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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑨怒って中退、家業を継ぐ

西岡寅八郎さん(91)の人生は父・寅太郎氏の歩みに大きな影響を受けている。人生の節目節目に寅太郎氏の影がかいま見える。(依光隆明)

現在の土佐中高。昔も今も、高知市街から鏡川を挟んだ場所にある=Google Earthより

「よその水を飲んでこい」

1935(昭和10)年4月、西岡さんは吾川郡伊野町(現いの町)で生まれた。戦争の足音が迫り、風雲急を告げる時代だった。翌年2月には2.26事件(陸軍将校によるクーデター)が起こっている。戦時中の蔵元統合で酒造りを手放した西岡家は、敗戦によって旧満州(現中国東北部)に造った製紙工場をも失った。戦後、父・寅太郎氏は酒類卸売業者として西岡家を再出発させる。寅太郎氏にとって西岡さんは長男坊の跡取り息子だ。敗戦直後の新時代、寅太郎氏は西岡さんにこう告げる。「よその水を飲んでこい」。家を出ろという意味だった。小学6年から西岡さんは高知市片町(現在の本町付近)にいた親戚に預けられる。学校はそれまでと同じ伊野小学校に通った。土佐電気鉄道(土電)の電車に乗り、毎日伊野まで往復した。1948(昭和23)年に伊野小学校を出た西岡さんは、県ナンバーワン進学校の土佐中学校に進む。同じ親戚宅から通った。

「『野球部に入れ』と誘われたので、『選手にしてくれるか』と聞いたら『練習せんとなれん』と。ほいたら自分でやるわ、と野球チームを作った。名前はシューティングスターズ。流星。野球部と試合したら野球部よりえらかった」

当時、土佐中野球部は圧倒的に強かった。1949(昭和24)年に始まった高知県中学校選抜野球で第1回から7連覇。翌1950年にスタートした高知県中学野球選手権でも第1回から5連覇。南方戦線から引き揚げてきた元陸軍少尉の国語教師、富田俊夫(1922~1997)の軍隊的指導で無敵の強さを誇っていた。シューティングスターズはその土佐中野球部と戦い、「勝ったり負けたりだった」らしい。「練習は嫌いやけんど、野球が上手なのがけっこうおった」とか。西岡さんはピッチャーと内野。野球部には「山本順三がおった。同級生やった」と話す。西岡さんが高校3年となる1953(昭和28)年、土佐高は春夏の甲子園に出場する。主将の永野元玄氏を除き、ほとんどが土佐中からの持ち上がり組だった。監督はこれも厳しい指導で知られる溝渕峯男(1913~2001)。この年の甲子園の特徴は、テレビ放送が始まったことだ。全国のお茶の間に届いた熱戦の中で最も鮮烈な印象を残したのが土佐高だった。特に夏の甲子園は決勝まで進み、延長13回の激闘の末に松山商に屈している。敗者への判官びいきに加え、純白のユニフォームと全力疾走が土佐高野球部を全国の野球ファンの脳裏に焼き付けた。そのときのエースが山本順三氏だった。

土佐高が初めて甲子園に出場したのはその前年、西岡さんが高校2年生だった1952(昭和27)年の春。エースはのちに四国銀行専務となる池上武雄氏だ。西岡さんが寄宿していた親戚宅に4∼5人で遊びに来るグループがあって、その1人が池上氏だった。波長が合ったのだろう、池上氏と西岡さんは仲良くなり、その後も長く友人関係を続けることになる。ちなみに1952年春の甲子園は、初出場ながら好投手池上を擁する土佐高が優勝候補といわれていた。主将だった池上氏が引いたくじは開幕第一試合。6万人の大観衆の前で地元の八尾高校と対戦し、気圧されたのか0-5で敗北している。卒業後は慶応大学で活躍し、四国銀行でもエースや監督を歴任。本業の銀行マンとしては専務まで駆け上り、請われて土佐中高の校長も務めた。

西岡寅太郎氏の初当選を載せる高知新聞=1955(昭和30)年4月25日朝刊より

「へそまがりよのう」

1945(昭和20)年の敗戦は世の中の価値観をひっくり返していた。高校時代の思い出としてなにより西岡さんの記憶に残るのはストライキだ。相方として名が出るのは土佐塾を創業した福島清三氏(1934~2025)。小学生5人を教えるところからスタートし、予備校や私立中高を擁する一大グループに育てあげた。「同級生やけんど、福島は満州帰りやったき年は上やった」と西岡さん。「中間試験とかが近づいてきたら、福島清三と一緒にストライキをやりよった。『あの教師は面白うない』とかゆうてやねえ、先生を吊し上げて、ストをして。福島と一緒にそんなことをやった。当時は革新という言葉が非常にはやっちょったねえ」。

のちに西岡さんが自民党から県議に初当選したとき、福島氏を始め同級生から次々と電話がかかって「なんで自民党な。お前、革新やったろうが」と言われた。「親父の後継やき自民党から出るしかないがよや」と答えた、と明かす。当時の「革新」を今の言葉に直すとリベラル、反保守、反体制、反自民となるだろう。

西岡さんが高校2年、17歳になった直後の1952(昭和27)年4月末にサンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効した。これによってGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領時代が終わり、風向きが変わる。5月1日には皇居前広場で学生と警官隊が激突、「血のメーデー事件」と呼ばれる騒乱が起きた。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争も続いていた。先の見えない、政情不安定な時代だった。

西岡さんは進学するとしたら早稲田大か慶応大だと考えていた。それが一変するのは寅太郎氏の政界進出だった。1954(昭和29)年の夏ごろだったと思われる。寅太郎氏は翌年4月の県議会議員選挙に出ることを決める。「県議会に出てくれ」と地元の人たちに担がれたらしい。西岡さんは怒った。

