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映画「どうすればよかったか?」㊤ 統合失調症に向ける目線のもどかしさ

高知市帯屋町のキネマMで2月21日から映画「どうすればよかったか?」が上映されている。統合失調症を発症した姉と父母を20年にわたって弟がカメラに収め、編集した作品。精神疾患という扱いづらい対象に正面からカメラを向けただけにインパクトは大きい。全国的にも高知でも鑑賞者は多く、2月28日夜には高知市内でこの映画の感想を語り合う会も開かれた。(依光隆明)

「どうすればよかったか?」のちらしに使われた家族の写真。父親の還暦祝いのときの写真だとみられる=「どうすればよかったか?」のちらしから

40年にわたる患者と家族の物語

映画のちらしには家族団らんの写真が使われている。父親の還暦を祝うパーティーだろう、父は赤いちゃんちゃんこを着て赤い帽子をかぶっている。このとき姉の雅子さんは28歳くらいで、監督を務めた弟の藤野知明さんは20歳くらい。映画に本人の学生証が出てくるので、北大農学部の学生だったと思われる。姉に統合失調症とみられる最初の症状が出たのはその3年前だった。

一家は札幌市内の一軒家に住んでいる。家族の属性を特徴づけると高学歴・高収入となるだろう。父母ともに医師で、臨床医ではなく基礎研究に従事している。姉が幼かったときに一家でドイツに留学。姉は優秀で、絵とピアノが得意だった。姉は4年かかって医学部に入学(北大または札幌医科大と思われる)、教養課程を終わって医学課程に進んだときにつまづいたらしい。1983年、最初の症状が出た。救急車で運ばれた姉が戻ってきたあと、「父は『医者が全く問題ないと言った』と説明した」と弟(監督)は回顧する。ここから40年にわたる患者と家族の物語が始まる。

安岡章太郎の「海辺(かいへん)の光景」。1957年に取材し、59年に発表した。芸術選奨と野間文芸賞を受賞

 

父母は終戦直後に医師となった

藤野監督がカメラを回し始めたのは2001年。こだわったポイントは、「なぜ姉を病院で治療させなかったのか」だ。病院に連れて行きさえすれば適切な治療を受けさせることができたのではないか、という強い思いが伝わってくる。これに対する父母の答えは判然としない。医師であるなら姉の症状が精神疾患だと気づかないほうが不自然だといえる。とすれば当時すでに治療法があることも分かっている。それを正視せずに事なかれを決め込んだのか。いや、それは違うのではないか。

ひょっとしたら、と考えたのは当時の精神科医療をめぐる状況だ。父親は1926年生まれ、母親は1927年生まれで、おそらく終戦から間もなく医師になっている。障害者を邪魔者扱いした戦争の余波を受け、戦後しばらく精神病院は治療施設というよりも収容施設の趣が強かった。看護人(看護師ではない)が竹の棒を持って患者に暴力をふるうこともあったし、優生思想からくる差別意識もしみ込んでいた。高知県出身の芥川賞作家、安岡章太郎が書いた中編小説「海辺の光景」(1959年)は、1950年代の精神病院の一面を生々しく描写している。安岡は、母が認知症で入院した精神病院に1週間ほど泊まり込んで取材した。

三野進氏の「1950 年代の北海道の優生保護法の運用と精神科医の関与」から。北海道衛生部は精神病院に対して「ひるまず極力申請を」と叱咤激励、ノルマまで課して大量の強制不妊手術を行っていた

優生保護法、強制不妊手術の圧迫感

精神障害者やハンセン病患者への強制不妊手術を内容とする優生保護法が施行されたのは、父母が医師になったころとほぼ同じ1948年だった。この法律は医師資格を持つ香川県出身の衆議院議員谷口弥三郎らが提案したが、のちにそのずさんな内容が強く批判される。2024年に日本精神神経学会が出した「優生保護法下における精神科医療及び精神科医の果たした役割に関する研究報告書」は、精神疾患と遺伝を半ば無理やり結びつけたこと、人工妊娠中絶と優生保護という全く違う内容を一つの法律にしたことを批判的に取り上げている。制定過程に精神科医がかかわりを持たなかったにもかかわらず、精神科医が強制不妊の制度に組み込まれたことにも触れた。

