世界最悪の放射能汚染を引き起こした1986年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連時代のウクライナ・母国語でチョルノービリ)から40年が経つ。現地を2000年に初めて訪れ、以来70回も住民の被ばく調査と交流を重ねた科学者が、同じく今年で15年になる福島第一原発事故の被災地、浪江町津島地区の人々を支援している。(寺島英弥)
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「ふるさとを返せ」住民訴訟の原告団長、今野秀則さん。この場所は原発事故までは養鶏場だった。事故により、鶏も鶏舎も全滅した=2026年2月28日、福島県浪江町津島
専門家としてやるべきことを
浪江町津島地区はJR福島駅から車で約1時間、阿武隈山地の懐にある。地区の広さはJR山手線の内側と同じほど。2011年3月11日に起きた福島第一原発事故は津島地区を高濃度の放射性物質で汚染し、地区全体を帰還困難区域とした。2015年、住民の約半数の680人が国と東電を相手に「ふるさとを返せ」裁判を起こした。「原状回復」に向け、全域除染などを求める内容だ。現在、仙台高裁が結審し、先月から和解協議が始まっている。提訴から11年、避難先で原告団のうち100人余りが他界した。
ふるさとを追われた住民たちに寄り添い続け、裁判を支援し、帰還に向けた環境回復の提案をしている科学者がいる。愛媛県鬼北町出身の木村真三さん(59)だ。
木村さんと出会ったのは2022年8月、津島地区の中だった。国道114号に面した民家は鉄柵で入り口を塞がれ、枝道ごとに「帰還困難区域につき通行止め」の看板とバリケードがある。取材で待ち合せた津島訴訟原告団の住民二人が、作業着姿で斜面に目を凝らしていた。かつては畑地で、避難した住民の家が廃屋のように眠っている場所だ。雑草雑木が生い茂っている。
深い茂みから、白い防護服で線量計を手に現れたのが木村さんだった。住民たちの原告団は当時、仙台高裁での控訴審(2022年9月~現在)に提出する放射線量の最新データを集めていた。住民と一緒に山林を含む全域を歩き、放射線衛生学の専門家として計測を継続的に担ってきたのが木村さんだ。調査個所はこれまで約600地点に上る。
木村さんが初めて原発事故の被災地に触れたのは、事故発生から5日目の2011年3月15日。「住民の放射線被ばくの状況を緊急に調べなくてはならない」と当時勤めていた労働安全総合研究所(川崎市)の上司に訴えたが、「勝手な行動は慎んで」と止められ、所管する厚生労働省へのメールでの訴えも「余計なこと」と無視された。木村さんは「ここに留まる意味はない」と辞表を提出し、母校・北海道大の研究員の肩書を得て現地に入った。
「津島の赤宇木地区では、住民が集会所に10人近く残っていた。放射線量は駐車場で毎時80㍃シーベルト、室内で30㍃近くもあり、『ここにいては危険です』と避難を訴えた」(環境省による許容被ばく線量は毎時0.23㍃シーベルト)。放射線の影響は誰かが継続的に調べなければならない。専門家が被災地の住民を支援する必要もあった。考えた末、木村さんは福島に拠点を置く決意をする。同年8月、獨協医科大准教授の現職を得て福島県二本松市に国際疫学研究室福島分室を開く。そこを拠点に健康調査にも取り組んだ。
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草木に覆われた畑地と家屋の放射線量を調べる住民と木村さん(右奥)=2022年8月27日、浪江町津島
衝撃を受けた東海村臨界事故
労働安全総合研究所に勤める前、木村さんは放射線医学総合研究所に勤めていた。1999年9月、茨城県東海村の核燃料加工施設で国内初の臨界事故が起きる。誤った作業工程から核分裂連鎖反応(臨界状態)が発生し、強烈な放射線を浴びた作業員2人が死亡、1人が重傷、現場処理の社員や救急隊員、住民ら計667人が被ばくする大事故だった。放射線医学総合研究所の研究者として木村さんはこの調査に参加し、事故から83日後に死亡した犠牲者の遺体の被ばく量測定に携わった。
「人の死と向き合って衝撃を受けた。小さな正義感や問題意識、片手間の研究ではできない、生涯のテーマとして取り組むべき仕事だ」との思いが膨らんだ。さらにぶつかったのが、「この国では、原発事故を想定した対応を誰も考えていない」という現実だった。研究所の幹部、同僚たちの前で「原発の有事のための研究が必要」と提案する機会があったが、即座の反応が「日本では原発事故は起きない。たとえ起きたとしても小規模なもの。研究する意味がない」だったという。チェルノブイリ原発事故でさえ、「原発の構造がソ連と日本では異なる。チェルノブイリ級の事故は起きない」と返された。
国の研究機関にも「安全神話」は根付いていた。ただ木村さんの上司は、ウクライナ、ベラルーシ両国内の汚染された食品中の放射性物質の分析を担当しており、自然とチェルノブイリに近づくことになった。また当時は、旧ソ連時代に日本が締結した専門家派遣事業があり、木村さんは2000年に初めて現地を訪れることができた。それからチェルノブイリは木村さんの人生を懸けた研究の場となる。現地入りはすでに70回を数える。

