中山間

ブラジル・アサイ市と佐川町に姉妹提携構想。「まず交流を」と3人が来県

日系人比率の高さで知られるブラジル・パラナ州のアサイ市と高知県佐川町との間に姉妹都市縁組の構想が浮上している。両者を結ぶのはブラジル移民の父、水野龍(1859~1951)だ。11月上旬、アサイ市の日系人3人が来高し、佐川町側と交流。3人のうち1人はルーツの芸西村を訪れ、思いがけず曽祖父の物語を知った。(依光隆明)

サクラ咲くかなたに旭城。まるで日本=ブラジル・パラナ州アサイ市

もともとは旭市。高台に「旭城」も

パラナ州はサンパウロの南方にあり、面積は日本の約半分。南緯25度付近の標高600メートルを超える高原地帯に広がっている。北半球でいえば沖縄くらいの緯度にあるが、標高が高いので沖縄ほど暑くはない。北パラナに位置するアサイ市は標高530メートル、人口が1万3000人ほど。1932(昭和7)年に日本人入植者が作った街で、もともとの名前は旭市だった。ASAHIのHはポルトガル語で発音しないため、ASSAI(アサイ)になったといわれている。旭という名に見られるように日本とのかかわりは深く、6年前には非日系人市長の発案で高台に「旭城」と名付けた日本式のお城まで作ってしまった。

今回アサイ市から来県したのはアサイ文化連合会会長の嶋田範男さん(64)、農業技師の吉田耕司さん(48)、コンピューターエンジニアの高住雄三さん(29)。いずれも日系3世だ。来県の目的は佐川町との親善交流で、嶋田さんは「市長も来たがっていたが、別の外遊日程が入っていて来られなかった。市長からは『あんたらが決めてくることはなんでもOKだ』と言われている」と明かす。いわば姉妹提携の感触を探る役と言っていい。なぜ佐川町かという理由は、「ブラジル移民の父」とも呼ばれる水野龍の存在だ。

水野龍の生誕地。それを知らせる標柱が立てられている=佐川町内

毀誉褒貶の末、パラナで死す

佐川町は土佐山内家の筆頭家老だった深尾家の領地だった。水野龍は同郷の牧野富太郎や広井勇と同じ深尾家の名教館で学び、佐川にできた民権結社「南山社」でも牧野と一緒だった。10代のころから過激な言動で知られていたらしく、1878年には自由民権運動の演説会で明治政府を批判して40日間拘留される。時期は不明だが、大隈重信を爆殺しようとしたことも晩年になって本人自らが明かしている。東京に出たあと慶應義塾で学び、一時は電力会社を経営。奈良県から代議士を目指して出馬するが、二度にわたって落選した。やがてブラジル移民に心血を注ぎ、1908年に第一次ブラジル移民約800人を送り込む。日本とブラジルを行き来しながら、自身もブラジル・パラナ州に入植。同州に土佐村を建設しようとするが果たさず、第二次世界大戦が終わった1951(昭和26)年にパラナ州の州都、クリチバ近郊の自宅で亡くなっている。

水野がブラジル移民に力を注いだきっかけは日露戦争(1904~1905)だったらしい。日露戦役直後の1905年10月に著した「南米移民の断行を望む」という一文は、日清戦争後と日露戦争後は全く様相が違うという見方を示し、仕事が不足することによる経済不況を防ぐためには移民政策しかないと説いている。同年12月に単身で日本を出港し、チリからアンデス山脈を越えて翌1906年3月ブラジルに到着。現地の関係者に会ったあと、帰国して「南米渡航案内」を上梓する。1907年には再びブラジルに渡ってサンパウロ州と調印。日本政府の許可を得て、1908(明治41)年に初のブラジル移民を引率した。日露戦争の戦利品、笠戸丸をチャーターし、神戸からアフリカ回りで約50日かけてブラジルに連れて行ったのだ。このとき移民から預かったお金を水野の会社が流用したことで(のちに返済したが、行き先不明で返済できなかった人もいたらしい)、水野には悪名もまとわりつくことになる。水野の手を離れたあと、ブラジル移民は徐々に増え、水野自身も1924年にクリチバ郊外へ入植する。パラナ州に土佐村を作るべく1941(昭和16)年に佐川へ戻ったものの、直後の太平洋戦争勃発でブラジルに帰国できたのは1950年だった。成功よりも失敗が多いような人生だが、一時的に華々しい成功を収めたのがコーヒーチェーン「カフェーパウリスタ」だ。ところが全国26店舗まで広げた1923年に関東大震災で壊滅。水野が経営を引いたあとに社はコーヒー輸入業に転換する。1970年になって銀座8丁目に直営店「カフェーパウリスタ」を復活させ、安価なブラジルコーヒーを提供し続けている。

吉田耕司さん。セボラン地区の会長も務めている。後方は高住雄三さん=高知市内

芸西村の広報誌に曽祖父の物語が

佐川町とアサイ市の交流が浮かんだきっかけは水野龍の存在と両自治体の人口規模だった。佐川町の人口は1万2000人なのでアサイ市とほぼ同じ。日本人が作った街だけにアサイ市は日系人の割合が高く、嶋田さんは「日系人が11.8%。ブラジル一です」と話す。日本のどこかと交流をしたいが、入植者は北日本を中心に全国各地にルーツを持つ。つまり特定の自治体を選ぶのは難しい。だからこそ水野龍の出身地がふさわしいと考えた。発想したのは佐川町にルーツを持ち、パラナ州選出の連邦下院議員を務める西森弘志ルイス氏。旧知の高知県議会議員、大石宗氏と話す中で構想が膨らんだ。西森氏はことし4月にも高知入りしており、そのときに片岡雄司町長や地元の桑鶴太朗県議、松浦隆起議長ら町議会議員団と意気投合、一気に友好交流の機運が高まったらしい。日系3世の西森ルイス氏は、現在75歳。4歳で高知に戻ったあと、18歳まで高知で過ごした。高知商業高校を卒業後、ブラジルに帰って大学に入学。州議会議員から国会議員となり、日本との交流に努めている。

