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高知パルプ生コン事件とは何だったのか➅「人災」の声が噴出した

浦戸湾の埋め立て計画は高知パルプの公害と無関係ではなかった。公害の定着とともに埋め立てが進み、1970年夏を迎える。巨大な災禍が近づいていた。(依光隆明)

現在の浦戸湾=埋め立てをした東岸から西岸を見る

公害で痛めて埋め立てる?

「浦戸湾を守る会」の会員だった和田幸雄さんが書いた『高知生コン事件の全貌 二十一世紀への案内の書』は、高知パルプによる公害と浦戸湾の埋め立てをパラレルに(並行して)描いていく。並行しながらもリンクする(紐づけられる)ときがあって、ざっくりいえばその時期が2つある。一つ目は浦戸湾の埋め立てが開始された1960年代初め。背景にあるのは「高知パルプによって浦戸湾が死の海となったから埋め立てられる」という見方だ。『高知生コン事件の全貌』は公害学者、宇井純さんの言葉を引きながら「公害によって人々が近寄れない、遊べない海にしておいて埋め立てる」という論理を紹介している。もう一つは1970年8月に起きた埋め立て+パルプ公害の複合災害だった。

1970年8月21日、高知県西部に上陸した台風10号のルート=高知地方気象台のホームページより

「異臭漂う“黒い町”」

1970年8月21日、大型で非常に強い台風10号が幡多郡佐賀町(現黒潮町)に上陸した。高知県沖にあったときの気圧は910hPa(ヘクトパスカル)まで下がり、上陸時は955hPa。最大の特徴は強風で、高知市では最大風速29.2m/s、最大瞬間風速54.3m/s(ともに観測史上1位)を記録した。浦戸湾は東に口を開けているが、暴風は東から吹いた。気圧低下と満潮、そして湾口から入り込む猛烈な波浪が重なって湾内では規格外の高潮が発生。湾の水位上昇によって出口をふさがれた河川も次々と氾濫した。この台風は土佐湾台風と呼ばれている。

『高知生コン事件の全貌』は災害翌月に高知新聞が出した写真グラフ「土佐湾台風10号のつめ跡」から文章を引いている。その一部を引用する。

〈高知市ではゼロメートル地帯の下知地区をはじめ江ノ口川、久万川流域、潮江、桟橋方面、それに浦戸湾沿いの五台山、種崎、長浜、御畳瀬(みませ)、横浜などの地区はさんざんに濁流に洗われた。水は防潮堤や河川護岸を乗り越え、あるいは決壊してあふれ、下知や桟橋地区では停電で排水ポンプがきかなくなったこともあって、あっという間に床上浸水の続出。一時的な床下浸水を含めると、浸水地域はほぼ全市に広がった〉

1970年当時、高知市旭地区のパルプ工場(当時の名は高知パルプ)は操業開始から20年に達していた。江ノ口川は褐色の死の川となり、浦戸湾も死の海となりつつあった。その水が市街地に流れ込めば、どうなるか。引用を続ける。

〈下知地区や五台山地区など、この水が二日から四日もひかなかったところがあり、水攻めの上に停電、食料もない水上生活を強いられた。ようやく水のひいたあとも、被災市街地はヘドロまじりの汚物やゴミが充満、異臭も漂う“黒い町”と化し、疑似赤痢患者も次々に出た〉

水害追及の市民大会を特集した1970年9月21日の高知新聞「某月某日」

「埋め立てで水位が増幅」

台風1カ月後の1970年9月16日、高知市の県民文化ホールで「台風10号の水害責任を追及する市民大会」が開かれた。実行委員長は「浦戸湾を守る会」の山崎圭次会長。高知新聞によると1700人が参加、「人的被害の補償」や「浦戸湾の埋め立てと湾口切り取りをやめ、湾を元の姿に戻す」「完全な廃液処理施設の完成まで高知パルプの操業停止」などの大会決議文を採択している。