「腹が立って立って、『なんでそんな世界へ行くがな』と。『どうしてもやるんなら親父はそっちをやれ。俺は酒屋をやる!』と宣言して。卒業まで半年くらい残して土佐をやめた」。卒業まであとちょっとやないか、と同級生は懸命に引き留めてくれたが、スパッと退学した。「へそまがりよのう」と笑う。

寅太郎氏は翌年春の選挙を目指して活動し、西岡さんは父親に代わって酒類卸の仕事に就いた。県中部から西部にかけて林立する酒屋に酒を卸す仕事だ。当時、清酒は木箱に1升瓶が10本並んで入っている。それをトラックの荷台に何段にも積んで配達する。一番売れていた銘柄は「花の友」だった。次が「司牡丹」、3番手が「土佐鶴」。酒屋が欲しがるのは専ら「花の友」で、「(木箱に入れた)10本の中に1本だけ司牡丹を交ぜたりして売りよった」とか。

県議会議員選挙の投開票日は1955(昭和30)年4月24日。定数4の吾川郡選挙区には12人が立候補し、無所属新人47歳の寅太郎氏はトップ当選を果たす。このときの肩書きは「商業、土電取締役」だった。ちなみにこの時代は高知市一極集中の現代とは全く違って県内にまんべんなく有権者が存在していた。定数を見ると、高知市の8人に対し、高岡郡が9人、幡多郡が8人、安芸郡が5人――など。高知市を選挙区とする議員は定数43人の2割に満たなかった。

販売に苦心、わずか数年で消えたタカラビール=宝ホールディングスのホームページより

キャバレーにビールを売る

寅太郎氏の会社は焼酎メーカー・宝酒造の特約店になっていた。その縁で西岡さんは宝酒造へ修行に出る。拠点は大阪屈指のビジネス街、北浜。仕事はビールを売ることだった。宝酒造は1955年にビールの製造免許を取得し、1957(昭和32)年4月からビール販売をスタートする。名称は「タカラビール」。西岡さんが北浜で仕事に就いたのはそのときだと思われる。ドイツ風の味で品質は良かったらしいが、販売(拡売)は苦戦する。当時のビールはキリン、アサヒ、日本(サッポロ)の寡占状態だった。当然ながら主要な酒類卸売業者はそれらビール会社の特約店を務めている。寅太郎氏の会社自体、アサヒビールの特約店だった。悩んだ寅太郎氏は高知市内に別会社を作ってタカラビールを扱うことにしたほど。向かい風の中、タカラビールのシェアを伸ばすのは至難の業だった。

「売れん。だいたい家に冷蔵庫がないき。売れるゆうたらキャバレーくらい。冬らあ1本も売れんかったき」。冷蔵庫が“三種の神器”として各家庭に普及するのは1960年代の半ばに入ってから。タカラビールの登場は少しだけ時代が早かった。主要な販売先を飲食業者に定めたものの、酒類卸が扱ってくれないので自社の営業部隊が売り込みに歩くしかない。それが西岡さんたちだった。「(ビールを買ってくれる)客は飲み屋しかおらんき、飲み屋を回りよった。出勤は飲み屋が開く時間。それから飲み屋を回るけんど、居酒屋は『焼酎より高いし酔わん』ゆうて売れん。結局、キャバレーへ売り込みに行くしかなかった」

キャバレーで営業もするし、客にもなってビールを飲む。といっても西岡さんは酒を飲まない。「酒を撒いた」と明かす。飲むふりをして手近なお椀や灰皿にビールを捨てたという意味だ。

「ボーイや女の子と親しゅうなって、ダンスしながらどのテーブルでビールが出ゆうかを見たり。店の女の子を3人ばあ映画に誘うて、店で(客に)ビールを勧めてもらうように頼んだり。うらやましがるもんもおるけんど、仕事で飲まないかんのはたまらんぜよ。毎日夕方5時から出勤して、夜中まで働いて」

キャバレーに来る客はだいたいが2次会で来る。さほど飲まない。飲むビールもコップ一杯くらい。要するに、酒の種類にはこだわらないと西岡さんは観察した。ならば女の子さえビールを勧めてくれたら客はその通りに注文する、と。

「タカラビールが何年でのうなったかなあ。のうなる手前で辞めた」と西岡さんは言う。宝酒造がビール事業から撤退したのは1967(昭和42)年。寅太郎氏と懇意だった大宮隆氏が社長に就任し、撤退を決断した。

戦前、日本のビール製造は橋本大二郎・元高知県知事の祖父が社長を務めた大日本麦酒がガリバー的存在だった。戦後、大日本麦酒は名古屋を境に西日本がアサヒビール、東日本はサッポロビール(当初は日本麦酒)に分割される。特約店も同様に分かれ、寅太郎氏が経営する酒類卸はアサヒビールの特約店となった。「西日本はアサヒで、サッポロビールは西では売られんことになっちょった。交通が便利になって、日本中どこでも売れるキリンビールが売れ出した」と西岡さんが説明する。西岡さんによると、「キリンビールは(酒類卸でなく)雑貨屋が売りよった」とか。酒類販売の免許を持つ雑貨中心の卸業者、という意味だ。「ほんで、高知のキリンの特約店は雑貨屋やった旭食品になった。タカラビールがなくなって、うちもキリンの特約がほしかったけんど、くれんかった」

タカラビールを辞めた西岡さんは家業の酒類卸に励む。脂が乗ってきたころ、またも運命が一変する。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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