終戦を迎えた1945(昭和20)年から80年以上経った。戦時を生きた人の数は年々減少しているなかで戦争の記憶をいかに継承していくかが課題になっている。2024(令和6)年9月、高知県高知市にある平和資料館「草の家」を訪ねた(立命館大学4年、末永光)=インターンシップ研修生

民立民営の「草の家」(1階)=高知市升形
「現代の平和」を学べる場所
平和資料館「草の家」は1989(平成元)年11月11日に開館した。開館日は創設者・西森茂夫さんの誕生日であり、第一次世界大戦が終結した日で、国際平和デーとしても知られる。草の家では戦争について次世代に伝えるため、遺品の整理や展示、平和教材としての貸出をしたり、講演をしたりしている。
副館長の出原恵三さんに「草の家」創設時のことや現在の活動についてお話を聞いた。出原さんは取材の8カ月後、2025年5月に館長になっている。
出原さんによると、創設のきっかけは平和に対する市民の願いだった。「『現代の平和』を学べる場所を作ってほしい」と高知市に呼び掛けたが、実現しなかった。土佐高校の教師だった西森茂夫さんが「民立民営で作ろう」と考え、自宅の半分を改造して建てたものが現在の草の家だ、と説明する。
「草の家」のホームページを見ると、1979(昭和54)年に「第一回高知空襲展」が開かれ、1984(昭和59)年に「平和資料館・草の家をつくる会」が結成されている。

出原恵三さん=2024年9月、「草の家」
戦争被害者と加害側の対話
草の家の活動には「加害」「被害」「抵抗」「創造」の4つの柱がある。
「多くの日本人は被害についての話を聞くことが多い。しかし戦争の歴史は被害だけでは語れない」と出原さんは説明する。日本では1944年以降、空襲が本格化した。1945年2月には硫黄島に、同年3月には沖縄に米軍が上陸した。半面、中国、朝鮮、東南アジアに日本兵が上陸したことは詳細には語られない。草の家では加害の歴史を知ることを目的に、中国や朝鮮への平和の旅を実施している。中国では実際に兵隊として戦地へ行っていた人とも交流した。生々しい記憶を持った人や日本に対する恨みを持った人、「日本人なんか見たくない」と話す人もいた。しかし、日本の加害の歴史についても話をするうちに心を開いてくれるようにもなったそうだ。馬さんという女性は父親が日本兵によって殺されたが、草の家の人から話を聞くうちに「日本の歴史を学びたい」と言い、カンパを集めて高知大へ進んだ。草の家は2016年3月に「中国・侵華日軍第731部隊罪証陳列館」と合作協議書を交わし、韓国・ソウルにある「植民地歴史資料館」とは2019年に友好交流協定を締結している。

「草の家」に展示されている万人坑の分布図
戦時中の品々を保存、展示
草の家の展示資料の一つに、中国の万人坑の分布図がある。「万人坑」とは、満州事変から日中全面戦争期に中国で行われた強制労働、すなわち中国の鉱山や炭鉱、ソ連との国境に作られた日本軍要塞建設などに従事させられて、死亡した中国人労働者の「人捨て場」(集団墓地)のこと(草の家展示資料説明書きより引用)。この資料で示されているのは青木茂さんが現地を訪問して確認された位置と数で、青木さんの著書『中国に現存する万人坑と強制労働の現場』(2022年)に掲載されているものを執筆者の許可を得て掲載している。
高知での戦争被害を記録することにも取り組んでいる。戦時中に使われていたさまざまな品を草の家に持ってくる人もおり、それらのものを整理、展示している。また、高知市には高知空襲犠牲者の名簿がなかったので、草の家では創立以来、空襲犠牲者の調査と名簿作りに取り組み、2003年に400名余の名簿を市長に渡した。これが契機となって2004年7月に「平和祈念碑」が建立され平和祈念追悼式が行われるようになった。
以下の写真では草の家に展示されていた資料の一部を紹介する。

臨時召集令状=「草の家」の展示より

戦時中使用されていた真空パックの非常食。缶詰用の金属が不足していたなか、食料(煮物)を詰め、真空パックして保存する陶磁器が登場した。しかし役所へ優先的に配給されたため、庶民のもとへはほとんど届かなかったといわれる=「草の家」の展示より

手製の腕章(下)。高知師範学校女子部の生徒が愛知県半田市の中島飛行機半田製作所に勤労動員されたときのもの=「草の家」の展示より
槇村浩らの存在を伝える
戦況が悪化し、政府や軍によって国家総動員の機運が高まるなか、「この戦争は間違っている」と唱えた若者たちがいた。高知市の反戦詩人として知られているのが槇村浩(本名:吉田豊道)だ。小学校から旧制土佐中時代にかけて神童として知られた槇村は、やがて戦争反対の運動に加わる。陸軍歩兵第44連隊(高知市朝倉)が上海に出兵する前夜に撒かれた出兵反対ビラを書いたことで検挙された。3年の実刑判決を受けたが非転向を貫いて出獄。再び検挙された後、拘禁性の病気に罹患して高知市内の精神病院に入院、1938(昭和13)年9月3日に死亡した。26歳だった。
高知市はりまや町の道には槇村生誕の地を紹介するパネルが、高知市城西公園には槇村の代表作「間島パルチザンの歌」の詩碑が建てられている。間島(かんとう)とは旧満州の朝鮮民族居住地。「間島パルチザンの歌」は独立を目指す朝鮮の人たちとの連帯をうたっている。出原さんは、槇村ら反戦活動家たちの記録を残すことに関して「時代を見通した人たちの考えを現代社会に埋没させてはいけない」と話す。草の家では反戦活動家の存在を中国や韓国の人にも伝えている。

高知市はりまや町にある「反戦革命詩人槇村浩生誕の地」

高知市の城西公園にある「間島パルチザンの歌」の詩碑
戦争の記憶を未来につなげる
戦争遺跡の保存、自主出版、講演会、イベントなど、草の家の活動の根底には二度と戦争をしない、その悲惨さを伝えるという想いがある。歴史を振り返る意義として大切なのは「過去の問題と現代の問題を学びながら今起こっている諸問題について考えることだ」と出原さん。館長になった今、今後の活動について「4つの柱を1つ1つ大切に、コツコツと活動していきたい」と話す。「米がベネズエラやイランを攻撃している。暴力によって解決しようとする姿勢は間違っているのだと声高に伝えたい。日本にはそれを伝えていく歴史を背負っている」と語った。
戦争の記憶を継承することは、現在そして未来にもつながっている。

















