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高知市による民有地占拠疑惑⑤原点は県の「あそびの森」

休日ともなると、高知市福井の「あそび山」では小さな子どもたちが思い思いに遊んでいる。明快な理由を示さないまま入り口を占有するという高知市の強硬な態度とは裏腹に、「あそび山」の空気は軽やかに澄み切っている。ここを造った夫婦の気持ちが「あそび山」の雰囲気を作っているのかもしれない。(依光隆明)

高知県庁の職員だった古谷滋子さん

「売ります」の看板を見つけた

「あそび山」は2005(平成17)年に古谷寿彦さん(81)、滋子さん(78)夫妻が造った。正確には滋子さんが発想し、寿彦さんが「それはえいやんか。僕が土地を探しちゃお」と言って構想がスタートした。

自宅近くの現在の場所に「土地売ります」という看板が掲げられていたのを寿彦さんが見つけ、ほかをいろいろ当たったあとに購入を決める。造成は大変だったが、重機を持ち込んでなんとかやり切った。水路を渡る通路橋の許可を県と高知市からもらい、業者に頼んで橋を建設していたときに高知市からクレームがついた。いったん許可を出しながら、「橋の取り付け部は水道局の土地だ」と言い始めたのである。しかし市役所の説明は二転三転を繰り返し、持ち出してきた書類も偽造に近いような代物、大事な書類は紛失などなど、信じられないようなことの連続。それでいて古谷さんたちに市は官僚的かつ高圧的な態度を続けた。寿彦さんは「この20年、腹が立って夜も眠れん」と明かす。「なんでこんなところを買うてしもうたろうか」という弱音も出しながら、「正義は必ず勝つ」とも。

滋子さんが「あそび山」を発想した原点は、滋子さんが携わった仕事にある。

滋子さんは安芸市川北に生まれた。家の裏に黒岩涙香の旧宅があり、そこでよく遊んだ。

「涙香の遠縁の人やったらしいけんど、お姉さんくらいの人がその家におって、よう遊びに行ったがです。だから間取りはもう頭の中に入っちゅう」

黒岩涙香は明治期屈指の新聞人で、創刊した「万朝報」は東京一の部数を誇った。翻訳小説でも名高く、「巌窟王」「ああ無情」などさまざまな外国小説を日本に紹介している。1862年に安芸の郷士の家に生まれ、6歳のときに明治の新時代が到来。大阪で英語を学び、自由民権運動の洗礼を受け、新聞人として新たな時代を生きた。

90人が登場する『高知の女性の生活史―ひとくちで話せる人生じゃあない』

最後は「ソーレ」館長を4年間

滋子さんは川北中から安芸高に進み、卒業後に県庁へ入る。県安芸土木事務所に3年いたあと、本庁に。19歳で中央大学法学部の通信教育課程に学び、26歳で卒業する。「仕事の合間にちょこちょこ。スクーリング期間は職場の理解が大きかった」。その後、障害福祉課の課長補佐を経て労働政策課長、こども課長を歴任した。2002(平成14)年、その3年前にできた「こうち女性総合センター『ソーレ』」(高知市旭町)の館長となる。手掛けたのが『高知の女性の生活史―ひとくちで話せる人生じゃあない』の制作だった。出発点は「女性史を作りたいな」と思ったこと。言い出しっぺの古谷さんの元に女性たちが次々と参集し、実行委員会方式で具体化していった。この冊子を完成させるため、県にお願いして定年までの4年間を「ソーレ」館長として過ごす。冊子が完成したのは2005(平成17)年12月。時代を反映し、館の名前は「こうち男女共同参画センター『ソーレ』」と変わっていた。翌年3月、滋子さんは県を退職する。

完成した『高知の女性の生活史』はB5判という大ぶりで、ページ数も400ページ近くある。気圧されるほどの文字量だが、中身の充実度はさらにすごい。メーンは戦前、戦後を生きた普通の女性たちからの聞き取りである。ここで聞いておかないと消える、聞いておいてもらってよかった、と思われる貴重な話が山のように詰まっている。女に学問はいらんと言われ、嫁に行けば牛馬のように使われ、戦争で夫は亡くなり、大陸で逃げまどい…。そんな話が淡々と続く。つらい話ばかりではない。いや、つらかったからこそ優しかった人のことが脳裏に刻まれているのかもしれない。どの証言も、そのときに聞き取っていなければ歴史の流れの中に消えていったはずだ。

