高知市立長浜小学校の児童が水泳の授業中に亡くなった事故は、さまざまな問題を浮き彫りにしている。その中の一つが高知市の教育行政であり、教育行政の執行に関与する教育委員だ。文部科学省は「教育委員は執行機関の一員であり、教育委員会の重要事項の意思決定を行う責任者」と定義している。(依光隆明)
教育行政を担うのが教育委員
2014(平成26)年の法改正で教育委員会制度の改革が行われ、2015年4月から新制度がスタートした。首長が任命した教育委員の中から教育長や教育委員長が決められるシステムを廃止。教育長を首長の任命(特別職)にして権限をアップし、教育委員長を廃止して教育長に教育委員会を代表させることにした。
教育長の権限が強化されたといっても、教育長が教育委員会の意思決定に基づいて事務をつかさどる立場にあるのは変わりない。教育委員一人ひとりの責任は重い。
文部科学省は、教育委員会の特性を➀行政委員会の一つとして独立した機関を置き、教育行政を担当させることにより、首長への権限の集中を防止し、中立的・専門的な行政運営を担保②多様な属性を持った複数の委員による合議により、様々な意見や立場を集約した中立的な意思決定を行う③住民が専門的な行政官で構成される事務局を指揮監督する、いわゆるレイマンコントロール(一般市民に行政の指揮を委ねる)の仕組みにより、専門家の判断のみによらない、広く地域住民の意向を反映した教育行政を実現――と整理している。
レイマンコントロールの柱が教育委員であり、そのために多種多様な人を教育委員に就けるべきだと考えられているのだ。法にはこう書かれている。
〈地方公共団体の長は、第2項の規定による委員の任命に当たっては、委員の年齢、性別、職業等に著しい偏りが生じないように配慮するとともに、委員のうちに保護者(親権を行う者及び未成年後見人をいう)である者が含まれるようにしなければならない〉
法改正に当たり、文部科学省は前川喜平初等中等教育局長名で「地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律について」と題する通知を出している。そこでは教育委員の任命についてこう書かれている。
〈改正後においても委員の資格要件は変更していないが、委員には、単に一般的な識見があるというだけではなく、教育に対する深い関心や熱意が求められるところ であり、例えば、PTAや地域の関係者、コミュニティ・スクールにおける学校運営協議会の委員、スポーツ・文化の関係者を選任したり、教育に関する高度な知見を有する者を含めるなど、教育委員会の委員たるにふさわしい幅広い人材を得ることが必要であること〉
年齢、性別、職業、経験などを勘案し、幅広い人材を教育委員に登用することでレイマンコントロールを実現する。それが法の主旨だといえる。
高知市はどうなっているのか。
岡﨑氏の人事を継承
まず驚かされるのが、市のホームページを見ても教育委員の名前(顔写真つき)と任期しか載っていないことだ。これでは年齢、職業、経験がさっぱり分からない。つまり幅広い人材が選ばれているかどうかを市民がチェックできない。調べて明らかになったのは、年齢が70代1人、60代1人、50代2人で、職業は元教員、弁護士、医師、大学教授だということ。うち2人は18歳以下の子どもを育てる保護者であり、教育長にアクシデントがあった場合の職務代理者に70代の委員がなることが決まっていることも分かった。
すでに書いたが、最も違和感を持ってしまうのは教育委員に就任した時期である。平均で12年近くも前。それぞれ就任して15年目、11年目、11年目、9年目になる。文科省が指摘する〈専門家の判断のみによらない、広く地域住民の意向を反映した教育行政を実現〉するためには教育委員にはいろんな人が就任した方がいい。ということは幅広い人材を入れ替えながら委員に就かせる方がいいのではないか。教育委員が教育委員という専門家になる必要はないのではないか。長くても2期8年が適当ではないか――等々の疑問が浮かんでしまう。いずれも岡崎誠也前市長が任命した教育委員なのだが、後継の桑名龍吾市長はことし3月に任期切れとなった1人を再任した。桑名氏は教育行政も岡崎氏が敷いたレールの上を進み続けている。
