中山間

マグロ土佐船、南ア・ダーバン沖の決断 荒天の中、23人を奇跡の救出

室戸市吉良川町の山田勝利さん(86)は、経営するミニスーパーの2階を小さなサロンにしている。自身が歩んだ捕鯨と遠洋マグロ漁業の資料を詰め込んだスペースなのだが、その片隅に1枚の古ぼけた写真が立てかけてある。1970年代の終わりごろ、南アフリカ共和国西部の港町、ダーバンから延々南に下がったインド洋で撮ったものだ。当事者以外は誰も知らない、しかし23人の男たちの命がかかったドラマがそこにあった。(依光隆明)

海の資料に囲まれたサロンで記憶をたぐる山田勝利さん

「船頭、大変なことになっちゅう」

「空船(からぶね)でダーバンへ補給に向かいよったときやった。夜、部屋で寝よったら局長(通信長)がそっと入ってきたがよ。『船頭、大変なことになっちゅう』と」

かすかにSOSが聞こえてくる、と局長は説明した。2人で無線室に行った。

「SOSのトツートツーを聞かせてもろうた。確かにかすかなSOSが聞こえた。かすかに聞こえるけんど、東の方角からとしかわからんがよ」

遠洋マグロ漁船は300トン弱の船型で(現在はもう少し大きい)、乗組員が22~23人。トップは「船頭」あるいは「親分」と呼ばれる漁労長である。乗組員の採用を決めるのも、船内ルールを決めるのも、行き先を決めるのも、操業海域を決めるのも、すべてが漁労長の責任。山田さんは室戸高校を出て捕鯨船に乗り込んだものの、けがで下船。マグロ船に転じ、このときは室戸の遠洋マグロ漁船「第36合栄丸」の漁労長を務めていた。

室戸を出港し、インドネシアの海峡を抜けてインド洋へ。「吠える40度線」「悲鳴の50度線」と呼ばれる南緯40~50度の暴風圏で3カ月ほど操業したあと、補給のためにダーバンへ北上していた。物資はほとんど空。燃料もほとんど空。西からの風が強く、船は4メートルほどの横波に襲われ続けていた。空になった船は風と波に弱い。横からくる風と波に耐えながら、合栄丸はダーバンへ北上を続けていた。

「シケの中、南緯45度辺りを45度の方角(北東)に向かいよった。空船やから波と風に弱いがよ。危ないがよ。そんなさなか、たまたまうちの船だけがそのSOSを拾うた。聞き返しても返事はない。おそらく携帯用の小さな無線機やき、かすかな音しか聞こえんがよ。発信しゆう場所も分からん。船の状況も分からん」

第36合栄丸の模型。世界の海でマグロを釣った

行くか行かぬか、乗組員全員を集めて聞いた

どうしたらいいか、山田さんは迷った。第36合栄丸には自分を含めて22人が乗り組んでいる。その命を自分が預かっている。

「空船がシケの中で横波を受けゆうがやき、うちの船も危ない状況ながよ。西からの波、西からのうねりやき。そんな中でかすかなSOSが聞こえてきて…」

SOSの位置が分からないということは、探しに行ったところで該当の船が見つかる可能性は低いということだ。燃料もほぼ空になった状態で、シケの海を探索する決断をするかどうか。一つだけ、山田さんには当てがあった。操業のとき、マグロ船は互いの位置を申告するのだが、1隻だけ遠く離れた東方海域で操業する船があった。海図に各船の位置を書き込んだとき、山田さんはその独航船が気にかかっていた。

「遠洋マグロ船は普通はグループで行動するけんど、中にはグループに入れん船がおるがよ。縄が巻き付いたらいかんき、そういう船は遠くのポイントに行って単独で操業する。その船が操業しゆう海域は自分もやったことがある場所やったき、潮も知っちゅうき、だいたいの位置がわかるがよ」

遠洋マグロ漁船は長さ150キロにも及ぶはえ縄を海に流す。仲のいい船同士ならいいが、そうでないと縄が絡まったときに迷惑をかける。必然的に仲間を持たない船は独航しながら操業する。山田さんが気にかけていたその船の位置は真東だった。山田さんはその海域に賭け、合栄丸の進路を90度に変えた。北を0度に見立てて、45度が北東、90度が真東である。その上で、乗組員全員を集めた。

「みんなの命を危険にさらすわけやから、船頭一人の独断ではいかんと思うて。状況を説明して、助けに行くかどうかをみんなに聞いてみたがよ」

照明を消してあったため、ブリッジは真っ暗だった。21人の乗組員が集まって山田さんの説明を聞いた。説明した上で、山田さんはSOS船を探しに行くべきか、ダーバンに行くべきかを乗組員に投げかけた。

南アフリカ西部、ダーバンを指さしながら説明する山田勝利さん

「俺ら、一生後悔するぞ」

「『危ないき(ダーバンへ向かわないかん)』と誰かが言うたらもう行けんがよ。空船やき、危ないき」と山田さんが宙を見る。シケの中、空船の状態でどこにいるかわからない船を探しに行くなんて危ない。無理。やるべきではない。それがおそらく正論だろう。誰かが正論を口にしたらダーバンに向かわざるを得ない、と考え始めたときだった。

