2023年4月1日午前10時半、源平合戦の古戦場、香川県の屋島を仰ぐ陸上競技場に号砲が鳴り響いた。それは、日本女子陸上界を牽引してきたレジェンド・福士加代子さん(41)の新たな挑戦だった。(井上学)
瀬戸内海を望む高松港を走る福士加代子さん(2022年9月、高松市の高松港)
「岡やん、暇なんやけど」
福士さんの原点は20年前、2004年のアテネ五輪だったのかもしれない。
青森県の高校を出たあと京都を拠点に活動した福士さんは、日本女子長距離陸上界のホープだった。アテネ五輪に出場したのは22歳のとき。初の五輪出場に気負い過ぎたのだろうか、スランプに陥ったうえに足も故障した。
走りたい気持ちに体がついてこない苦しみ、怪我が治らない焦り…。さまざまな悩みを周りに打ち明けることもできず、ひとりで抱えて苦しんだ。10000メートルに絞って出場したものの、全く力を出せないまま。自己ベストから3分遅れ、27人中26位の惨敗を喫した。
「言葉が出なくなり、笑うこともできなくなって。周りに気を使われるのも励まされるのも嫌。どうしていいか分からず、塞ぎ込んでいました」
福士さんが苦しみを打ち明けたのは、香川県さぬき市の普門院金剛寺住職、岡田弘道さん(64)だった。
岡田さんは大学卒業後、帰郷して僧侶と小学校教諭の二足のわらじを履いた。力を入れたのは「共創」と「共生」。優劣を生む「競争」ではなく、力を合わせて挑戦する「共創」と障害の有無に関係なく学び合う「共生」が必要だ、と。体育教育の実践が評価され、2002年からは県立屋島陸上競技場(現・屋島レクザムフィールド)の運営にも携わった。
同競技場では多くの実業団が合宿を張っていた。その中に福士さんが所属するワコール女子陸上競技部があった。岡田さんは各チームの選手、監督をサポートしていたのだが、やがて福士選手と親しくなる。練習が休みの日になると福士さんがやって来るのだ。かけてくるのはこんな言葉だった。「岡やん、暇なんやけど」。そのたび、岡田さんは福士さんを食事や遊びに連れて行った。
選手仲間と交流する福士加代子さん。いつも笑顔=前列右(県立屋島陸上競技場)
どん底にいたとき、無邪気に笑えた
人間関係が深まったのはアテネ五輪の挫折から半年後だった。
2005年2月の香川丸亀国際ハーフマラソンに「福士選手が出場か?」と一部のマスコミが報じた。岡田さんが本人に電話すると、元気なく「私、出ないよ」。ところが開催1週間前になって福士さんから電話が来た。「選手の応援に行ってもいい?」。すぐに「おいで」と応じた。
福士さんは「岡やんに会って、悩みを打ち明けようと思った」と明かす。表向きはワコール女子陸上競技部の応援だったが、「レースそっちのけで話をしました。岡田さんは、『お前を応援している人はたくさんいるから、いつでも来いよ』って言ってくれた。駄目になっても、また会いに来ればいいやって思えた。楽になりました」
大会を観戦しながら福士さんと岡田さんは話し続けた。帰り際、岡田さんはワコール女子陸上競技部の永山忠幸監督に声を掛けられた。「ありがとうござました。あんなに無邪気に笑う福士は久しぶりです」。アテネ五輪後の半年間、福士さんは引退を考えるほど追い込まれていた。
以来、永山監督から大会や合宿に同行を求められるようになった。翌06年の丸亀ハーフでは、岡田さんがマイカーを監督車にしてサポート。福士さんもそれに応えるように快走し、アジア記録で優勝した。
「福士はつらい様子を人には見せないけど、実はとても繊細」と岡田さん。2人の信頼関係を象徴する映像が残っている。2016年1月31日、リオデジャネイロ五輪の代表選考を兼ねた大阪国際女子マラソン。トップでゴールし、永山監督と喜び合った福士さんが、何かを見つけたように報道陣目掛けて駆け出した。