9月20日付の高知新聞朝刊は「某月某日」という欄で紙面1ページを使ってこの大会を特集した。記事を見ると、山崎圭次会長はこうあいさつしている。

〈三十六年(注・1961年)の県港湾審議会の議事録には、埋め立てをすれば湾の水位が上がるとはっきり書かれています。これに対し県は、水位が上がるならカベを高くしたらよいという。しかしそのカベはハリボテというお粗末きわまりないものだった。埋め立てなければ水位は上がらなかったでしょう。これは今度の災害が天災でなく人災だということを、県が証明したようなものです。この事実に基づいて県の責任を追及しなければなりません〉

溝渕増巳知事は1960(昭和35)年10月4日の県議会で「高知港改修計画における地震などの被害対策については、計画そのものが日本の権威者たちの意見を聞いて作成したものであり、これを信じている」と答弁した。翌10月5日朝刊の高知新聞はこの答弁に「災害予防は考慮ずみ 知事 浦戸湾埋め立てで答弁」と見出しを付けている。知事が太鼓判を押していたのに災害が起きたではないか、という市民の憤りは大きかった。『高知生コン事件の全貌』は市民大会で出た各地区代表者の発言を紹介している。

〈横浜地区代表の有川隆夫氏は、今回の災害の最大の原因は、市民の声を無視して強行した浦戸湾の埋め立てと、ずさんな防災対策によるものである。(中略)このような被害を再びくり返してはならない。行政の責任を追及することによって、明るく住みよい高知市を取り戻さなければならないと訴えた〉

高知パルプとの関係を指摘したのは江ノ口川流域に広がる江ノ口地区の代表だった。

〈江ノ口地区代表の吉松清氏は、県、市とパルプ会社は廃液処理を完全に実行するという確約書を交換しており、その確約書は現在も生きておるにも拘らず現実は放置されたままであった。そのためにこの度の浸水は全市をヘドロの海にしてしまった。悪臭とヘドロの濁水は災害をどうしようもないまでに大きくした。住みよい高知市を願うのは我々である。その我々は今まで行政からだまされ続けて来たがもうだまされない。今こそ行政の責任をはっきりと追及しよう――と激しい怒りをぶちまけた〉

「某月某日」は、県が日本IBMに依頼して行った計算では埋め立てによる水位上昇はわずかだったこと、東大教授もこの結果にお墨付きを出していたことを紹介。過去に桂浜検潮所(桂浜の浦戸湾側、現在の浦戸大橋の下辺り)で観測された高潮の最高潮位が2.68㍍なので、湾奥の水位は0.3㍍高くなり、波浪が加わっても4㍍の堤防または護岸があれば大丈夫と結論付けていたとして、こう書いた。

〈台風10号の伴った高潮は、桂浜検潮所で分かっただけでも4.23㍍。怒涛はたちまち鉄筋なしの“ハリボテ”カサ上げ堤防、護岸を乗り越え、流木や船舶をたたきつけてくずしてしまった〉

1970年8月21日0~23時の桂浜検潮所の潮位=高知地方気象台のホームページより。公式に認められた最大潮位は313㌢(最大偏差235㌢)だが、それは途中で測定不能になったため。痕跡から測ると最大潮位は460㌢に達していた

溝渕台風、溝渕水害の声も

大会後は参加者全員で街頭行進しながら400メートル離れた県庁へ。『高知生コン事件の全貌』によると、約60人の交渉委員が応接室に入り、溝渕増巳知事ら県庁幹部と向かい合った。「10号台風は天災でなく人災の面が多分に強い」という山崎会長の発言に続いて交渉委員が次々と発言。例えば横浜地区の交渉委員は「知事は10号台風をおよそ考えられぬ異常台風だったというが台風に異常はない。不意討ちとは何事だ。(中略)今回の台風は10号でもなんでもない。『溝渕台風』だ」と県を追及した。溝渕知事は「埋め立てについては運輸省などとも連絡をとって休止する」と発言、この場で埋め立て計画の休止を明らかにした。取りやめとはならなかったが、その後も西岸の埋め立ては行われないまま。事実上、埋め立て計画は頓挫した。

ちなみに「人災」「溝渕台風」「溝渕水害」という言葉は当時広まっていたらしい。パルプ工場を支援し、江ノ口川と浦戸湾を死の川、死の海に変えたのは県。浦戸湾を埋め立てて高潮を招き、高知市をヘドロまみれに水没させたのも県。市民の怨嗟がそのような言葉を生んだ。