「大きな声が出たがよ。『行かんでどうすりゃあ!』ゆうて。『これを見捨てたら俺ら一生後悔するぞ!』と。それでみんなが盛り上がった。『親分、行こう』『行かんでどうすりゃあ』と。みんなが『行こう!』ゆうて盛り上がった。最初に声を上げたのが誰かはわからんけんど、よう言うてくれた。ああいう言い方をしてくれんかったら行けんかった」

後ろから西風を受けながら真東へ船を走らせた。丸1日を過ぎたころ、SOSの信号が強くなった。「モールス信号がはっきり入りだしたら方位が取れる」と山田さん。風と波は強かったが、視界はよかった。1日半走ったとき、はるか彼方にぽつんと船影が見えた。

「水平線に半分沈んだ船が見えたがですよ」。一気に近づき、風上から合栄丸がロープを流した。向こうの船とつながった。「ロープがつながったとき、こっちの船のみんなが大喜びして‥‥。向こうの船の人たち、びっくりしたと思う。『もうだめや』と思いよったら、まっすぐ向かってくる船があったがやき」

静岡船籍の遠洋マグロ漁船、船名は「第25八千代丸」だった。依然として風と波は強い。風上の合栄丸からゴムボートを下ろし、ロープをつけて静岡船まで流した。静岡船はいったんゴムボートを引き揚げて風下側の舷側に移動させる。合栄丸も風下に回る。静岡船からゴムボートが下ろされ、5人が乗る。風下の合栄丸がロープを機械で巻き取ってゴムボートを引き寄せる。5人とゴムボートを合栄丸の船上に引き上げ、再び風上に回る。同じ作業を5回繰り返して23人全員を合栄丸に移した。第25八千代丸は傾いたまま東へ流されていった。

「シケの中やきねえ。こっちも命懸けやった。船が転覆するくらいの波の中やから。2隻ともローリングは激しいし、ゴムボートは波で吹き上がるし。けんどみんなあ夢中で作業して、怖いとか、危ないとか、そんな感覚は全然なかった」

半世紀前の緊迫した状況を説明する山田さん

生のコメをかじって3日間耐えた

静岡船の23人は憔悴しきっていた。

「半死半生やった。3日間漂流しよったがよ。後ろから大波をくろうて、トモ(船尾)のドアがぶち壊れて、海水が打ち込んで。エンジンルームが浸水して。トモの通路は大きいがよ、機械類を入れなあいかんき。そこから大きな波が打ち込んだ」

エンジンルームが浸水したらエンジンは止まるし、ポンプも発電機も止まる。

「通信もできんき、携帯式の小さなSOS発信ブイを海に放り込んじょった。小さな機械やからSOSの電波も弱い。SOSを拾うてくれる船がおらんかったらおしまいやし、SOSを拾うてくれても探し出せんかったらおしまい。船とブイが離れてもいかん。シケの海やき、浸水が進んで船が沈む可能性もある。絶望の中、ただ流されゆうだけやった。水も電気もないき、生のコメをかじって、えさのサンマもかじって」

静岡船の乗組員たちに温かい食べ物を食べさせ、最も暖かなエンジンルームで寝てもらった。シケが続く中、45人を乗せた第36合栄丸は進路を340度に取った。北北西である。波と風が西から襲ってくる。横波に耐えながら、第36合栄丸はダーバンを目指した。

「西から風がまくってきて、西からのうねりも強かった。空船やき、一番危ないがよ。助けた船員とゆっくり話もしたかったけんど、それどころやなかった」

丸一日走ったところでアフリカ大陸の影に入った。大陸が西風を防いでくれる格好になった。さらに1日余り走ったらダーバンが見えた。なんとか逃げ込むことができた。

「今思うと僕らもめちゃくちゃやった」と山田さんが振り返る。「僕らも燃料がないのに、空船でシケの海へ探しに行って。なんかあったら責任問題やった」

残念だったのは、ダーバンに入港後、静岡船の乗組員たちがすぐに隔離されたこと。おそらく事情聴取のためだろう、全員がどこかの施設に移動した。そのため静岡船の乗組員とはゆっくり話ができていない。その後の交流もない。

傾いた第25八千代丸とゴムボートで脱出する乗組員

そして写真だけが残った

救助中、山田さんは合栄丸の乗組員に「写真は撮るな」と指示していた。

「向こうの船員も救助されゆうところらあ写されとうないろうと思うて。武士の情けやと思うて、『撮るなよ、撮るなよ』と。けんど機械場(機関部)の乗組員が物陰からこっそり写しちょったがよ、1枚だけ」

その1枚が引き伸ばされ、山田さんのサロンの片隅にひっそりと立てかけられている。

合栄丸には静岡の漁協から感謝状が送られた。その感謝状の行方を山田さんは探すが、どこにあるかわからなかった。このときの海難記録も判然としない。

1枚の写真だけが半世紀近くも前のドラマを今に伝えている。

山田さんは第25八千代丸のその後を風のたよりに聞いた。乗組員が船主から「なぜ船を連れて戻らなかった」と叱責を受けたのだ、と。残念だった。九死に一生を得た乗組員をねぎらうのではなく、船の心配なのか。あの状況で船を曳航できるわけがないのに。

海の上のことはおかの人には理解されないのだろうなあ、と山田さんは今も思う。

(C)News Kochi(ニュース高知)

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