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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑲もう一つ新聞を作る

西岡寅八郎さん(91)が県議会議員となったのは1971(昭和46)年4月。自民党の県議会議員を11期連続で務めながら党の役職には就いていない。むしろ党内より党外の交友関係が広い。(依光隆明)

高知城の前に並ぶ高知県庁本庁舎と議会棟(手前)=Google Earthより

公明党と共産党はきれいです

「僕は一日も早うに辞めたかったがぜ、議員ゆうがは」と西岡さんは言う。「(県議会の)議長になるのも『嫌や』ゆうたけんど、2回やらされた。3回目は断った。(自民党の)県連の役はなんにもやってない」。一つだけ引き受けた役職がある。「どうしてもやってくれゆうて押し付けられたのが日朝友好議員連盟の会長ですわ。『やる人間が誰もおらんきやってくれ』ゆうてみんなが頼みに来るき、『そしたらやっちゃらあ』ゆうて。朝鮮総連が桟橋辺りにあって、そこでときどき会議があった。公安の車が来ちょった」

日朝友好議員連盟というのは日本と北朝鮮との友好関係の促進、国交正常化を目指して設立された超党派組織。西岡さんが就いたのは県レベルの会長だ。汗をかいたところでむしろイメージダウンになりかねないから自民党県議は誰もやらない。誰もやらないから西岡さんはやることにしたらしい。父・寅太郎氏に反発して土佐高を辞めたときもそうだが、西岡さんには常人以上の反骨精神がある。自民党県議にとって最高度に魅力的なポスト、県連幹事長には一度も就かなかった。

もともと西岡さんは自民党の考え方に共鳴して自民党に入ったわけではない。病気引退した寅太郎氏の地盤を継いだので、選択の余地なく自民党から出ただけだ。しかも県議になった当初、自民党の先輩県議とは肌が合わなかった。自然、他党の議員と親しくなった。「親父は敵を作ってなかったですから。共産党の県議とも隔たりなく付き合いよった」と西岡さん。自身もそれを踏襲した。「自民党の会派室におるのが嫌やったんです。そんなときに『寅さん、こっち来(き)いや』ゆうていつも誘ってくれたのが公明党の中沢潤二と共産党の萩野郷一。よう一緒にメシ食いました。議会中は毎晩会いよったですよ」

西岡さんには「みんなおんなじ人間や」という考え方がある。だから地位で人を見ることはないし、所属政党やイデオロギーで人を分けることもない。同年代ということもあり、中沢氏と萩野氏とはウマが合った。「萩野は『寅さん、悪いけどこれ頼むわ』ゆうて履歴書を持ってきたこともあります」と西岡さん。臨時職員への就職斡旋だったらしい。西岡さんは引き受けた。「県の臨時職員じゃないです。ほかのところです。二人とはよく飲みに行っていろんな話をしました」。萩野氏とはこんなこともあった。議員歳費を上げるかどうかというとき、萩野氏は日当の方を上げてほしかったらしい。西岡さんが「ほんなら賛成しいよ」と言うと、萩野氏は「わしら上げるときは全部反対やき」。「そらインチキやのう」と西岡さんが突っ込んで、萩野氏が「まあえいじゃいか」と笑う。そんなことがよくあった。西岡さんが言う。「人間的には中沢も萩野もよかった。あとは社会党の江渕征香。これらあはほんと人間的によかったねえ。人間の質からゆうたら、党派別には公明党が一番きれいですね。それから共産党がきれい。公明党と共産党は(立候補者の)人選をしゆうきでしょうねえ。一番いかんのは自民党。人選をせんですからねえ」

テレビ高知草創期の看板番組、イブニングKochi。機動力ある取材が県民に支持された=『テレビ高知十年史』より

5万部の新聞社ができる⁉

いろいろなところから頼られるのも寅太郎氏と同じだった。「高知新聞の隣で5万部の新聞を出すというときも、なんか知らんけんど中へ入らされた」と西岡さんが明かす。高知新聞とテレビ高知の間でこの問題が火花を散らしたのは1979(昭和54)年のことだった。西岡さんが絡む発端はその数年前、先輩県議から親戚の就職斡旋を頼まれたことだ。大阪で働いている男性を高知のマスコミに転職させたい、と。西岡さんは高知新聞の社主兼社長、福田義郎氏のところに出向いてそれを頼む。福田氏の返事は「高知新聞へは入れん。(関連企業の)高知広告センターやったら言うちゃらあ」だった。福田氏の口利きでその男性は高知広告センターに入った。ところがこの男性、誘いを受けてテレビ高知へ移ったらしい。これが福田氏の怒りに火をつけた。1979年夏のある日、高知新聞社長室の掛水俊彦氏から西岡さんに電話がかかってきた。「『寅さんを呼べ!』ゆうて福田さんが言いゆう。待ちゆうき早う来てください」。西岡さんが高知新聞に駆け付けると、福田氏は怒りの声だった。「お前の言うてきた男がテレビ高知へ行ったぞ!」