「優勝したらゴールで抱き合おうな、と約束していました」と岡田さん。永山監督に頼まれ、岡田さんはゴールのあるスタジアム入口で待ち構えた。五輪の派遣標準記録をクリアさせるためだ。岡田さんは力いっぱい「あと4秒(縮めろ)」と叫んだ。フィニッシュの瞬間を見届けようとトラックに向かったが、間に合わない。と、警備員が「こちらからどうぞ」と関係者入口に招き入れてくれた。急いで走り、たどり着いたのが報道エリアだった。ぎりぎり滑り込んだ岡田さんは、飛びついてきた福士さんを抱きしめた。その場面が全国に放映された。
第1回笑福駅伝。81歳ランナーとゴールテープを切る福士加代子さん(2023年4月1日、屋島レクザムフィールド)
「笑って走れば福来たる」
日本陸上女子初の4回連続五輪出場という実績を残して福士さんが引退したのは2022年の初めだった。
その春、福士さんは「福士加代子RUNプロジェクト」実行委員会を立ち上げた。実現を目指したのは「笑って走れば福来たる駅伝in香川」(笑福駅伝)。福士さんが引退後に考えたのは、みんなが楽しく集まれる大会を作ることだった。実現する場所は岡田さんのいる香川しかなかった。福士さんをサポートする副委員長には岡田さんが就き、福士さんの思いに共感した多くの人たちがボランティアスタッフとして参加した。
なぜ笑福駅伝なのか。福士さんはこう話す。
「走ることはしんどいとか、つらいイメージがある。だけど、それだけじゃない楽しさがある。友達ができたり、一緒に挑戦したり。走ることは楽しいことだと、たくさんの人に伝えたいんです」
テレビ出演や全国各地のイベントへの参加、講演活動など多忙な日々のわずかな合間を縫って福士さんは香川へ足を運んだ。大会の準備に駆け回った。
第1回笑福駅伝は2023年4月に行われた。
目標の100チームを大きく上回る185チーム約1200人が参加した。家族、友人、職場の仲間とそろいのユニフォームや仮装で走るランナーたち。福士さんも小型カメラを装着し、走りながら実況したり、応援したりする様子を場内ビジョンに映して盛り上げた。スタンドは大勢の観客で埋まり、「笑って走って楽しむ」コンセプト通り、笑顔があふれる大会となった。福士さんが振り返る。
「楽しんでもらえるか心配だったけど、拍手をもらった時に『おー、やれた!』って感極まりました」
大会最高齢81歳の男性が、歓声に包まれて最後のゴールテープを切った。励ましながら並走していた福士さんに、男性は「一緒に走れたことを、生涯の思い出にします」。大会後のインタビュー。福士さんの声は感極まって震えていた。
「いろいろな人に支えられて…なんて言ったらいいか、もう言葉になりません」
福士加代子さんと岡田弘道さん(さぬき市の普門院金剛寺)
「ぬいぐるみのような存在かな」
福士さんの話術は有名だ。独特の例えでどんな場をも和ませる。福士さんにとって岡田さんは?と聞いたときはこんな表現をした。
「岡やんは、近くにいるだけで安心する。私にとって、ぬいぐるみのような存在かな?」
アテネ五輪のころを思い出しながら、言葉の姿勢を整えた。
「強い自分でいたかった。周りに弱いところは見せたくなかった。でも、岡田さんは構えたところがない。格好つけなくていい。駄目な自分を見せてもいい。愚痴をこぼし、本音を語って、大笑いしてもいいんだって気づかせてくれました」
岡田さんとの出会いは「人生のターニングポイント」だったと振り返る。
「たくさんの人とつながって笑顔が広がる不思議な縁をいただき、走ることに面白みや、やりがいが生まれました。自分で大会を開くことで、現役時代とは違う大きな感動がありました。皆に喜んでもらえることが何よりうれしい。またやりたい、と思っていただけるなら、やります!」
福士さんの決断で笑福駅伝は2024年3月30日、再び香川で行われる。
ちなみに福士さんはこんなことも言っていた。
「高知でも走りたいな。高知のランイベントにも呼んでもらえませんか?」
「笑って走れば福来たる駅伝 in 香川」の記者会見で抱負を語る福士加代子さん(2022年11月、高松市内)