「石棺」に覆われたチェルノブイリ原発の近況。立ち入った人がほとんどいない場所から撮った=2020年1月、ウクライナ。木村真三さん撮影
生き方を選ぶ「サマショール」の人々
「サマショール」というウクライナ語を聞いたことがあるだろうか。チェルノブイリ原発事故の後、原発周辺の住み慣れた郷里から強制的に避難させられながら、移住先の街になじめず、汚染された環境の家々に自ら帰って暮らす人々を指す。木村さんが現地調査で初めてサマショールの人々に出会ったのが2015年だった。それまでは放射線量や土壌汚染、人々への健康影響などの継続調査をし、無人の町々の状況をカメラで記録してきた。
あるとき、「そんなものを撮っても意味がない」と古参の男性ガイドから言わる。原発から30キロゾーンの立ち入り禁止区域を案内するセルゲイというガイドだった。「俺なら、廃墟や無人の学校、病院だのの写真を撮るより、サマショールのおばあさんたちを訪ね、手料理を食べ、話を聴いた方が百倍意味があると思う」。助言を受け、立ち入り禁止区域の9キロ外にある彼の家に泊まり、医療や食料の支援も兼ねてサマショールの村に通うようになった。
「国から与えられた場所(避難先)でなく、私たちが定めた『終(つい)の棲家』がここ」。オパチチという村のおばあさんたちはそう語った。原発事故の際、村から623人がバスで避難先に運ばれ、150人ほどが自主的に戻った。汚染された畑の野菜などを自給して暮らす。放射線の影響もあってか、大半は亡くなり、高齢で生き延びたのは女性3人。「寂しい」と口にしていたが、それにも打ち勝つ強さを木村さんは感じた。
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木村さんが撮ったサマショールの女性たち。「大学生を始め、多くの人に津島を訪れてほしい。ここでサマショールのこと、津島の住民たちの思いを聴いてほしい」と木村さんは言う=2026年6月、浪江町津島の松本屋
「松本屋」を人が集う場にしたい
津島の下津島地区に、明治末創業の「松本屋」という木造総二階の旅館が残る。あるじは地元の区長で住民訴訟原告団長の今野秀則さん(78)=同県大玉村で避難中=。2017年、国は帰還困難区域がある町村内に特定復興再生拠点区域を指定し、除染プラス公的施設、公営住宅の建築で早期帰還を促した。津島の特定復興再生拠点区域は総面積の1.6%だが、「帰還希望なら朽ちた家を公費解体する」と住民を誘った。さらに、区域外であっても「2020年代での帰還を希望すれば解体と除染を施す」制度も新設。住民に決断を迫った。
将来の再生計画を全く示されぬまま更地が増える津島地区で、唯一といえる歴史遺産が松本屋だ。迫る解体期限に苦悩しながら、今野さんは自費負担を覚悟の上で「津島の未来のために残す」決断をした。役場支所と活性化センター以外は何もない津島に、これから必要なものは「ふるさとに再び人が集える場」ではないか。大勢の旅人を憩わせた宿を、人をふるさとにつなぎ新たな絆をつむぐ場所に。今野さんはそう願い、松本屋の再生を、長い裁判の間に信頼関係を重ねた木村さんに託した。

再生された「松本屋」に集まった木村真三さん(前列右から2人目)、主人の今野秀則さん(同3人目)と津島の住民、遠来の支援者ら=2026年2月28日、浪江町津島
セミナーや宿泊、食堂も
「独協医科大学国際疫学研究室(現・放射線衛生学研究室)福島分室」。松本屋の改修が成った2025年9月末からこんな看板が松本屋の裏手の蔵に掲げられた。木村さんは同大学の研究者となった2011年の夏から二本松市との間で市民の被ばく防止事業に関する連携協定を結び、福島分室を置いて内部被ばくなどの継続調査や放射線の出前授業も行ってきた。ところが市から協定を打ち切られる。福島分室が宙に浮いたとき、移転を受け入れたのが今野さんだった。
松本屋は今、旅館が営まれた母屋を会合やセミナーの場に、母屋とつながる居宅(以前は今野さんの家族が居住)を来訪者たちの宿泊棟に、そして裏手の蔵を「福島分室」に整備した。蔵はみんなに開かれた食堂にしようと、木村さんはこの冬オープンを目標に改造を進めている。敷地には支援者から寄付されたバレルハウス(樽型の小屋)が据えられた。ここには帰還住民の暮らしを支える放射線量測定器を据える予定という。

住民支援施設のバレルハウスと木村さん=2026年6月、浪江町津島
チェルノブイリとつながる福島
サマショールの老女たちの大きなモノクロ写真を目にしたのは、2026年6月に筆者が訪ねた松本屋の宿泊棟だ。木村さんがチェルノブイリで現地調査した際、彼女たちの暮らしを撮影した。深い絶望や諦念を漂わせる高齢男性の写真もあった。なぜ、ここに置かれているのか。
チェルノブイリ原発事故は、発生から20年で復興、研究、報道のいずれも幕引きされたという(原発は巨大な『石棺』に覆われている)。サマショールが「棄民」をも意味するのであれば、「原発事故で故郷を追われて暮らす福島の人々もまた『サマショール』なのではないか、と思った」と木村さんは話す。「ふるさとを返せ」と訴え続ける津島の住民を科学者として支援し続けることが、「チェルノブイリの経験を知る自分の役目になった」とも。
「年間1ミリの放射線量は国際的安全基準。それを帰還困難区域で、どう現実的に可能な方法で実現できるか。知恵を絞って提案したい」。木村さんは多忙な夏を過ごしている。

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