怒りの背景にあったのは、にわかに胎動した高知の新聞戦争だった。高知新聞の系列局は1953(昭和28)年に創立された日本テレビ系のRKC高知放送。TBS系のテレビ高知は県内民放第二局として1970(昭和45)年4月に開局していた(会社設立は前年)。広告のパイ(市場規模)はおおむね決まっているから、高知放送の売り上げがテレビ高知に蚕食された構図になる。それだけならどの県にもある話だが、テレビ高知は驚天動地の構想をひそかに進めていた。

開局時からテレビ高知の社長は元県議会議長の泉清利氏が務めていた。実業家としても知られる泉氏は、新聞にも手を伸ばそうとしていた。高知新聞のライバル紙を作るのだ。新たに新聞社を立ち上げ、高知市限定で5万部を発行する。高知市だけで配る新聞を作る、と。その計画を知ったとき、「福田さんは一番慌てとったですよ」と西岡さんが振り返る。日本の新聞は各世帯に戸別配達することで部数を伸ばしてきた。月ぎめ料金は都会でも田舎でも同じだが、コストがかかるのは過疎地の配達。都市部は利益率が高い。都市部に絞って5万部程度の新聞なら採算が取れる可能性がある。高知新聞の経営は間違いなく圧迫される。

中央に立つのがRKC高知放送の本社。この右側に新しい新聞社を造る計画だった。左側は高知新聞放送会館があった場所=高知市本町3丁目

場所も決まっていた

高知新聞は1960(昭和35)年に愛媛県宇和島市の南海タイムスを買収、「新愛媛」と名付けて松山市まで進出した。高知新聞の記者を次々出向させ、地元の愛媛新聞と営業、取材の両面で戦いながら勢力を伸ばそうとした。やがてその「戦費」が本社の経営を圧迫。1976(昭和51)年、福田義郎氏は造船王だった「来島どっく」の坪内寿夫氏に「新愛媛」を売却して撤退する。坪内氏は日刊新愛媛と題字を変え、豊富な資金力で一時は四国最大の部数を誇る新聞社へと成長させた。女性記者の大量採用や愛媛県知事との衝突など多くの話題を振りまいたが、意外なところから足元をすくわれる。プラザ合意(ドル安に誘導する先進国の取り決め)による1980年代の急激な円高は、日本の船会社の収益構造を破壊(プラザ合意以前の1ドル240円時代に2400万円だった10万ドルのドル建て運賃が、円高で1ドル120円になると1200万円に。人件費などは円建てなので収益構造は赤字となる)した。新たに船を作る船会社はなく、これが造船不況を生んで日本全体を暗く覆う。「来島どっく」は1986(昭和61)年に事実上の倒産、日刊新愛媛も同年末で新聞発行を止める。日刊新愛媛が元気だったのは10年弱だった。

5万部の新聞構想が出た1979年は日刊新愛媛が伸び続けている時代だった。老舗の愛媛新聞が窮地に陥っているさなか、原因を作った高知新聞が新興紙の挑戦を受ける。いいも悪いもなく、挑戦を受けるしかなかった。当時の高知新聞は「新愛媛」への戦費投入などで経営的には不安を抱えていた。福田義郎氏のイライラは高まっていたと想像できる。西岡さんが絡む移籍騒動はそんなときだった。口利きで入れてやった人間が他社に、それも挑戦状をたたきつけてきたテレビ高知に移る。福田氏の怒りは収まらなかった。駆け付けた西岡さんに憤ったあと、福田氏は目の前の電話を取った。電話の先は高知新聞の役員か高知広告センターの社長だったと思われる。福田氏は歯切れよくこう言った。「広告センターは今後一切テレビ高知は扱わん!」

西岡さんが言う。「自分の目の前で電話してそう言ったんです。それでテレビ高知は仕方なく(広告代理店の)ユーエスケーを作って。ますます戦いがエスカレートしました」。ユーエスケーの創立は1979(昭和54)年10月。高知広告センターはかつて中四国屈指の広告代理店として知られていた。もちろん高知県内ではガリバー的存在で、テレビ高知のCM枠も扱っていた。それを福田氏は切った。自前の広告代理店が必要となったテレビ高知は、仕方なく子会社としてユーエスケーを作った――という流れになる。

寅太郎氏の代から西岡さんは泉清利氏とも親しかった。泉氏は高岡郡宇佐町(現土佐市)から出た県議。県内最大手の大熊水産を経営していて、県議選に「大熊清利」の名で立候補したこともある。政治家であり、やり手の実業家でもあった。高知市から吾川郡春野町(現高知市)を通って宇佐町に入る道は通称「黒潮ライン」と呼ばれている。その敷設に尽力したのが吾川郡選出の寅太郎氏と、宇佐の泉氏だった。「寅太郎と大熊なので『寅熊ライン』と言われました」と西岡さん。春野町と宇佐町は仁淀川の河口で隔てられている。ここに橋を架けなければラインがつながらないが、仁淀川の河口は広い。なんとか橋を、と汗をかいたのが西岡さんだった。西岡さんが説明する。「溝渕(増巳)知事は『カネがないきできん』ゆうがです」。困った溝渕氏は秘書課に知恵を求めたらしい。返事は「道路公団ならいけます。けんどカネを取られます」だった。西岡さんが続ける。「溝渕さんは『なんでもえいき作れ』『できるときに作れ』と」。できたのが1977(昭和52)年開通の仁淀川河口大橋だ。総延長2440メートル、総事業費34億円。秘書が言った通り、当初は通行料が必要だった。「500円取っていました。『高い』ゆうて評判は悪かった」