編集したのは17人の実行委員で構成される「高知の女性の生活史作成実行委員会」で、発行は「こうち男女共同参画社会づくり財団」。表紙デザインは染織工芸作家の山本眞壽さんが担当した。滋子さんは「あとがき」にこう書いている。

〈90人の語りからまさに女性史・生活史が浮かび上がってきた。明治32(1899)年から大正13(1924)年の生まれ、たいへん厳しい時代を生き抜いてこられた方々であった。育ちゆく背景に15年も続いた戦争があり、昭和20年の敗戦時には20、30歳代であった〉

〈子どもは7歳から労働力であった。勉強もそこそこに弟妹の子守り、水汲み、薪負い等々、それなりの労働を任された。義務教育が終われば、親の借金や家計の助けとして奉公や女工などの出稼ぎに行った人、いくら勉強がしたくとも女に学問はいらんと言われ、悔し涙を飲んだことを忘れられない人も多い。私が聞かせていただいた語り部さんは「家族にも話したことはありませんが、黙ってあの世に持って行くこともないので…」と話してくださった〉

〈苦難の時代を乗り越えて、語り部の皆様は今106歳から81歳、趣味やボランティア活動に生きがいを見出されている方がほとんど。こんな時代を迎えるとは想像もしなかったろう。嬉しいことである。しかし、根本のところで未だ残っている女性や弱者への差別をなくさなければならない〉

〈この3年間の編集の間に、語ってくださった、聞き取ってくださった、寄稿してくださった方々の数人がお亡くなりになった。出版が間に合わなかったことを申し訳なくお詫びするとともに心からご冥福をお祈りしている。とても楽しみに待っていただいたのに〉

あそび山。緑に包まれている

森の中で子どもが生き生きしていた

「あそび山」を発想したきっかけは、「ソーレ」の館長になる前に就いていた県こども課長時代の経験だった。

「こども課で『あそびの森事業』をやったがです。私が考えたがやなしに、栗山さんゆうて提案者の人がおって。保育園や幼稚園の子どもを週に何回か森に連れて行って、森の中で遊ばせる。危険なものは除けておくけんど、大人が森の中を作りすぎんようにして、子どもたちを自由に遊ばせるがです。大人は子どもに目配りするだけで、おやつを持たせて、雨が降っても風が吹いても遊ばせる。そのときの子どもの反応が忘れれんがです」

この事業を導入した園の中に佐川町の斗賀野保育園があった。理事から「おまん、見に来いや」と誘われた。

「子どもが本当に面白そうに森の中で遊びよったがです。先生は『日を置かずに通うががえいですねえ』って。遊びを子ども自身が広げていくがです。絵を描かせても、面白い絵を描くがですよ」

高知市の保育園ではこんなことがあった。

「森で大きなガマガエルが出てきて。みんなが逃げる中、普段おとなしい子がそのガマガエルを手で捕まえて。それからスターになったがですよ、その子が。『あれはうんとよかった』ゆうて先生方が言っていました」

古谷寿彦、滋子さん夫妻。私財を投じて「あそび山」を造った

事業のバックに橋本大二郎知事

滋子さんによると、「あそびの森事業」の後ろ盾になったのは橋本大二郎知事だった。

「子どもをどう応援するかというときに、橋本知事は『医療費や出産一時金として単にお金を渡すのではなく、子育ての質に使う方がいいのではないか』という考え方を持っていました。私がこども課に行ったときにはすでに新規事業として予算がついていました」

知事の考え方を背景に、「あそびの森事業」が実現したという構図である。

滋子さんが「あそび山」を造ったあとの話になるが、「あそびの森事業」を導入した高知市の保育園は「あそび山」によく遊びに来ていた。その園ともう一つの園が「あそび山」にお別れ遠足に来ようとしたとき、市の担当課が園にクレームをつけた。

