高知県立坂本龍馬記念館の館長だった森健志郎さん(1946∼2015)について、部下として仕えた前田由紀枝さんはこう表現した。「時代と人にフィットして生き抜いたところは龍馬に近い」と。「時代」とはにわかに沸き起こった龍馬ブームであり、「人」の代表はソフトバンクグループの総帥・孫正義さんだ。今回は孫さんと森さんを結び付けた吉冨慎作さんの記憶をたぐってもらう。(依光隆明)=本文は敬称略
「高速1000円」+「大河」という時代の風
まずは時代の話から入ろう。
龍馬記念館の入館者数を引き上げた「坂本直行展」が終わったのは、2007(平成19)年の3月末だった。翌2008年、森は開館20周年の2011(平成23)年に「アメリカ龍馬フォーラム」を実現すべく前田に打診する。衝撃的なニュースが入ったのはその直後だった。2008(平成20)年6月5日、NHKが2年後の大河ドラマを「龍馬伝」と発表したのだ。森も前田も寝耳に水。ひっくり返るほど驚き、喜んだ。
2009年3月からは高速道路の「休日上限1000円」がスタートする。ETC限定ではあるが、どこまで走っても休日なら上限1000円。形を変えながら2年以上続いたこの割引は龍馬記念館にも風を送る。大河に「龍馬伝」が決まったという話題性も手伝って、2009年から県外客を中心に入館者が急増したのだ。2010(平成22)年1月に「龍馬伝」がスタートすると増え方がすさまじくなった。最高は1日7000人、1年で47万人を記録した。公式記録(年度で計算)によると、2009年度が24万7000人、2010年度が44万2000人。
風を起こし、風を利用し、風に乗る。森は時代の風をとらえていた。
「会いたい人に全部会っちゃえ」
孫正義と森の出会いも、発端は「龍馬伝」だった。ただし中に一人のキーマンを挟まねばならない。森と知り合って数年後、高知市北部の山あいにあるNPO法人土佐山アカデミーの事務局長に就く吉冨慎作(45)である。
吉冨は山口県下関市の出身で、慎作の慎は寺田屋事件で龍馬を助けた三吉慎蔵、作は高杉晋作から採っている。両親に長州の先人の名をつけてもらった生粋の長州人なのだが、子どものころは慎作という名が重荷だった。大人と会うたび、「高杉晋作からつけた名前やね」と言われてしまうからだ。反発を覚えた吉冨は、長州人脈から離れて坂本龍馬のファンになっていく。漫画「お~い!竜馬」が基礎知識となった。
宇部高専を出たあと、下関市のデザイン事務所を経て福岡市に本拠を置く外資系広告代理店「BBDO J WEST」でディレクターを務めていた。自由だった半面、斬新な発想ができないと生きていけない厳しさもあった。先輩は吉冨にこう言っていた。「仕事以外で面白いことをしないとだめだ。面白い頭じゃないと面白いことできないぞ」。
面白いことは?と考えた吉冨はとりあえず髪の毛をピンクにする。「龍馬伝」の制作発表があったのは、そんなときだった。吉冨の心にスイッチが入った。
「仕事以外で面白いことをやらないとだめだと言われてるし、面白いことをやろう。大河効果でこれから龍馬の風が吹く。日本中が盛り上がる。そうだ、龍馬の情報を一手に集めたポータルサイトを作ろう、と考えました」
2008(平成20)年11月、30歳手前で立ち上げたサイトが「龍馬街道」である。
「その中でいろいろな企画を立てました。メディアがあると取材ができるじゃないですか。会いたい人に全部会っちゃえ、みたいな」
龍馬から年賀状をもらいたい!
考えた企画の一つが「龍馬からの年賀状」だった。もともと龍馬から年賀状をもらいたいと思っていた。龍馬から年賀状がきたら勇気をもらえると考えていた。
「会いたいけど会えないから年賀状をもらいたいな、と。『やりゆうかえ』みたいな年賀状がきたら、一歩を踏み出せるんじゃないかなと思って」
最初にアプローチしたのはNHKだった。「龍馬伝」プロデューサーの鈴木圭が長崎で公演するという記事を見つけ、長崎に行った。2009(平成21)年7月9日のことである。
「そこしかないと思って。講演を聞いて、鈴木さんが廊下に出て帰っていくときに声をかけました。10㍍くらい離れていたかな。人がわらわらといて、ガードマンもいる中、『鈴木さーん!5分だけ話しできませんか?龍馬に年賀状出したいんです!』と大声で。鈴木さんはこっちを向いてくれて、目で「あ、いいよ」と。ガードマンにも「いいから」みたいに指示して、控室で15分くらい話を聞いてくれました」
龍馬への年賀状の企画を説明し、こう言った。「龍馬伝を盛り上げるためにもやらせてください!」。鈴木の返事は前向きだった。「まあ、なにかできると思うよ」
「明日行きます」。社長車で高知へ
高知県立坂本龍馬記念館のことを吉冨は「龍馬の殿堂」と考えていた。年賀状企画の中心になってもらうのは龍馬記念館しかない、と考えた吉冨は次に龍馬記念館へ電話する。2009年7月13日、「館長さんをお願いします」と電話で館長を呼び出した。館長の名が森健志郎であることも、森がどのような人間かも知らない。思いのたけを一気に話した。
