「なみあみだぶ なむあみだぶ なむあみだぶ…」。2026年3月11日午前11時過ぎ、宮城県石巻市門脇の西光寺本堂を埋めた喪服の人々の念仏が響いた。東日本大震災から十六回忌の慰霊法要。180人を数える檀家の津波犠牲者の位牌が安置され、毎年、午前と午後に法要が行われる。(寺島英弥)

2026年3月11日、津波犠牲者の遺族が参列した西光寺の慰霊法要=宮城県石巻市門脇
クリスマスがつらい
読経の前、樋口伸生住職(63)はこう語った。
「子どもを津波で亡くした知人が『最近ますますつらい』と言っていた。これは15年の心の老化。痛みは抜けない、涙も乾かない。 悲しみに向き合う気持ちもボロボロになっている。痛みの塗り薬としてでも毎日祈りをささげ、あなたのために私は絶対に生き遂げるという心の力をいただけるのです」
あの日、津波は西光寺の山門を倒し、家々の残骸や潰れた車が境内を埋めた。樋口さんは背後の日和山へ家族と避難し、門脇中学校の避難所で住民の世話をしながら、檀家の枕経、県外の火葬に付き添う供養、全国から集う僧侶らとの寺の復旧に追われた。当時、取材に対して「坊さんに何ができるのか、何もできないのではないか、と自問自答していた」と話した。
法要を手伝う遺族たちの中に、今年も鈴木由美子さん(56)がいた。穏やかな笑みを浮かべながら、心の情景は違っていた。「静かに過ごしたくても、3月になるとテレビは震災の映像ばかり。どこにも行き場がなく、お寺だけが居場所。気持ちは落ち着かず、手も震えています」と話す。あの時、小学6年生だった三男の秀和さん(12)を亡くした。
その体験を聴かせてもらったのは、2011年12月25日の午後。西光寺で催された小さな集いだった。「クリスマスはわが子と過ごした思い出がいっぱい。ジングルベルが流れても、近所のクリスマス会の話を聞いてもつらくなる」という遺族の分かち合いの場だった。
30人ほどの母親らに、樋口さんはこう語り掛けた。
「今も、亡くなった人を拝むのも苦しい、という人たちがいる。これからをどう生きていくのかは、まっさらな紙に人生を書き直していくようなもの。3月11日から9カ月、何もいい方向に変わっていない。家族は何もできないし、動けば動くほど深いところに落ちていってしまう。会いたい、自死しても早く会いたい、と思うかもしれない。しかし、それはだめだ、一番遠回りになる。精いっぱい生きて、この世の勤めを果たして、ある日目覚めると、わが子は目の前にいる」

クリスマスの喧騒を逃れて西光寺に集い、語り合う母親たち=2011年12月25日、宮城県石巻市
「お母さんが死にそうなんです」
西光寺から東に約2キロ、石巻工業港に近い三ツ股地区に鈴木さんは家族と暮らしていた。あの日、午後2時24分の大地震でアパートの中はめちゃめちゃになり、「高さ10メートル」という津波警報を聞いた。近所に住む親戚らの車に分乗し、渋滞の道を避難した。途中、後方の街を津波がのみ込みながら襲ってきた。申し合わせた場所に鈴木さんらは到着できたが、後続の家族が遭難した。はぐれた長男、次男と3日後に再会できたが、秀和君は行方不明に。鈴木さんはひたすら無事を念じて毎日、がれきの中を捜し続けた。
会えたのは8日後、市体育館の遺体安置所だった。鈴木さんは絶望し、「自分の身に何が起きたのか、いまが妄想か、夢にいるのか、自分の存在もあやふやで、まわりの色も消えていた。生きる希望をなくし、自分を責めて、ただただ死にたかった」(当時の取材に)。
1週間ほど後、一家が身を寄せた日和山の鈴木さんの実家に、当時副住職だった樋口さんが枕経に訪れた。玄関先で、「お母さんが、すぐにも死にそうなんです」、「目を離したら何をするか分からなくて」と息子たちから必死に訴えられた。火葬を済ませたお骨箱の傍らに、憔悴しきった鈴木さんがいた。ただならぬ状況を知って、樋口さんは「この母親の命と子どもたちを助けなければ」と感じ、読経の前にこう語った。
「あなた方が寿命をもって亡くなった時、秀和君が待っていてくれる。あなた方が阿弥陀様に祈り続けていてくれるなら、ちゃんと逢える。そういうお勤めをさせてもらいます」