「『市とケンカしゆうようなところへ行かせるのはいかがなものか』ゆうて担当課の課長補佐が電話をしてきたそうです。それから高知市立の保育園は来れなくなりました」

高知市が「あそび山」の進入口付近に大きな花壇を造って所有権を主張し始めたときの市長は元総務官僚の松尾徹人氏。橋本氏の前任、中内力知事の元で財政課長や総務部長を務めた人物だ。高知市長に3回当選したあと、2003(平成15)年の知事選に立候補して橋本氏に敗北。橋本氏の出直し知事選となった翌2004年の知事選挙でも再び敗北した。松尾氏支援の中核は自民党で、市民レベルの支持を集める橋本氏とは肌合いが違っていた。高知市長だった松尾氏が橋本知事と戦ったこともあり、高知市政と県政との関係は溝が深まっていく。半面、県幹部や県OBの中には松尾氏を慕う人も少なくないという複雑な構図だった。

結果的に「あそび山」がそのような構図にほんろうされた可能性はゼロではない。橋本氏は女性の登用を積極的に進めた。その一人が滋子さんであり、女性や子どもにかかわる橋本氏の思いを具体化していった。松尾氏を戴く高知市の幹部にとって、滋子さんが好ましからぬ人物と映っていた可能性は否定できない。もちろん違うかもしれないが、異常としか思えない高知市の強硬かつ理不尽なやり方を見ていると、そうとでも考えないとつじつまが合わない。

「あそび山」の斜面。山の上方に向かって延びている

記憶に残る高知新聞の2人

県にいたとき、滋子さんは何度か知事への提案事業を実現している。その中で現在まで続いているのが障害福祉課の課長補佐時代に提案した障害者美術展である。

1997(平成9)年の初め、提案通りに予算が認められ、さてどうするかと考えて頼ったのが高知新聞だった。

「高知新聞は高知県展をやりゆうき、それに倣(なら)ってできないかと相談に行きました」と明かす。滋子さんの記憶によると、森と名乗る人物が出てきて「障害者との壁を取り除こうという時代に、あえて障害者美術展をやるつもりですか?」と聞いてきた。滋子さんはこう答えた。「県展はハードルが高いき、障害者はそれにはなかなか挑戦できん。心のバリアフリーを実現するため、あえて障害者美術展をやりたいがです」。そのあと、こう聞かれた。「お金、どればあありますか?」

障害者美術展は提案したものの、滋子さんは予算のことを深く考えていなかった。「適当に300万円の予算をもろうちょった」と明かす。300万円だと答えると、森さんはこう言った。「少ない。全部もろうても足りん」。慌てて滋子さんは言った。「300万円全部渡すので、それでなんとかやってください」。その年の秋に実現したのが「スピリットアート(高知県障害者美術展)」だ。主催は実行委員会+県で、共催が高知新聞とRKC高知放送。2024(令和6)年で28回目を迎えた。

少しわき道にそれるが、もともと滋子さんも寿彦さんも高知新聞には親近感を持っている。安芸高時代の滋子さんの同級生だったのが、41歳で早世した高知新聞政治部記者の野町俊一さんだ。「野町君は陸上部やった。グラウンド整備とか、地味なことをしよった」。野町さんは安芸高から早稲田大学を経て高知新聞に入って政治畑を歩む。1978(昭和53)年に新聞協会賞を受賞した「ながい坂―老人問題を考える」の取材メンバーで、社内では声の大きいいごっそうとして通した。「在学当時、安芸高は白石ゆう有名な校長の時代やった。私らあ顔もよう見んような偉い校長やったけんど、野町君は校長室に入って薫陶を受けよったらしい」と滋子さん。

寿彦さんは「高校の同級生が田村耕一やったがですよ」と話す。次回で触れるが、寿彦さんは高知市の丸の内高校出身。のちに高知新聞記者となる田村耕一さんが同級生だった。1972(昭和47)年7月5日、記録的集中豪雨に見舞われた土佐山田町繁藤(現香美市)の地区中心部で大規模な山の崩壊が起きた。背後にそそり立つ追廻山の斜面で一次災害が起き、生き埋めとなった人を消防団が救出しているさなかに山ごと崩壊したのだ。追廻山の何分の一かが谷に滑り落ちた、と表現したほうが正確かもしれない。犠牲者は60人。その中に高知新聞香長支局長の田村記者がいた。28歳だった。

田村記者は追廻山の前面にある国道32号で取材中だった。追廻山が崩壊を始めたとき、国道を横方向に逃げたことは分かっている。一緒にいた人が振り返ったときに田村記者はいなかった。迫りくる土塊に向かい、一瞬カメラを向けたのかもしれない。

「あそび山」に至る古谷夫妻の物語を次回も続ける。

 

(C)News Kochi(ニュース高知)

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