公害問題に対する実力行使として今に語り継がれる高知パルプ生コン事件が起きたのは1971(昭和46)年6月だった。この事件は「開発」にたいするさまざまな疑問を噴出させるきっかけとなった。物部川では「ダム廃止」が真正面から、論理的文脈で語られている。(依光隆明)

物部川の毛ばり釣り。ダムができたあとも、しばらくはアユ資源が豊富だった(1970年代、戸板島橋下流)=「三嶺の森を守るみんなの会」資料より
県土再建の希望を託した大事業
1972(昭和47)年の「物部川ダム対策協議会報」に、「吉野・杉田ダムの廃止と導水トンネルにより物部川の清流を復元しよう」という長い文章が載った。副題は「地域住民の決起と為政者の決断を乞う」。〈稀少化した自然を懐古するに止まらず、確固たる現状認識と未来展望に立って、自らの手で自然を復元する運動に取り組むことに立ちあがろうではないか。子や孫達のために!〉と訴える内容だ。物部川ダム対策協議会は物部川漁協に事務局を置く。漁協の思いは協議会の訴えとほぼ等しいと考えられる。
文章は、かつての物部川をこう振り返っている。〈白髪、三嶺、石立の山懐に源を発する物部川は、二十数年前までは県下に比類なき清冽な河川で、上流部はアメゴの宝庫であったし、中下流は初夏の香り高い若鮎、秋には巨大な尺鮎をはじめ、鰻、ゴリ漁等、中年以上の人々にとっては忘れ難い思い出の数々をお持ちでしょう〉。そのような思い出を踏まえ、文章はダムの功罪へと切り込んでいく。まず功。〈三つのダムは昭和二十八年頃、多目的ダム(農業用水、発電、治水)として相次いで建設されたが、これは戦後高知県に於ける巨大開発の嚆矢といえよう。当時敗戦に打ちひしがれていた県民にとっては、まさに県土再建の希望を託した大事業であり、(中略)ダムは当時停電や電圧降下に苦しんでいた電力需要を解決し、切実な食糧不足の当時、干天時のカンガイ用水を供給する事により、それまでしばしば演ぜられた水喧嘩を一気に解消した。ダムは十二分に所期の目的を果たしたのであった〉。三つのダムというのは、上流から永瀬、吉野、杉田(すいた)と並ぶ3ダムのこと。完成は吉野が1953(昭和28)年、永瀬が1957(昭和32)年、杉田が1959(昭和34)年。最上流にある最も巨大な永瀬ダムだけが多目的ダムで、下流の2ダムは発電のために造られた。

物部川の河口。高知空港を横に見ながら太平洋に注ぎ込む=Google Earthより
利益は年間1500万円
「功」を挙げたあと、文章はこう続く。〈爾来星霜二十余年、いつしかダムは土砂の堆積により老化し、又社会の情勢も一転した今日、吾人は今一度原点に立ち戻って、ダムの功罪を検討すべき時が来たと考えざるを得ない〉。俎上にあげるのは吉野、杉田の両ダムだ。この2ダムは農業用水には関係ない、治水にも関係ない。むしろ砂利の供給を阻害しているために下流の河床低下を引き起こし、河口の砂浜をやせ細らせている。つまり防災対策が欠かせなくなっている。では発電利益はどのくらいあるか、と文章は続く。〈吉野、杉田両発電所は県営で、四国電力に対し年間三億円で売電されているが、運転管理経費を差し引けば経営利益は僅かに1500万円位と推察される。(中略)年間僅か1500万円の県収益を切り捨てる事により、物部河口より大栃迄、50キロの清流がよみがえり、流域住民が渇望する自然のレクリエーションの場に供せられるとすれば、逆説的にいってこんな割安な投資はない〉。残る永瀬ダムは、導水トンネルを造って発電取水口付近に注ぎ込む清らかな支流の水量を増やせばいい、と書く。そうすれば永瀬ダムが吐き出す濁水の濁度が激減する、と。