野球が大好きだった秀和さんの写真と由美子さん=2019年1月、宮城県石巻市内の自宅
死の淵での対話
<先立たば 送るる人を待ちやせん 花のうてなの なかば残して>(大意・私が先に死んだら、送ってくれた人を待っていましょう。浄土の蓮の台を半分空けておきます)
宗門の心を表すこの古歌になぞらえた「また逢える」の言葉が、鈴木さんの胸に染みた。「また逢えるんですか、どうすれば、また逢えるんですか」と聞き返した覚えがある。「それは、あなたが生きることだ」。死の淵での対話が鈴木さんを呼び戻した。
その時、樋口さんが語った言葉がもう一つある。「秀和君は皆の『善知識』になる」、「良い人間になるよう導いてくれるのが彼の仕事になる」。善知識とは仏教で人を正しい道に導いてくれる師の意。心が優しく明るい野球少年の秀和さんは友だちが多かった。「皆が遊びたがった。一人ぼっちの子を輪に入れ、不登校の友達も教室に戻れるように助けた」と鈴木さんは回想した。2011年5月末、石巻の葬祭場での「お別れ会」には同級生やスポーツ少年団の仲間が大勢参列し、善知識のようだった息子に導かれる思いだった。
「私が生きていて苦しいと思う同じ瞬間、秀和はもっと怖くて苦しい思いをした。 頑張って、再会した時に『母ちゃんの息子でよかった』と言ってもらえるように。それが生きる目標になりました」
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津波後の西光寺=2011年3月、宮城県石巻市(樋口伸生さん提供)
蓮の会の仲間と共に
「蓮の会」。震災翌年の2月11日から月命日ごとに西光寺である、祈りと講話と語り合いの集いだ。前年暮れ、クリスマスの喧騒から逃れた母親らの出会いを縁に、鈴木さんら気持ちの合った有志が始めた。一心に念仏を唱え、樋口さんの講話を聴き、震災以来西光寺と交流する各地の僧侶らも時に交え、近況を伝え合う。「ここが唯一、『私』に還って泣いて、傷つけられず分かり合えて、心から笑えるところ」と女性たちは口をそろえる。
あの日、青木恭子さん(67)は警察官だった長男の謙治さん(31)を津波で亡くした。(児童74人が亡くなった)大川小学校にほど近い北上川河岸で同僚と避難誘導中に遭難。結婚して3年だった。3月11日の慰霊の時は毎年、家族と共に現場に立っている。「午後2時46分から(津波到達の)3時半は、息子がそこで生きて、誰かを助けていた。 謙治が最後に目にしたものは何だろう、どう映っていたのだろう、どんな気持ちでいたのだろう。それを知りたいのです」。被災地の景色がどんなに変わっても「私の『復興』はありえない、謙治に逢える日までは」。
蓮の会の仲間は同じ思いを分かち合ってきた。「元気でよかった」、「笑っていないと、あの子が喜ばないよ」、「あなたが幸せにならないと」――このような言葉の「地雷」は数え切れない。また、子どもら家族を津波で亡くして間もなく、何度も断ったのに、顔、名前をテレビに出されたり、新聞に「自死しようとした」と根も葉もない記事を書かれたり。互いに守り、癒すことも絆を強くしてきたという。「戦友です」と鈴木さんは語った。
「哀しみは愛ゆえ。だから哀しみ続けていい。哀しみの中にあの子たちは生きている。蓮の葉の台を温めて待っていてくれる。そして自分たちが最期を迎えた日に、また逢える」

蓮の会は西光寺を訪れた若手僧侶たちとも交流した=2012年9月11日、宮城県石巻市
詩が生まれた原風景
合唱組曲『また逢える~いのちの日々かさねて~』(寺島英弥・詩、上田益・曲/2021年初演) 3曲目『また逢える~いのちの日々かさねて』
〽大切なものを喪(な)くすから 人は悲しむ
私にとっては あの子 私の命
東日本大震災の犠牲者は2万人を超え、それぞれの命をかけがえのないものと悲しむ家族がいます。遺族という身になった時、どう受け止められるでしょう。命を痛みをもって産み、わが身よりも大切に育てた母親には、わが命を失うのも同じでは。15年前の石巻で出会った母親は絶望から自らも死の淵に立ちました。どんな表現も描写も語れません…。
〽「また逢える」だから生きろと
「いつか逢える」だから生きろと
母親を救ったもの、死から生へと呼び戻したのは、枕経に訪れた僧侶のたった一つの言葉、「また逢える」という一筋の希望。それは本をただせば、源平合戦の昔の宗教者が伝えた魂の行方への導き~先に逝ったものは浄土の蓮の台で待っている~でした。
〽哀しみは 私の愛 あの子の愛
この回に登場した鈴木さんは震災翌年、「蓮の会」の仲間と手記集をつくり、題が『哀と愛と逢』(あいとあいとあい)。哀しむのは愛するがゆえ。哀しみの中に愛する人は生き続け、いつか逢える日が来る。哀しんでよいのです、哀しみなさいーそう伝えています。

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の池田さんら。沖には白い山脈のように津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)-1-150x150.jpg)
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