この法律を根拠に、統合失調症の患者や知的障害者らに強制不妊手術が行われた。理由は「遺伝性疾患を絶やす」ため。判明しているだけでも全国で2万5000人の人たちが強制不妊手術を執行されている。都道府県別に見ると、2位の宮城県を大きく引き離して圧倒的な手術件数を誇ったのが北海道だった。判明分だけで3224件。道庁が積極的に強制不妊を推進し、精神科の医師が追随したことが背景にある。先の報告書は複数の論文で構成されているが、資料として添付された三野進氏(同学会法委員会委員)の「1950 年代の北海道の優生保護法の運用と精神科医の関与」が北海道の内実をえぐっている。それによると、北海道は精神科医→保健所→優生保護委員会という独自ルートで書類を回し、道庁が旗を振って大量の強制不妊手術を執行した。そのことを、三野氏は「北海道行政の暴走」と指弾している。

北海道も、全国的にも強制不妊手術数がピークを迎えたのは1955年だった。そのとき父母は30歳前後。若手研究者として、強制不妊に象徴される優生思想が蔓延する中で医学研究を続けていたことになる。しかも北海道は道庁の号令下、精神科医が強制不妊手術に手を染めていた。業界の中にいるだけに、一般の人以上に父母は精神科医療への不信感を持っていた可能性がある。

優生保護法の別表。筆頭に載るのが遺伝的精神病で、その筆頭に統合失調症(精神分裂病)があった

一丁目一番地が統合失調症

優生保護法は学術面の誤り(遺伝由来という断定など)や極端な差別性(優生思想)が批判され、首相や各県知事が謝罪の上で強制不妊手術を執行された人たちへの補償作業を進めている。しかし優生保護法は1996年まで存在していた。お粗末な中身ではあっても1996年まではれっきとした法律として生きていた。法律とお役所がタッグを組むともう怖いものはない。両者の権力を背景に、多くの医師はおそらく何の痛痒もなく強制不妊手術を重ねていた。執行手続きも厳格さとは程遠く、手術を執行された人の中には手術された事実すら知らされない人もいた。そうやって少なからぬ人が人生を大きく狂わされた。手術をする側とされる側の利害がこれほどかけ離れた医療行為は珍しい。

優生保護法には別表がついている。強制不妊手術(法律では「優生手術」)を受けるべき人の病名だ。一番目に書かれているのが「遺伝性精神病」で、その筆頭に書かれているのが「精神分裂病」。統合失調症という名前が登場したのは2002年で、それまでの病名は精神分裂病だった。精神分裂という呼称が差別的だと判断し、厚生労働省が正式に病名を変更したのがその年。監督の姉が発症した1980年代の病名は精神分裂病だった。

医師となった年代から見て、優生保護法が扱うべき一丁目一番地が精神分裂病(以後統合失調症で統一する)だと父母は知っていたに違いない。北海道衛生部が1956 年に作成した「不妊手術(強制)千件突破を顧りみて」によると、強制不妊手術の85%は統合失調症の患者に執行していた。娘が統合失調症と診断されたら強制不妊手術の対象になるかもしれない。精神病院に収容され、劣悪な環境に置かれるかもしれない。家庭に戻って来られなくなるかもしれない。社会復帰できなくなるかもしれない。などの懸念を父母が抱いた可能性は否定できない。いや、思わなかった方がおかしい。現にそうなる危険が存在するからだ。

優生保護法は任意の優生手術(不妊手術)についても定めていた。対象は「四親等以内の血族関係にある者」

四親等以内は任意不妊手術の対象者

優生保護法制定当時の思想は、日本精神神経学会法委員会委員の中村江里氏が「精神衛生と優生教育」という論文にまとめている。中村氏は複数の文献を俎上に上げていて、それを読むと当時の医学界の雰囲気がよく分かる。たとえば1958年に医学書院から出版された『高等看護学講座(21)精神医学、精神科看護法、精神衛生』には国⽴精神衛生研究所心理学部⻑を経て日本大学教授となった井村恒郎がこう書いている。「遺伝の傾向のいちじるしい場合の精神分裂病にたいしては、断種のような徹底した優生的措置をとる必要がある。本人は健康だが、血縁に何人かの精神分裂病者がいて、濃厚な遺伝負因の推定されるときにも、本人の同意を得てなんらかの優生的措置をとる必要があろう」。姉が生まれたのはこの本の出版と同じ1958年だ。当時、このような医学教育が普通に行われていた。

井村論文にあるように、当時は血縁者にまで不妊(断種)が薦められていた。優生保護法の不妊手術には強制と任意があり、四親等以内の血族は任意不妊手術の対象だった。姉が統合失調症と診断されたら、姉を撮影している弟も任意不妊手術の対象となる可能性がある。もちろん父母も同様だ。繰り返すが、姉に最初の症状が現れたのは1983年だった。当時まだ優生保護法は健在で、優生思想も消えていない。娘が統合失調症と診断されれば、家族全員が社会から弾かれるかもしれない。誰もがうらやむ高学歴一家が一転、「劣った遺伝子を持っている」と後ろ指をさされかねない。そうなったらどうなるのか。父と母にそのような恐怖がなかっただろうか。