総合教育会議という新制度
2014年の法改正で、教育長の権限強化と併せて設けられたのが総合教育会議だった。
地方公共団体の長と教育長、教育委員で構成され、事務の調整を行う。高知市の場合であれば市長と教育長、4人の教育委員で構成される。目的は「市長部局」と「教育委員会」という執行機関同士の意思疎通を図り、課題を迅速に解決すること。論議の対象として法令に書かれているのが「教育を行うための諸条件の整備その他の地域の実情に応じた教育、学術及び文化の振興を図るため重点的に講ずべき施策」と「児童、生徒等の生命又は身体に現に被害が生じ、又はまさに被害が生ずるおそれがあると見込まれる場合等の緊急の場合に講ずべき措置」である。後者はいじめ問題を中心に想定しているが、今回のプール事故もこれに当たる。
2024年7月5日、高知市立長浜小の児童が水泳授業中に亡くなったことを受け、桑名龍吾市長は7月23日に高知市総合教育会議を招集した。
実は総合教育会議の前、7月9日に松下整教育長は教育委員会の臨時会を開いている。4日前に起きたプール事故を受け、「報告事項1件」を議題に行った。午後1時半から1時間47分の会だったが、内容は「秘密会」として明らかにされていない。
議事録は概要版のみ
7月23日の高知市総合教育会議は午後2時から1時間半にわたって開かれた。招集するのは市長だが、会場は教育委員会事務局が置かれる高知市たかじょう庁舎だった。参加メンバーは桑名龍吾市長、松下整教育長と4人の教育委員。ほか、市長部局から2人の副市長以下8人、教育委員会から2人の教育次長以下7人が出席した。
議題は「高知市立学校での水泳授業中の事故について」。冒頭、桑名市長が亡くなった児童の告別式に参列したことを報告。その際、参列者から「このような事故は二度と起こさないようにお願いします」と頼まれたことを明らかにし、「この言葉に報いることができるよう、事故を検証し、二度と 起こらない防止策を作っていかなければならないと思っている」と決意を表明した。続けて「本日の会議では、事故に至るまでの経緯、事故の発生状況、事故が起きた後の状況についての説明と今後,設置及び開催を予定している第三者委員会の説明をさせていただきたい」と述べている。
高知市総合教育会議の議事録は高知市のホームページに載っている。それによると、桑名氏のあいさつに続いて〈高知市立学校での水泳授業中の事故について,教育委員会事務局及び教育委員会から資料に沿って説明〉がされたらしい。が、説明の中身は一切記載されていない。つまり議事録では桑名市長の言う「事故に至るまでの経緯、事故の発生状況、事故が起きた後の状況についての説明」が全く分からない。
「議事録」と書いたが、高知市の場合は議事録の「概要版」と名付けている。当然、詳細版もあると考えてしまうのだが、驚いたことに高知市は概要版しか作っていない。概要版に載っていない部分は、将来にわたってその中身がわからないということだ。事務局を務める市政策企画課は「概要版といってもすべて載せている」と強調するが、教育委員会事務局の状況説明は実際に欠落している。ほかにも教育委員の「問い」に対する「答え」が欠落している部分がある。答えがなかったのか、答えを載せなかったのか、概要版を読むだけでは判断のしようがない。
新たな制度がスタートした2015年に文科省は総合教育会議に関する調査を行っている。その中に「議事録」という項目もあるのだが、詳細な議事録を作成しているのは都道府県・政令指定都市のうち95.7%、市町村の63.3%。概要版しか作っていないのは都道府県・政令指定都市で4.3%、市町村で36.7%しかない。
教育次長が議論を誘導?