「龍馬から年賀状をもらいたいんですよ、自分は福岡に住んでいて、名前も慎作なんですよ、龍馬街道というサイトをやっています、NHKの鈴木さんにも賛同いただきました」とワーッとしゃべったんです。森さんの返事は『なんか、よう分からんなあ』でした」
ダメですかねえ、と問う吉冨に森は「めんどいなあ、うるさいなあ」とこぼしていた。要するによく分からない、面倒くさそうということだ。吉冨は引き下がらなかった。
「『じゃあ一回説明だけ聞いてくれますか、あした空いてますか』と言ったんです。森さんは『空いちゅうけんど』と答えたあと『きいや(おいで)。3時ばあならおるで』と。『じゃあ行きます!』と返事しました」
電話をかけた当日は月曜日、翌14日は火曜日だった。
「平日もけっこう自由な仕事なので」と吉冨が説明する。普通の会社ならあり得ないのだが、吉冨は社長車を借りようとした。黒塗りの大型車である。総務部に「貸してください」と頼むと、「空いてるからいいよ」。社長車を借り、自分で運転して高知にやってきた。
7月14日午後3時に着き、森と会った。森は肩書や容姿で人を判断しない。髪の毛は黒に戻していたものの、どこの誰とも分からない若者の話をじっと聞いた。
「『(龍馬の手紙を)館長が書くとか館の職員が書くとか坂本家の人が書くとか、できませんかね?』と言ったんですが、『龍馬は死んじゅうき』『嘘はいかんねや』と。そのうち『龍馬に年賀状を出すがじゃいかんか』『けんど、出すだけじゃつまらんねや』となって」
吉冨は必死だった。森の言葉を受け、こう返した。
「『僕としては龍馬に背中を押してほしい。龍馬に背中を押されたい。龍馬に宣言する形にしませんか』と言ったんです。ワーッとしゃべっていたら、途中から森さんが『よっしゃ』と言いだして。『ほいたらやるか!』『面白いねや!』と。あのいつもの笑顔で、乗り気になってくれた。3時から6時まで、3時間くらい話しました。とにかくOKをもらいたくて、必死に話しました」
10年間のタイムカプセルに
森からOKをもらった吉冨は、続いて年賀状の元締めにチャレンジする。日本郵政である。本社のお客様相談室に電話した。「担当につなぎますんで」「いや、こういう意図で」というやり取りを繰り返し、5~6カ所たらいまわしされたあと、向こうから電話がかかってくることになった。かかってきた電話は高知中央郵便局からだった。
「菅さんという方から電話がきて、いろいろ説明すると『森館長なら知ってますよ』と。『記念館で会いましょう』と言われ、再び高知まで行って龍馬記念館で菅さんと森さんに会いました。こっちが説明する必要もないくらい『よしやろう!』になってくれて。信じられないほどうまく進みました。『坂本龍馬記念館 坂本龍馬様』で配達してくれることになって、『明治の、郵便制度ができた当時の格好で配達するよ』と」
菅さんというのは郵便局事業株式会社四国支社高知県営業統括本部長の菅隆正。決裁権のある人間がさばいてくれたので話は早かった。森と話を続けるうち、年賀状企画にタイムカプセルが加わった。出すだけでは面白くない、10年後に検証できるようにしよう、と。龍馬に夢を宣言し、10年後の本人にそれを再び見てもらうのである。
「年賀状を取りに来てもらうんです、高知まで。龍馬記念館に来てもらって、『10年前にこんな夢を宣言していたんだな』と思ってもらえるようにしたい、と」
「龍馬ならどうする?」で動いた
最後は高知県庁だった。尾崎正直知事の秘書に電話をかけた。
「『怪しいと思われるかもしれないけれど、企画を聞いてくれませんか?15分あれば説明できます』とお願いしたら、『高知新阪急ホテルの日本料理店で昼食を食べる予定があるからそこで会おう』と。またまた社長車で高知に行きました」
日本料理店に入ると、知事と秘書がいた。
「『おう、君が連絡をくれた人か』と知事に言われて。『ようこそ、ようこそ』って席に座らせてもらって。知事が食べているご飯の上に資料を出すような感じで説明させてもらいました。お願いしたのは、県の名前を使わせてほしいということと、龍馬への年賀状を知事本人も出してほしいということ。30分くらい話すことができました。『いいね』って言ってくれて、『その方向でいこう、秘書と連絡とってよ』と」
吉冨が発想し、森と練り上げた「龍馬への年賀状」は2009年末の年賀状シーズンからスタートした。2010年元旦には桂浜の坂本龍馬像前で配達式が行われ、明治初期の配達人に扮した郵便局員から森が龍馬宛の年賀状を受け取った。
森や尾崎に会っているうち、吉冨は高揚感に包まれていた。
「龍馬龍馬って言っていたら館長や知事に会えた。だんだん松平春嶽や勝海舟に会った龍馬の気分になってきたんです。勝手に気持ちよくなって。その気になってやっちゃおう、みたいな。森さんはすぐに『龍馬ならどうするかにゃあ』『龍馬やったらそれはせんぜよ』と言う人。自分も『龍馬なら』と思いながら動いていた」
その高揚感が孫正義へとつながっていく。