映画「どうすればよかったか?」のちらし

家庭の不思議な温かみ

映画の内容に戻る。鎖で閉じ込めという衝撃的な情景を事前にPRされていたせいだろうか、実際にこの映画から伝わってきたのは家庭の温かみだった。姉に振り回されて家庭には歪が生じるが、崩壊はしていない。節目節目にはぜいたくな料理を作り、ワインを飲み。姉はニューヨークまでの片道航空券を買って一人で米国旅行まで敢行している(現地で保護されたが)。占いと宝くじが好きで、部屋は整理されていて旧型のデスクトップパソコンが置かれている。父母は普通の人のように(病気のない人のように)姉に接している。ビールを入れたコップに料理を落としても、大声をあげても、動揺はしない。娘と父母に不思議な暗黙の絆があるようにも感じられた。

映画を見ているうち、監督(弟)の意識と父母の意識のずれが目立ってくる。コップに料理を落とした姉の異常さを突きつける監督と、平然としている母。姉を病院に連れていくべきだと主張する監督と、「(姉は)自分のやるべきことをやっている」と主張する母。映画の中で象徴的に使われるのが玄関の鎖だが、「閉じ込めているわけではない」と母は言う。その通り、映画の中からは「鎖で閉じ込める」という狂暴な雰囲気は伝わってこない。母も姉も10カ月にわたって外に出ていないことも明かされるのに、暴力的な感じがしないのだ。姉がたくさん作った箱型の小さな作品に対し、監督が「理解できず衝撃を受けた」とコメントしたところにも違和感が残った。理解する必要はないし、理解できないという現実を許容してもいいのではないか、と。

優生保護法の冒頭。「優性思想に基づく強制不妊」と「母体保護」という質的に異なる内容をセットにしていた

刺激的映像から伝わる違和感

こちら側の世界にいる監督と、姉を中心とするほかの家族。撮る者と撮られる者。追及する側、される側。そんな図式を感じるようになると、違和感がさらに高まる。ことさら異常な場面を映画に使ったのではないか、だから鎖や叫び声を強調しているのではないか、姉は落ち着いているときの方が多いのではないか。もどかしいのは母親が認知症になったことだ。いつから認知機能が落ちていたかが判然としないので、母親の発言がふわふわとつかみ難く感じられる。かなり早い時期から認知機能が落ちていたのでは、と考え始めると母親の言葉のほとんどが本心かどうか分からなくなってしまう。100歳近くなった父親の言葉も、しっかりしているようでよく分からない。

厚生労働省によると、統合失調症は100人に1人の割合で発症する。映画を見に来る人の多さは、人知れず悩む人が多い現実を反映しているのかもしれない。その意味ではこの映画の意義は大きい。統合失調症をリアルに知る機会になるし、家族の窮状や戸惑いも伝わってくる。なによりそこに真実の断面(あくまで断面)がある。「どうすればよかったか?」の答えの一つは「もっと早く治療を受けさせるべきだった」となるだろう。それは一面の真理であり、だからこそ映画の中で監督は治療にこだわる発言を何度も行っている。それを是認しつつ、「どうしようもなかった」と答えるであろう父親の気持ちも分かる。

60代半ばまで生きて姉は肺がんで亡くなるが、葬儀のときに父は「雅子の一生は、ある意味では充実していたかもしれないなと思います」とあいさつした。娘と暮らし続けたからこそ、そう言えるのだと思う。父母にお願いして姉は1997年に1冊だけ占いの本を上梓している。その目次を見ると(本自体は手に入らなかった)、彼女が決して世捨て人ではなかったことが分かる。

目次にあるのは「星占いについて(天体;星座;アセンダントについて)」「ハウスについて」「ホロスコープの作成法」「占星学の結果に対する対策」「タロットカード」「物・宝石のアクセサリー・守護石について」「お茶の間の魔法使い」など。他者に興味がない人は占いをしない。雅子さんは社会の中に居場所を求めていたのかもしれない。

2月28日に行われた「語り合う会」は、用意した20人の会場が40人の参加者でいっぱいとなった。統合失調症の当事者や家族が多く、それぞれの視点から見た「どうすればよかったのか?」を語り合った。(続く)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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