欠落の問題は教育総合会議の信頼性にもかかわっている。
議論に入ったあと、ある教育委員はすぐにこう発言している。「先ほど教育次長から話のあった、組織として危機意識を持ち続けることができなかったことがこの事件の大きな原因であり、決して設備の問題ではないという点については、全くの同感である」。この発言は極めて重要だ。「先ほど教育次長から話のあった」とあるから教育次長が説明し、それに基づいて議論が行われていることがわかる(教育次長の説明内容は議事録から欠落)。第三者委員会の議論の方向を教育委員会事務局が誘導する危険についてはこれまでにも触れたが、市総合教育会議でも同じ懸念を持たざるを得ないことになる。
さらに重要なのは、その懸念が現実になっているように見えることだ。「組織として危機意識を持ち続けることができなかったことがこの事件の大きな原因であり、決して設備の問題ではない」というのは真摯な検証の上で出てくる結論であり、全く検証をしていない段階で、しかも事故からわずか18日後に「被告」側の教育次長が断ずるような話では決してない。それを市長や教育長、教育委員の前で説明し、教育委員が「全くの同感」と賛成する。しかも「全くの同感」と賛同したのは15年目を迎えた最古参委員である。出来レースとまでは言わないまでも、馴れ合い的な異常性が伝わってくる。何度も書くように、高知市の教育委員は平均12年近くも教育委員を務め続けている。教育委員会事務局と馴れ合っていても不思議はない。
かくて矛先は現場の危機意識に
「組織として危機意識を持ち続けることができなかったことがこの事件の大きな原因であり、決して設備の問題ではない」と教育次長が説明したことは、結果的にこの日の議論の流れを決めたように見える。議論の方向が学校現場の危機意識のなさの方向に向き、決して設備面の問題には向かないのである。本来、市総合教育会議で優先的に議論すべきは教育施設予算の問題だった。予算を握る市長部局と教育委員会が一堂に会する目的の一つは予算の問題を協議できることだからだ。さらに言えば、予算を含む協議を行うために教育総合会議という制度がスタートしたとさえいえる。それを最も知っているはずの教育次長が、なぜか早々と「設備の問題は関係ない」と脱予算論議へと議論を誘導する。結果として、議論は学校現場の危機意識という精神論に向かうのである。
教育委員からは以下のような声が上がっていった。
「子供たちの安全を絶対に守るという責任感と、何か見落としや子供たちに迫る危機に気 付こうとする意識がどこかで抜け落ちてしまった」「現場の先生方が、今まさに自分が声を上げ、一人一人がこの学校にいる子供たちの責任に安全を負っているから、明日からでも気付いたことは会議で言おうという思いを持っていただけない限り、まだ危機は残っている」「学校の先生は、親や子供の言うことが聞こえているだろうかと思った」
対照的に、「教育に予算が回らないために修繕を後回しにして中学校のプールを使ったのではないか」的な問題意識は全く出ない。教育委員会事務局が最も触られたくない部分に触られないように誘導し、学校現場に責任を押し付けようとする構図に見えるのだ。長年にわたって寄り添い合った教育委員だから教育委員会事務局も安心して議論の方向を思い通りにできるのでは、という懸念すら持たざるを得ない。
報告を承る立場?
教育委員会は執行機関として強い権限を持っている。この日の議論をたどっていくと、首をかしげざるを得ない発言もあった。引っかかったのは、「教育委員として、教育行政に関する報告を承る立場として」という教育委員の発言だ。この発言自体は誤りではない。教育委員が報告を受ける立場にあるのは間違いないからだ。しかし報告を受ける前段には教育行政を指揮し、そこに責任を持つという大前提がある。レイマンコントロールの柱として、市民の立場に立って教育行政を指揮するという決意がないと教育委員はできない。
総じて教育委員の発言には傍観者的な印象がぬぐえない。今回の事故に関し、学校現場以上に教育委員が責任を感じても不思議はないのだが…。(続く)