凄惨な戦争を生き抜いた者の責任として、メモに残した戦友の最期を家族に知らせる。そのことに人生を費やす傍ら、新潟県で市長を4期務めた人がいる。記録作家の七尾和晃氏は90代の半ばを超えたその人物を丹念に取材し、『戦場の人事係』(草思社)というノンフィクションにまとめた。副題は「玉砕を許されなかったある兵士の『戦い』」。タイトルと副題にこの人物の人生が凝縮されている。(依光隆明)=引用文は改行を追い込み
ガマに隠した「最期の記録」
このような人物がいるのか、という驚きが最初の読後感だった。
『戦場の人事係』はこう始まる。
「第二次世界大戦中の沖縄戦史において、石井耕一は無名の人物である」
著者の七尾和晃氏は2009年に石井耕一(1913~2012)と出会う。このとき石井は95歳だった。新潟県葛塚町助役を6期、豊栄市長(いずれも現新潟市)を4期務め、1987年に引退。晩年は入退院を繰り返していたが、記憶は明晰だった。石井の戦地は沖縄である。かといって沖縄戦史で石井の名が出ることはない。しかし…。七尾氏はこう書く。
「日本軍の司令部が置かれた摩文仁を擁する破壊し尽くされた南部にあって、戦後、洞窟(ガマ)に隠しておいた人事記録や戦時中の記録を本土に持ち帰ることに成功した、ただ一人の人物であることも知られていない」
持ち帰りに成功したただ一人の人物だと知ったのは、石井と出会ったあとだったらしい。そのシーンを七尾氏はこう描写している。
「石井の重い手が、ようやく決意を得たように不意にほどけた。かたわらに手を伸ばし、机の上に置いたのは、濃い茶色の紙でカバーされた大判の一冊だった。ガマから掘り起こしてきた戦時名簿とメモが、予期せずに私の前にあらわれた。大きく長い息がもれて、『これね』と石井は声を張った。『人事名簿ですよ。私がいた中隊の戦時名簿。私は人事係だったから持っているの』。『人事名簿というと、それは中隊の? 戦争当時のものですか?』。問いかけられた石井はうなずきながら、その一枚をめくった。『ほら、ここに私のもあるでしょ』。無造作に扱えばすぐにでも崩れてしまいそうだ。まるで水を含んだ麩菓子を触るように、石井はそっとそっと、一枚一枚をめくって見せた。紙には不気味なほどに黒い滲みが広がり、その紙片の崩れ方は、石井の言うとおり、戦禍とともにあってもおかしくないと思わせた。『これ、どうやって…』。そう問われるのを見透かしたように、石井は口元にはにかみを浮かべ、私が持ち帰ってきたんですよ、とさりげなく明かしたのだった。思わず身を乗り出した。『沖縄の、南部での戦いから、これを持ち帰ってきたんですか?』。石井は小さな声で答えた。『そう。大変だった』。石井にたどり着くまでに、私は何年にもわたって沖縄戦の様子を聞きとって歩いていた。(中略)。だが、当時の戦時記録を、それを管理していた『人事係』本人が保管していたという例は見たことも聞いたこともなかった」
なにより貴重なのはメモの方だった。戦友の最期を、石井が戦場で書き留めていた。驚く七尾氏に、石井はこう言った。
「日本兵の戦死の記録というのはみんな、いい加減なものですよ。誰も最期をきちんと看取ってないから。でも、私は看取った、できる限り。私はね、人事係だったから、すべて書いて残した。だから今、ここにあるんです」「私自身が書いたものだからね。間違いありません。これだけ正確なものは、おそらく沖縄戦では残ってないんじゃないかな」
戦後、石井は遺族に手紙を出した。返事が来ない遺族の元には足を運んだ。遺族と会えたとき、このメモを元に石井は戦友の最期を淡々と伝えた。決して感謝されるばかりではなかったその作業も、『戦場の人事係』は書き込んでいる。
ディテールが刻まれた記憶
石井の前半生は常に戦争とともにあった。20歳で入隊し、2年弱にわたって兵役を務めたあと、除隊。その後、24歳と27歳で召集される。2度目の召集が29歳で解除されたあと、1943年4月に葛塚町役場の総務課長に。翌1944年7月、3度目の召集で向かったのが沖縄だった。31歳になる直前で、階級は下士官(曹長。のち准尉に改称)。担当は人事・服務を監督する庶務係だった。
『戦場の人事係』は石井の人生をたどっていく。紙幅をとるのは戦争に絡む正確な記憶だ。米軍攻撃下の前線は凄惨としか言いようがない。特にガマ内部の描写は、そのすさまじい臭気まで伝わってくるようだ。看護婦として軍と一緒に行動していた女学生の、ちょっとした仕草も石井の脳裏を離れなかった。鮮烈に刻まれた石井の記憶を七尾氏が字に置き換えていく。たとえばこのような感じで。
「逃避に次ぐ逃避で臭気を放つ女学生二人の髪に、石井は雑のうから取り出した香水を振りかけた。すーっと場違いなさわやかな香りが漂った。女学生の一人は黙っていたが、急に笑顔になった。ありがとう、と言った。もう一人は、私たちの頭、臭いでしょう、とつぶやいた。それからしばらくして、女学生の看護婦部隊には解散命令が出た。このまま兵士らと従軍してガマにひそんでいたほうが安全なはずだったが、彼女たちは命令に従い、動ける者から四、五人単位でガマを出ていった」
戦地で石井が香水を持っていた理由は、自分が死ぬときを想像したからだ。重傷を負い、最期を迎えようとしたとき、自身に香水を振りかけて死のうと思っていた。ディテール(細部)まで刻まれた石井の記憶は、ほんの数年前の出来事であったかのように80年前の沖縄戦を読者に見せつける。
奇跡が重なって本が生まれた
石井が生き残ったのは奇跡に近い。ガマに隠した人事記録を持ち帰ることができたのも奇跡と言っていい。石井耕一という唯一無二の人間を、亡くなる3年前に七尾氏が「発掘」したのも奇跡かもしれない。奇跡が重なって『戦場の人事係』が生まれた。
最後、石井が遺族と会うときの描写を『戦場の人事係』から引用する。なぜ見返りのない作業を石井が続けたのか、というヒントがおそらくここにある。
「そして別れ際に、一枚の紙を渡すのだ。戦場で書いたメモを清書した、それぞれの戦友の最後の瞬間が記されたものだ。そこには、傷の深さから死んだときの状況までが詳しく記されている。あなたの夫、子、父、兄弟は沖縄で死んだ――。それだけを聞いて納得できる遺族はいないだろう。戦死通知書という一枚のはがきでは想像もできない、かけがえのない家族が最後に見た風景を知ってほしい。そんな願いがあったという。石井は家族を招き、または訪れて話をするうちに、仲間の死の状況を伝えることで、残された者が自身の生をまっとうする励みになればいいと考えるようになっていた。だからこそ、死を丁寧に、そして冷静に伝えなければと思ったのだ」