福島第一原発の事故で放射能汚染され、一時はバリケード封鎖されていた福島県飯舘村長泥地区が大きく変貌している。変化を生んだのは「環境再生事業」と名付けられた環境省のプロジェクトだ。事業の受け入れを決断した元長泥地区行政区長の鴫原良友さん(74)は、これでよかったのだろうかと今も悩んでいる。自分たちの思いと国の考え方に落差があるのではないか、と。(依光隆明)
「ちょっと違うんじゃねえの?」
2024年11月19日、福島県飯舘村長泥。「ほら。14万キロ。もう元取ったんじゃないかな」。プラグインハイブリッド車の運転席で鴫原さんが走行距離計(オドメーター)を指さした。自家用車購入の基準はガソリン代だ。後述するが、長泥地区は福島第一原発の事故によって「帰還困難区域」に分類されるほど深刻な放射能汚染に見舞われた。鴫原さんは福島市に避難し、やがて市内に一軒家を購入する。そこから長泥までは片道45キロ。区長だったこともあり、毎日のように長泥に通った。この車に代えたのは7年ほど前。今も月間走行距離は2000㌔に達している。プラグインハイブリッド車なら家庭で充電できる。ガソリン代が節約できる。
窓の外には長泥の美しい光景が広がっている。美しい、と表現できるのは雑草がきれいに刈り取られているからだ。鴫原さんが旗を振り、原発事故の直後から草刈りは続けてきた。「『(放射能の影響で)病気になったらどうするんだ』って批判もあったんだよ」と鴫原さん。批判は受け止めつつ、農地や道路、家屋敷が荒れていくのは防ぎたかった。最初は地区総出のボランティアで、のちには「維持管理」名目の補助金が出て、地区の人々が黙々と草刈りを続けた。それは地区全体が荒れ地となるのを防いだ。やがて「(福島県内にたくさんある)帰還困難区域の中でこれほどきれいなところはほかにない」(飯舘村の杉岡誠村長)と言われるようになった。
長泥の中心部に近づいたとき、黒い土の上で作業員が動いていた。重機も動いている。農業基盤整備事業のような風景だが、農地を作っている感じには見えなかった。黒い土は粘土質のように見える。水はけが悪そうだ。動く重機を見やりながら鴫原さんがぽつりと言った。「ちょっと違うんじゃねえのって思ってるんだよ」
「ちょっと違う」とはどういうことか。福島第一原発事故直後の長泥について説明しないと、おそらくその意味は分からない。
30㌔圏外は安全、だから長泥は安全?
2011年3月11日の東日本大震災によって起きた福島原発事故で、最もほんろうされたのは飯舘村長泥だったかもしれない。福島第一原発から33㌔の距離に位置することが微妙に不幸を呼んだ。深刻な放射能汚染を把握したあとも、国は「30㌔圏の外は安全」という原則論に固執したのだ。30㌔圏外は安全、だから長泥は安全、というめちゃくちゃな理屈だったと表現しても間違ってはいない。いわば長泥住民は国に切り捨てられた。不安がる地区の前に長崎大医学部の教授が現れ、集会所で「住んでいても大丈夫!」と太鼓判を押したのは2011年4月の初め。極めて危険だ、外に出ろ、と国が全村避難を命じた日はその2週間後だった。翌年7月には村内で長泥地区だけが「帰還困難区域」に分類されてバリケード封鎖される。地区に入るのも禁止されるほど放射能汚染はひどかった。
モニタリングカー(放射線数値観測車両)が長泥地区の中心部、長泥十字路で放射線量の測定を始めたのは2011年3月17日だった(国は3月16日のデータも発表したが、全く別の場所)。3月17日の数値は毎時95.1マイクロシーベルト。1年間で計算すると833シーベルトになる。放射線業務従事者に認められる年間許容量(被曝限度)は50シーベルトなので、驚くような高い数値だった。福島第一原発から大量の放射能が漏れたのは3月15日だから、もし16日に測っていたら毎時100マイクロシーベルトを軽く上回っていた可能性がある。この数値を計測した技術者は、放射線に携わって40年のキャリアを持っていた。「原発に近い、人の姿が見えない地域ではもっと高い数値も計測した。しかし一番驚いたのは長泥だった。高線量の中で、地元の人が普通の格好でそこにいた。普通に生活していた」と明かす。技術者が放射線管理区域に入るには厳格な決まりがある。専門家としてキャリアを積んだだけに、放射線管理区域よりはるかに高い数値の中で人が生活しているという現実が衝撃だった。この技術者は、その後何度も長泥十字路を測定に訪れた。求められれば地元の人に数値を説明したが、数値を言われても地元の人にとってはいま一つ意味不明だった。
避難先すら見つからず
