西岡寅八郎さん(90)は1971(昭和46)年から40年以上にわたって高知県議会議員を務めた。父、寅太郎さんも県議会議員だったので、その前の時代から県政の一端に触れ続けている。そんな西岡さんが、半世紀以上も前の高知県政を「四天王」の存在で表現した。四天王がいたからこそ安定していたのだ、と。(依光隆明)

高知県庁本庁舎。1962(昭和37年)10月に落成した。設計は岸田日出刀東大教授、工費は9億3000万円。
政治、マスコミ、金融、実業
「四天王がおったんですよ。知事の溝渕増巳さん、高知新聞社長の福田義郎さん、四国銀行頭取の前野直定さん、県農協中央会会長の藤田三郎さん。この4人がいた時代が、一番高知県が光っちょった」
西岡寅八郎さんが懐かしそうに説明する。なぜ光っていたのか。西岡さんはこう続けた。
「4人がみな対等でしたき。いろんなことで4人が話し合いをしよった。この4人がみな対等でしたきねえ」
政治、マスコミ、金融、実業を代表するのがこの4人だった。県政の根幹に関わる問題が起きたとき、4人が対等に、率直に知恵を出し合って話をする。それによって揉めることなくさまざまな問題が落ち着いたらしい。それを西岡さんは「安定」と表現する。
「四天王がいなくなってからはだめです。知事が一番偉うなってしもうた」
各界のトップ4人が対等に対話して懸案を解決する体制から、知事だけに権力が集まる時代へ。時代が下るごとにその傾向が強まり、やがて幅広い末端の声が知事に届かなくなった。知事の方も幅広い声を聞かなくなった、聞く必要もなくなった、と西岡さんは見る。

溝渕増巳氏(右の写真)が県知事選挙に立候補した1955(昭和30)年11月13日の高知新聞夕刊
努力の人、溝渕増巳
四天王の4人はいずれも個性的だった。中でも溝渕増巳氏(1900∼1984)は立志伝中の人だといえる。高知県高岡郡川内村(現吾川郡いの町)に生まれ、小学校卒業後、実家で農業と紙すきに従事する。街へ買い物に出たときに警察官募集の広告を見て応募、大阪で巡査となった。1922(大正11)年9月、21歳のときだ。すでに妻子を持っていた。天王寺警察署に配属された後の翌1923年春に一念発起、超のつく難関だった高等試験行政科(高等文官試験)の突破を志す。高等試験行政科は現在の国家公務員上級試験に近いが、難度でははるかに上だったと言われている。合格者の多くは東京帝大出身者。合格者の社会的地位は極めて高く、天皇の名で任命される奏任官として国家のエリート職に就いた。大学を卒業していない者には資格試験や予備試験が用意されていたが、それらを突破して高等試験行政科に合格するのは奇跡に近い。まして溝渕氏には小学校卒の学歴しかなかった。
交番勤務に励む傍ら溝渕氏は独学で勉強を始め、翌1924(大正13)年には資格試験(受験資格を得るための試験)に合格。1926(大正15)年には予備試験(科目は論文と英語)にも合格する。次はいよいよ本試験だ。参考書として買い集めた文献は20冊、計1万2000ページ。溝渕氏は1日4時間で200ページ読むことを自分に課し、実行する。1カ月で6000ページになるから、2カ月あれば全冊読了できる。1年間でそれを6回繰り返すことができる、6回も読めば難しい法律も頭に入るのでないか、と考えた。計画通り1日200ページ読んだ。飲み会に誘われて読めなかった日は休日にその分を読んだ。疲れたときは映画や寄席に行ってリフレッシュした。1年後、驚くべきことに最難関の筆記試験に合格する。最後の口述試験には落ちたが、これは自信になった。1日200ページをもう1年繰り返し、翌1928(昭和3)年の筆記試験も突破。同年末、遂に口述試験にも合格した。28歳のときだった。溝渕氏には『県政二十年』(高知新聞社刊)という自著があるが(元は高知新聞の連載)、そのときのことを〈何の学歴もなく巡査をしながら高文に合格した…と、新聞にも大きく報ぜられた〉と書いている。さらに溝渕氏は2年後に高等試験司法科(現在の司法試験)にも合格する。このこともこう書いている。〈受験勉強中に巡査部長、警部補と昇進した。私はさらに欲を出して、将来何かの役に立つだろうと司法科の高文試験に挑戦した。宿直の晩、読み疲れた本を顔にかぶって寝ていると、「あいつは本をかぶっただけで頭へ入るらしい」と、変な評判も立ったそうだ。これは二年がかりで合格した〉