西岡さんには福田義郎氏からよく電話がかかってきたが、泉清利氏からもよく電話がかかってきた。呼ばれて高知新聞へよく足を運んだし、テレビ高知にもよく行った。泉氏からは5万部新聞社創設の話を聞き、高知新聞に行ってそれに憤る福田氏の話も聞いた。板挟みになったわけではないが、二人の間に挟まっていた。泉氏からは新聞社の建設場所も聞いていた。「高知中央郵便局が高知新聞の隣にあったでしょう、『そこが払い下げになる』と泉さんは言っていました。『払い下げを受けて、そこに新聞社の本社を建てる』と」。高知市本町の電車通り沿い、現在の高知本町郵便局だ。西側にはRKC高知放送の本社ビルが建っている。2024(令和6)年までその西隣に高知新聞放送会館が建っていた。ライバルの本丸に泉氏は新しい新聞社を立ち上げようとしていた。

新聞戦争がまさに始まろうとするとき、唐突にその動きが消える。泉清利氏が死去したのだ。「テレビ高知の10周年祝賀会で祝辞を言って、自分の席に戻ったときに倒れました。心臓麻痺でした」と西岡さん。1980(昭和55)年3月14日、高知県民体育館で開かれた「開局10周年記念パーティ」でのことだ。テレビ高知開局20周年記念誌『あるばむ20』はこう書いている。〈台風災害の試練を乗り越えて、十年間の努力の積み重ねで迎えた晴れのパーティーであった。出席者は県内外から千人という盛況で全社あげて十年間の大きな節目を喜んだ。その喜びと共に、誰もが忘れ得ぬ悲しみを味わった日でもあった。パーティーの冒頭で力強く、みごとな挨拶をした泉清利社長が、挨拶を終え降壇したあと、すぐに倒れ、そのまま帰らぬ人となったのである〉。西岡さんが言う。「それで火が消えました。副社長から社長になったのが、県議だった岡林秀起さん。中内力知事の後援会長もしていました。県議時代から泉さんとウマ合いやったんですが、新聞を出すという気はぜんぜんなかったですね」。亡くなったとき、泉氏は70歳。泉氏の構想に身構えていた福田義郎氏も、1カ月半後の5月5日に急性心停止で突然亡くなった。72歳だった。

1980年3月14日、テレビ高知開局10周年記念パーティーの開会前に秘書と談笑する泉清利氏(左)。この30分後に亡くなった=テレビ高知開局20周年記念誌『あるばむ20』より

切られる専務が新社長に

「泉さんがもうあと少し生きちょったら新しい新聞社ができちょったでしょうねえ。テレビ高知の幹部社員はやる気でしたきねえ」と西岡さんが振り返る。「僕はテレビ高知によく行っていましたから、知り合いはたくさんいたんですよ。泉さんが亡くなったとき、僕が社長になるゆう噂が出たばあですから。そればあ親しかったですよ」。西岡さんによると、「岡林さんになってテレビ高知はがらっと変わりました。高知新聞の役員がテレビ高知の役員になったりしましたから」。5万部のニュー新聞社構想を知っていたのはテレビ高知でも高知新聞でもごく一部。しかし実現に向け着実に具体化していたことを西岡さんは知っている。「あのとき5万部の新聞社ができちょったら高知県そのものが変わっちょったと思います」と話したあと、「高知新聞も中島さんの時代になって変わってしもうた」と続けた。この感慨には伏線がある。移籍騒動で福田義郎氏に呼びつけられたとき、西岡さんは専務室に顔を出してから福田氏の部屋に行こうとした。専務室に座るのは中島暁氏。西岡氏が衆議院議員選挙に担いだ元大蔵官僚の谷川寛三氏とは東大時代の同級で、谷川氏と激しい戦いを繰り広げた衆議院議員・大西正男氏の親戚だった。西岡さんは中島氏とも親しかった。

中島氏に一声かけようとしたら、福田氏から声がかかった。福田氏は社長室の前に立って待っていた。「『寄る必要はない』と言うがです。『寄ってもいかんぞ』と」。部屋に入ると、福田氏はこう言った。「おまえの先輩(土佐高の先輩)かもしれんが、次の株主総会のときにはもうおらんぞ」。「どういうことです?」と西岡さんが聞くと、福田氏は言った。「もう交代じゃ!」

理由は不明だが、福田氏は中島氏を切る腹を固めていた。福田氏が口にした「次の株主総会」は1980年6月。福田氏が急死したのはその直前、5月5日だった。次の社長には切られるはずだった中島氏が就いた。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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