「放射能なんてぜんぜん分かんねえも。放射能なんて一瞬で消えるくらいにしか思ってなかったも」と鴫原さんが振り返る。鴫原さんは原発事故の1年前に行政区長になっていた。長泥十字路で毎時95.1マイクロシーベルトが計測されたころ、飯舘村には海岸部の南相馬市から大勢の住民が逃げてきた。津波の恐怖と放射能の恐怖に追われ、原発から遠く離れた山あいの飯舘村にやってきたのだ。「おらの妹も南相馬にいたんだけど、原発が爆発したときに爆発音が聞こえたって言うんだよ」と鴫原さん。体育館を埋めた避難者には食べ物がなかった。鴫原さんは区の一戸一戸にコメの供出を頼み、地区の女性たちがご飯を炊いておにぎりを握り続けた。原発は遠い存在だった。原発絡みのおカネも入らない代わりに放射能も来ないと思い込んでいた。放射能に関する知識を伝えられたこともなかった。
飯舘村が全村避難を命じられたとき、避難先する先がなかなか見つからなかった。「先に避難した人でもう埋まっていたんだよ」と鴫原さんが言う。大熊町など、原発立地自治体はいち早く県や東京電力が対応してくれた。たとえば大熊町ははるか遠い会津の温泉地に避難することができた。安全地帯にまとまって避難できた。ところが長泥が避難を始めたのは2カ月以上もあとだった。住民はばらばらになっていろんな施設に吸収されていった。
離れ離れの住民と連絡を取りながら、バリケード封鎖、国との交渉、補償問題、復興、コミュニティーの維持などなど、困難な課題に走り回った。奔流の中に放り込まれたと言ってもいい。鴫原さんはごく普通の兼業農家だった。朝は4時に起きて牧草を刈り、繁殖牛にえさをやった。朝ご飯を食べたら南相馬市のステンレス工場に出勤し、一日中働いた。帰ってきて牛の世話をしたら疲れて寝る。こまねずみのように働くことで一家を支えてきた。原発事故はすべてを変えた。人前で話したこともない人間が人前で話した。国や東電と交渉もした。理不尽さに怒り、涙を流し。「2年くらいは記憶が全く残ってないんだよ」と振り返る。毎日毎日、記憶が飛ぶほどの興奮状態が続いていた。
「なんで環境省なんだよ」
鴫原さんが決断を迫られたのは2017年だった。長泥を除く飯舘村の各地区では「除染」が進んでいた。放射線を発し続ける放射性セシウムは、土壌にべったりと張り付いて剥がれない。人が住めるようにするためには土壌ごと剥がすしかない。セシウム土壌を剥がす作業を国は「除染」と呼んだ。人が住めるようにするために除染をするのである。福島市でもどこでも除染が進んだが、長泥は除染の対象にはならなかった。人が住めるようになるとは考えられなかったからだ。これが鴫原さんには我慢ならなかった。
国が出してきた案は、地区外の低汚染土の受け入れだった。「長泥の土は高濃度に汚染されている、低汚染土を引き受けたら人が住めるように除染してやる」ということだと鴫原さんは受け取った。鴫原さんは悩みに悩んだ。住民の声も聴き、最終的に低汚染土の受け入れを決める。長泥の土壌の上に低汚染土を載せ、その上に山の土をかぶせて農業をさせる、というプロジェクトだった。山の土では農業は無理だ、と声をあげて黒ボク土を載せてもらうことにした。黒ボク土は火山灰由来のほくほくした土だ。その上なら農業ができるかも、と若干の期待をしたのだが…。遠くからトラックで運ばれてきた黒い土は粘土質だった。「ごろごろしてて細かく崩れないんだよ、粘土なんだよ」と鴫原さんは嘆く。「なんで環境省かって思うんだよ。農水省か経産省にさせろって」。農業をやったこともない、原発事故の当事者でもない環境省がなぜプロジェクトを仕切るのか、という思いは消えない。
豊かな里山からセシウムが…
除染にしても、家の周りをやってくれるだけ。山には手を付けないから、里山に入ることさえできなくなった。「『除染してないから基本的には入るな』って。『(山で採った)キノコ食べんな』って。楽しみがないのよ」。長泥は豊かな森に囲まれている。秋になると多種多彩なキノコが生える。それを採って近所の人にふるまうのがお年寄りの楽しみだった。足腰も強くなるので実益も兼ねた。生活を支えてくれたそんな里山の森に、情け容赦なく放射能が張り付いた。山に入れないばかりではなく、セシウムにべったり汚染された枝葉や土が除染された家屋周りに落ちてくる。これでは安心して住めない。
いついつまでに決めてくれたら家を無料で解体してやる、という国の話にも違和感を感じた。まるで「やってあげるからいついつまでに決断しろ」というような命令に見えたからだ。家に住めないようにしたのはいったい誰だ、先祖伝来の家に住めないようにしておいて、なんでそこまで頭ごなしなのか、と。
「長泥は義理人情だからな、義理人情が通用しないんだよ、国には。こんな目に遭ったんだから国にもっとやってもらってもいいと思うんだが、義理人情が通じないんだよ」。国や村の求めに応じ、事故翌々年の2013年には長泥でコメを作った。収穫のときは大勢のマスコミがやって来た。そんなことが長泥復興の第一歩だと思っていた。被害者意識を押し立てることは控え、国の施策にも協力できることは協力した。低汚染土を受け入れるという実証実験を認めたのも、鴫原さんにすれば国への「貸し」だった。しかし国の対応はどうも違う。それが冒頭の「ちょっと違う」につながっていた。(続く)