高知市のホームページに載る1970年台風10号の被害図。「死者5名、負傷者159名、全壊390世帯、半壊3530世帯、床上浸水4163世帯、床下浸水5964世帯」と説明する。ちなみに当時高知新聞は〈35000戸の床上・床下浸水〉と書いた

暴力で暴力に立ち向かう

台風10号は浦戸湾埋め立てと高知パルプの公害を合体させた。

『高知生コン事件の全貌』によると、「浦戸湾を守る会」は台風10号襲来の5カ月前、1970年3月に高知パルプ工業を立ち入り検査している。検査したのは同会メンバーの今井嘉彦高知大教授と村岡猛男高知学芸高教諭で、高知市安全対策課が間に入って実現した。検査後の感想は「さして費用をかけずに川の汚染を防ぐことができる。しかし公害に対する企業側の認識がない」だった。

同年5月21日、マスコミ抜きで高知パルプ側との「高知パルプ公害問題予備会談」が行われている。マスコミ抜きは高知パルプ側の要望だった。冒頭、山崎圭次会長はこのようにあいさつしている。『高知生コン事件の全貌』から引用する。

〈高知パルプのタレ流し廃液によって高知市民が日々どんなに苦しんでいることか。社長の井川氏に来てもらい、市民の声を聞いてもらいたいと思って努力して来たが、尾崎専務は、社長は上京中で連絡がつかないとか、社長は入院中であるとか、六年ほども社長に会ったことがないとか、言を左右にしてきたけれども、本日の会談は誠意をもって真実を話してもらいたい〉

尾崎専務は、大王製紙川之江工場長から赴任した尾崎茂夫氏。社長の井川氏というのは大王製紙社長の井川伊勢吉氏だと思われる。1970年5月のこのときに井川氏が高知パルプ社長を兼ねていたかどうかは分からない。山崎会長の発言を続ける。

〈人間が相手から頭を叩かれ、刀で突かれるような暴力を受ける場合、こちらも暴力によってその暴力に立ち向かうことは正当防衛である。高知パルプが流す廃液は市民に対する暴力ということができる。これに対して市民は暴力に訴えてでも立ち上る権利がある。江ノ口川汚濁解決には人道問題が基本にならなければならない。現在1000ppmという工場廃液を、常識で考えられる線まで下げるべきだ。それが出来るまで操業の中止を求める〉

正当防衛論ともいえるこの発言に、翌年の生コン事件に至る伏線がある。この会談には県市の関係者も参加していたが、発言の裏にある決意をおそらく誰も汲み取ることができていなかった。

台風10号による浸水は高知市民を恐怖に陥れた=田中正晴さんの資料より。出典は1973年出版の『その手を離すな――女が書いた土佐湾台風の記録集』(「その手を離すな」出版委員会編)

市が「おわびの姿勢がほしい」

この会で確認したのは①問題解決のため引き続き会を開く②今後の会談は、最悪時には操業中止を前提とする③操業中止またはそれに代わる計画を次回は企業側が示す――など。会社側は「1カ月以内に解決方法を提示する」と約束したが、2回目の会議は4カ月後の9月28日となった。その間に起きたのが台風10号災害だ。

山崎圭次会長が〈江ノ口地区の人は悪臭に悩まされ、こんどのヘドロによる悲惨さをなめさせられた。この現実を尾崎専務はどう考えるか?〉と問うと、尾崎専務はこう答えた。

〈市民に浦戸湾のヘドロによる追い打ちをかけたのは、江ノ口川のみならず浦戸湾全体へ流れ込む河川からの工場下水、一般の投棄物までが原因しているのではないだろうか。私共の高知パルプだけがどうだと指摘されても返答に困る〉。尾崎専務は不満げに〈今日の会は県、市の御協力を得て私共が今後行う廃液処理について皆さまの御意見をお聞きする会だと思っていた〉と続けた。ここで司会を務める高知市公害係長の衣笠洋右氏が発言した。〈ヘドロの原因となる廃液を相当な部分高知パルプが出していることは間違いない。我々は高知パルプから市民に対するおわびの姿勢がほしい〉

衣笠係長に促される形で、尾崎専務は〈まことに申し訳ない。一日も早く万全の設備をこうじたい〉と述べた。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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