前野直定氏が四国銀行頭取になった直後、福田義郎氏がインタビューした高知新聞記事。前野氏と福田氏が旧制高知高校の学友同士だったことも記されている
小学卒から警察ナンバー2に
高等試験行政科に合格したあと、溝渕氏は内務官僚を目指す。戦前の内務省は地方行政や警察、土木を一手に所管し、「官庁の中の官庁」とも呼ばれる超エリート集団だった。高等試験行政科に合格した者の中で内務省に採用されるのはごく一部、1~2割程度だったとみられている。しかも内務省には有名大卒以外の者は採用しないという不文律もあった。その壁を超えるべく、溝渕氏は内務省の採用試験に挑む。が、不採用。内務省の場合、初年度に不採用だった者を翌年や翌々年に採用することは極めてまれだった。しかし溝渕氏はあきらめなかった。一か八かの賭けに出る。内務大臣への直訴だ。『県政二十年』はこう書いている。〈鈴木喜三郎内務大臣に面会を求め、直接訴えた。「私のように巡査を十年勤めたら、あすからでも実務が出来る。一度使ってみてください。決して損にはならない」。かみつくような勢いだった〉。それが効いたのだろう、1932(昭和7)年の採用試験で内務省に採用される。鈴木喜三郎はタカ派の大物として知られ、このとき二度目の内務大臣を司法大臣兼任で務めていた。首相はいったん引退していた憲政の神様、犬養毅。同年5月の5.15事件で犬養は暗殺され、内閣も分解する。戦争への足音が急速に高まる時代だった。
ちなみに『県政二十年』の記述で年代が誤りないと思われるのは、大阪府警の警察官となった1922(大正11)年と内務省に採用された1932(昭和7)年。高等試験行政科に合格した年は1928(昭和3)年より少し後の可能性もある。
内務官僚となったあとも溝渕氏は大阪府警で勤務を続け、1936(昭和11)年に高等官7等で大分県警務部長に。以後、中国大陸や本省、広島県庁、朝鮮半島で官僚生活を送る。終戦後の1948(昭和23)年には47歳で国家地方警察本部(旧内務省警保局=現在の警察庁)の次長にまで駆け上がっていた。戦前の基準でいえば、高等官2等程度の勅任官(天皇の勅命によって任命)に当たる。内務官僚のうち勅任官にまで進めるのは2割程度だったとみられている。1952(昭和27)年、51歳のときに国警本部長官から事実上の肩たたきを受けて退職。当時の川村和嘉治知事に請われる形で高知県副知事となる。このとき、内務省時代の部下から突き上げられたことが『県政二十年』に書かれている。勅任官といえば知事クラス。副知事は格下であり、あとに続く自分たちが影響を受ける、という論理だったらしい。1955(昭和30)年12月、無所属で高知県知事選に立候補し、現職の川村氏(無所属)を破って知事に就いた。以来、5期連続当選を果たして高知県の「顔」となる。
既に触れたように、福田義郎(1908~1980)、前野直定(1911~1971)の両氏は東大出身。福田氏は同盟通信、前野氏は大蔵省を経てそれぞれ高知新聞と四国銀行のトップに就いていた。温厚な溝渕氏とは対照的に、福田氏と前野氏は舌鋒鋭い積極果敢型。10歳近い年齢差もあり、二人とも溝渕氏とは気が合っていたらしい。ちなみに溝渕氏と前野氏は親戚関係にもなる。

