、シカは頂芽(一番上の芽)や出たばかりの葉を食べる。周りに草が少ない冬から春にかけては特にそれらを食べるケースが多い。拡大造林が盛んだったのは1950年代前半から1970年代まで。メスジカの保護と天敵の不在が加わって、奥地ではシカが着実に増えていった。拡大造林にブレーキがかかったあと、それらのシカは新たな餌場を見つける必要に迫られる。餌場として魅力的だったのだろう、シカたちはさらに奥の自然林地帯にやってくる。三嶺の場合、それが2005(平成17)年頃だった。

食害に遭う前の三嶺。山頂から南にカヤハゲ、韮生越と美しいササ原が続いていた=『シカ食害で悩む三嶺の森』より
「水土保全機能の著しい低下」
『シカ食害で悩む三嶺の森』は〈シカの過剰生息下で樹木やササ、野草等に対する目に余るほどの食害は、次のような問題を引き起こす〉として4点を列挙している。
➀生物多様性の衰退→希少種を含む野生動植物の生息・生育環境が著しく悪化。②森の循環系の衰退→芽生えた野草や次世代を構成する稚樹は一部の毒草以外は食べられて消失する。本来の自然林では、老木等が枯れてギャップ(空間)が生じると、稚樹が芽生えて競って次世代を構成するのだが、現状では長期的な森の更新・循環は完全に不能に陥っている。③森の力、とくに水・土保全機能の著しい低下→土砂流出・山腹崩壊が起きやすくなり、その影響は下流域に及ぶ深刻なものとなり、国土保全・流域環境の悪化を招いている。④景観の悪化→無傷で美しい山肌に傷跡が多数発生・拡大し、林床の裸地と荒廃は幽玄な景観価値を損なっている。
以上を説明したあと、こう書く。
〈三嶺が激特被害期以降に失った自然の価値は莫大なものになろう。我々が知る限り、食害前の三嶺の森は貴重な自然であったし、2000年代初期までは水土保全機能面でもどんな豪雨でも受け止める“盤石の森”であった〉
盤石の森がシカという予想外の不意打ちによって崩れていく。中でも③の〈水・土保全機能の著しい低下〉は物部川に大きな影響を与えた。美しかった支流は痛み、瀬や渕の風景が変化した。本流をふさぐダムに土砂がたまって川の水が濁り、アユをはじめとする川魚の生息条件も低下する。拍車をかけたのが水源涵養機能の低下だ。水量は減り、渇水が起こりやすくなった。

食害に遭い始めたころ。2005年のカヤハゲと韮生越=『シカ食害で悩む三嶺の森』より

食害に遭った2009年のカヤハゲ、韮生越=『シカ食害で悩む三嶺の森』より
「被害期」は2006年~2012年
『シカ食害で悩む三嶺の森』は「激特被害期」を〈およそ2006年~2012年〉とした上で、顕在化した事実を〈1.稜線部のミヤマクマザサの衰退(一部枯死・裸地化)とすさまじい樹皮食い被害、2.原生的樹林内に広く分布していたスズタケ等の林床植生のほぼ壊滅・採食ラインの形成〉と書いている。
激特被害期が2012年で終わった理由は二つある。一つはエサを食べつくしてシカの群れが分散したため。もう一つは人間の関与だ。猟犬を使った大規模な駆除がシカの数を減らしていった。(つづく)

