来県したアサイ市の3人のうち、吉田さんだけがルーツを高知に持っていた。吉田さんは若いころに2年間、島根県出雲市の村田製作所に勤めていたことがある。周りがブラジル人ばかりだったので、話すのはポルトガル語。日本語は「聞くことはできるが、話すことができない」とか。現在、アサイ市で肥料会社に勤めながら農業指導を続けている。自身のルーツについて、吉田さんが知っていたのはブラジルに入植した曽祖父の名と「芸西村西分」という地名だけだった。今回、芸西村に足を運んだ吉田さんに芸西村は全面協力した。役場が話を聞いてくれ、文化資料館はブラジル移民の資料を探してくれた。出てきたのは「ブラジル開拓に懸けた一族」という2回にわたる連載だった。2007年の村の広報誌に載った文章で、筆者は郷土史家の門脇鎌久さん。書かれている内容は、ずばり吉田さんの曽祖父の物語だった。

曽祖父の吉田金太郎は1890(明治23)年の生まれ。大正時代の初期に織物業で成功するが、大正末期の不況でつまづいたらしい。1933(昭和8)年、家族7人でブラジル移民に加わって神戸港を出港した。アフリカ回りで48日目にブラジルに着き、コーヒー農園で働く。コーヒー農園との契約が切れた4年後から綿づくりを始めるが、失敗。アサイ市セボラン地区に移り、試行錯誤の末に綿作で成功した――。

金太郎の物語を知った吉田さんは、「感動しました」と満面の笑顔。「36年前に母親と一度来たことがありますが、記憶に残っていなかったので。芸西村を見て感動し、ひじいちゃんのことを知って感動しました」

アサイ市。標高500メートル強の高原に広がっている=ブラジル、パラナ州

1975年、一夜の霜でコーヒーが全滅した

アサイ市のことを嶋田さんは「発展して没落した」と表現する。農業で発展したものの、高知と同じく少子高齢化に悩んでいるという意味だ。かつて発展を牽引したのは機械化農業だった。嶋田さんは「1950年代にトラクターを導入し、トラックを導入しています。ブラジルで最も機械化が進んだ街でした。当時、日系人の団体の力はすごかったと思いますよ」。嶋田さんのルーツは北海道の滝川市で、現在はドローンも使って120㌶の圃場で大豆、トウモロコシを栽培している。葉物もやりたいが、「大きな市場で売ろうとしたら葉物は無理です。サンパウロまで9時間、リオデジャネイロまで13時間かかりますから」。農業は今も盛んだが、跡継ぎは一人いればいい。若者は次々とアサイ市を出て行くらしい。最も近い都市は55㌔先にある人口60万人のロンドリーナ市。高校を出た若者は州都のクリチバやロンドリーナに吸引され、アサイ市に残らないという現象が進んでいる。

かつてアサイ市に入植した日系人は主にコーヒーを栽培していた。嶋田さんは「コーヒー一本でした」と説明する。コーヒーの木からは20年にわたって豆が取れる。順調に豆を取っていたある年、それこそ一夜にして暗転する。「1975年です。一夜の霜でコーヒーの木が全滅しました。今でも覚えています。コーヒーの木が一面、真っ黒になっていました。葉が霜にやられることはありましたが、75年の霜では根っこまでやられました。全滅です。以来、アサイ市ではコーヒー栽培が消えました」

水野龍の石碑の前で。中央が西森弘志ルイスさん、右が大石宗県議、左が岡林哲司町議=佐川町

徐々に薄くなる日本との縁

嶋田さんによると、アサイ市と日本との関係は徐々に薄くなっている。年代が若くなるにつれて日本語が話せる日系人は少なくなっているし、日系人社会が運営していたアサイ市の日本語学校もコロナ禍の中で閉校した。今回来高した3人も、「じいさんばあさんが日本語しか話せなかったので、家庭では日本語だった」という64歳の嶋田さんは日本語を話せるが、48歳の吉田さんになると片言になり、29歳の高住さんは全く話せない。嶋田さんは「非日系人の方が日本語を勉強しています」と笑う。

佐川町までは来日中の西森弘志ルイス議員も墓参りを兼ねて一行に加わった。片岡町長ら町の人たちと交流し、水野龍のゆかりの場所を見て回ったあと西森議員のルーツ、尾川地区を訪問。そのあとは懇親会で歓談した。

芸西村までは水野龍の生家近くに住む佐川町議会議員の岡林哲司さんらが3人を案内した。水野の生家近くには1962(昭和37)年に地元有志が立てた石碑があり、その清掃も岡林さんたち地域の住民が担っている。

ルーツの物語を知った吉田さんは「芸西村に行けてよかった。感動しました」と何度も感謝し、嶋田さんは「これから交流を深めたいですね」とにっこり。岡林さんも「交流させてもらってよかった」と応じていた。

(C)News Kochi(ニュース高知)

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