杉田ダムは河口からわずか14㌔の地点にある。その上流は延々湛水池となっていて、瀬も渕もない=Google Earthより
ダムの寿命はわずか百年
最後、文章はまとめに入っていく。〈以上概論した如く、ダム建設後二十余年、当時最低生活維持のためかけがえのない貴重なエネルギー源であった水力発電も、社会情勢の激変した今日ではゼイタクに浪費される商品としてのエネルギーの一部にすぎない。逆に無駄に流れているとしか考えられなかった自然の河川が、県下でもダムによって次々と姿を消してしまった結果、俄に貴重な自然として惜しまれる今日である。のみならず火力に比し僅少な電力を得るため、膨大な防災工事を惹起しはじめており国民経済レベルで考えれば大変な損失と云えよう。ダムというそそり立つ巨大なコンクリート構築物をみると、それはもう未来永劫のものの如き錯覚を持ち勝ちであるが、ダムの寿命はわずか百年と計算されたうえで設計されたものである。(中略)ダムについても時代の変遷に即した改造を断行する事こそ賢明ではないだろうか。住民の意志さえまとまれば民主主義の今日誰にも遠慮は無用である〉
生コン事件が切り開いた環境への目線がこの文章を貫いている。感情的に自然の復元を訴えるのではなく、経済的な計算を踏まえて論理的に「時代の変遷に即した改造」を呼びかけている。冒頭に指摘したように、この文章が書かれたのは生コン事件翌年の1972(昭和47)年。驚かされるのは、永瀬ダムができてわずか15年、杉田ダムに至っては13年で「老化」と表現されていることだ。

2006年、川魚が消えるという危機の中で物部川漁協が出した『物部川』
生き物のいない川・地獄
この文章を再掲したのは2006(平成18)年12月に物部川漁協が出した『物部川』だった。副題は「史上最悪の危機の克服をめざして」。2006年夏、物部川は史上最悪の危機に見舞われていた。環境の指標となるアユの捕獲量は、ほとんどゼロ。当時の岩神篤彦組合長は「はしがき」にこう書いている。〈いま、物部川は“ひん死”といってよいほど史上最悪の状態にあります。過去10数年をかけて流域の多くの方々や行政とも地道な協力関係を築き、環境改善と天然アユの産卵条件などを整え、徐々に前進してきました。その甲斐あって2003(平成15)年や2004年の夏までは天然アユが大量にそ上し、往時をしのばせるほどでありました。しかし、連年災害とダムによる濁水の長期化は、一瞬にして「ひとときの天国」を打ち砕き、生き物のいない川・地獄へと追い込んだのです。その根底には、物部川が構造的な危機にさらされ、生き物にとって環境悪化が年々深刻の度を増してきたという事情があります〉

『物部川』の冒頭にあるグラフ。1990年代初めまではまだまだ川は豊かだった
処方箋の一つは「ダム撤廃」
『物部川』の構成、執筆を担ったのは高知大名誉教授の依光良三さんだった。依光さんはさまざまな角度から現状を分析し、再生への道を探っている。提案した一つが吉野、杉田両ダムの撤廃・休止だ。〈吉野、杉田の二つのダムは電力専用である。とくに吉野ダムは電力規模も小さく、貯水機能もほとんどない。その割には漁場を無に帰すモノであり、中流の自然と漁場再生の視点からダム撤廃ないしは休止を検討すべきであろう。また、杉田ダムも休止か、それに近い運用によって中流の自然再生・漁場再生を図ることを検討すべき段階にある〉。そう書いたあと、〈先人の思いを掲げておこう〉として1972年の物部川ダム対策協議会報「吉野・杉田ダムの廃止と導水トンネルにより物部川の清流を復元しよう」を再掲した。
依光良三さんは安芸市の出身。高知大時代は林業経済の教授として県内外の山々を調査していた。子どものころから嗜んできたアユ釣りから川の問題、さらには環境問題へと研究対象を広げ、物部川にもかかわっていく。
『物部川』の執筆に力を入れていた2006年、依光さんは物部川の最上流で起きていた小さな変化を知る。現在、国内最大級の大規模風力発電所が計画されている香美市香北町の稜線部よりもずっと奥、注意しないと気づかないよう動きだ。
眺望と自然の美しさで知られる高知県最高峰・三嶺(標高1894㍍)が危機に見舞われていた。(つづく)

『物部川』より。アユがいるということは、他の川魚もいるし、鳥たちもいる。生態系が保たれている

