1975(昭和50)年7月、全中会長として三木武夫首相と話し合う藤田三郎氏(左)=『耕す心』(高知新聞社)より
系譜に連なる中谷、桑名氏
藤田三郎氏(1902~1990)は香美郡山北村(現香南市香我美町)の出身。愛知県を中心に農業経営の改革を説いていた農政家、山崎延吉(1873~1954)の弟子となったあと、明治大学専門部から1930(昭和5)年に農林省入りし、旧満州国(現中国東北部)に赴任する。北安省の開拓科長から錦州省盤山県の副県長に移って間もなく終戦。戦後の1946(昭和21)年6月に帰国し、帰郷する。すぐに頭角を現し、高知県の農協組織のトップを務めた。1975(昭和50)年には全国農協中央会(全中)の会長に就任、6年間務めている。叔父は東京と神奈川に巨大な「憲政碑」を建立したことで歴史に名を残す県出身代議士、胎中楠右衛門(1876~1947)。高知市長の桑名龍吾氏は藤田氏の孫で、防衛大臣を2度務めた衆議院議員の中谷元氏は桑名氏の姉の夫に当たる。
全中会長時代の1980(昭和55)年から1982年にかけて、藤田氏は高知新聞に「耕す心」と名付けた自伝を連載している(のち書籍化)。それによると、“4人組”には最後に加わったらしい。藤田氏は県信用農業協同組合連合会(県信連)のトップも務めていた。信連は金融組織なので、ときには銀行と張り合うこともある。そのような事情もあり、四国銀行の前野頭取とは微妙な関係だった。「耕す心」はこう書いている。
〈前野さんは、最初のころは私を誤解しているようなところがあった。それは、当時の農協組織というものは概しておとなしく、そのなかで、私はむしろばんから風で、各種の会合では強い要求、突き上げをしていた。八方破れの理屈も言った。銀行と農協の“資金”の奪い合いというようなことも要因の一つだったかもしれない〉
藤田氏と前野氏の関係を懸念したのが福田氏だった。「耕す心」はこう続く。〈二人の間柄を気遣った福田さんが私を仲間の一人に加えてくれたように思う〉

溝渕増巳氏は「4者会談」と呼び、自著の『県政二十年』にはそのスタートを〈確か昭和四十二年ごろ〉と書いている。左上から時計回りに福田義郎氏、前野直定氏、藤田三郎氏、溝渕増巳氏=『県政二十年』より
「土電の再建問題でも相談」
藤田氏を加えた4人は、2カ月に一度定期的に集まっていた。藤田氏は「耕す心」でこう明かしている。
〈創始者というか、四者会談を言い出したのは福田さんではなかったか、と思う。場所は高知市堀詰の料亭が多かったが、経費は回り持ち。『こんどはわしの番だが、どうぜよ』というようなことで集まっていた〉
どのような話が出たのか、「耕す心」には〈もちろん、話の成り行きで、多少は生臭い話が出たこともあった〉とある。「生臭い話」の一つだったであろうと推測されるのが土佐電気鉄道(土電)の経営問題だ。実は1949(昭和24)年から藤田氏は土電の監査役に、1954(昭和29)年から24年間は取締役に就いていた。「耕す心」にはこうある。〈四銀(四国銀行)は土電のメーンバンクだが、私が土電の古い役員の一人であったことから、土電の再建問題でも(前野氏から)ずいぶん相談があり、意見を聞かされたことがあった〉
藤田氏に2年遅れて土電の監査役に就き、藤田氏と同時に取締役となったのが西岡さんの父、寅太郎氏だった。寅太郎氏は県議会議員として溝渕氏とは親しく、福田氏や前野氏とは友人の間柄。西岡さんによると、4人が集まるのは定期的な会合だけではなかった。問題が起きるたびに寅太郎氏が動き、前野氏が行きつけにしていた高知大丸裏のスナックなどに何人かで集まった。西岡さんは寅太郎氏の役回りを「裏方」と表現する。寅太郎氏が四天王を動かし、問題を決着させるという図式だったらしい。のちに西岡さんが土電を託される原点は、このような四天王との関係性にあったともいえる。四天王が懸念する課題の一つが土電であり、協力者として頼むには寅太郎氏の後継者が最適任、という構図だ。後述するが、福田氏や県と四国銀行トップから「土電の役員になれ」と言われたとき、西岡さんは県議会内で長老も一目置く存在となっていた。
1971年7月という節目
「耕す心」には、社会党系の人々が四天王の集まりを「四悪人会」と呼んでいたことが書かれている。「四悪人会」と名付けたのは社会党県連会長や高知市教育委員長を務めた大野武夫氏だったらしい。文化人でもあった大野氏が亡くなったのは1971(昭和46)年7月24日。奇しくもこの日は四天王体制が瓦解を始める節目ともなった。(つづく)











の池田さんら。沖には白い山脈のように津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)-1-150x150.jpg)




