教育

惜別 土佐沖で特攻、叔父たちの青春を追った土田彰さん

太平洋戦争末期、特攻隊員として戦死した高知県人の調査を続けた男性が2024年3月18日に亡くなった。土田彰さん。73歳。特攻で亡くなった叔父の人生を20歳前から調べ始め、高知県人と特攻とのかかわりをライフワークとして発掘し続けた。(依光隆明)

土田彰さん(2023年12月19日、高知市内)

すし屋を営んだあと、教員免許を取得

土田さんの話を聞いたのは2023年12月だった。土田さんはすい臓がんに冒され、病院での検査を数日後に控えていた。頼まれたのは、自分の話を聞いてほしいということ。万が一を考え、土田さんは自身のライフワークを第三者に伝えようとしていた。以下、すべて土田彰さんから聞いた話である。

土田さんは1950(昭和25)年に土佐市で生まれた。高知工業高校を中退し、18歳のときから高知市南はりまや町ですし屋「孫寿司」を経営する。兄が始め、姉が受け継いでいた店だった。朝早く市場へ仕入れに行き、夜中まですし屋で働いた。父親に手伝ってもらい、人も雇った。酒もたばこもやらず、ひたすら働いた。

35歳のときに店を閉じ、通信制高校に入る。卒業したあと県立高知短大に入学して中学校の教員免許を取得した。40歳のときだった。

紙業試験場の臨時職員を経て県立の障害者施設だった南海学園の非常勤指導員に。安定した仕事を求めて公立病院で介護の仕事に就いたあと、縁あって愛知県に移る。日本福祉大学の指定寮(学校が指定する民間の寮)から支配人になってほしいと請われたからだ。そこが閉じるまで2年ほど支配人を務め、愛知県が気に入って同県内に家を構えて居住する。高知市にも家があるので、愛知県と高知を行ったり来たりの生活だった。

土田登・二等飛行兵曹。99年前、「銀河」に搭乗して土佐沖で戦死した(『奇跡の特攻機』より)

「親より先に逝くのは、親不孝」

父の遊亀は1943(昭和18)年に満州で応召し、戦後2年の抑留を経て帰国していた。帰国後は妻と魚屋を営んだため、土田さんを育ててくれたのは祖母のヤクだった。土田さんの面倒を見ながら、ヤクはよくこんな独り言を口にした。「親より先に逝くのは、親不孝」と。ヤクが「登が生きていたら」とこぼしたこともある。ヤクに手を引かれ、土田さんは高知市五台山の護国神社にもよく行った。小学校に上がる前の年には東京の靖国神社にも連れられていった。祖母・ヤクが「親より先に逝った」と嘆く父の弟、土田登のことが土田さんの脳裏を占めて離れなくなった。

墓石には「海軍少尉 昭和二十年三月十九日 九州東南海上で特攻戦死 行年二十歳」と刻まれていた。

18歳のときから26歳まで登のことを調べ、8ミリフィルムの映像にした。

登が戦死したのは18歳のときだった。18歳の土田さんは、最初はこう思った。「特攻は自殺と同じ行為じゃないか。私なら逃げる」と。登の人生をたどるうち、登の行動や葛藤が理解できるようになった。登のことが頭から離れなくなった。満面の笑顔で写っている学生時代の写真を見ると、「こんな時代もあったんだ」と思った。

登は七人兄弟姉妹の末っ子として1926(大正15)年3月、土佐市高岡町に生まれた。父親は魚屋を営んでいたが、病弱だった。成績優秀だった登は進学を断念、大阪で松下電器に勤める。父親を助けるため1年後に帰郷し、魚屋を手伝いながら県立高知工業学校の電気科に(2年課程)入学する。早朝、高知市まで16キロの道程を自転車で往復し、店に魚を並べてから学校に行った。このため常に遅刻せざるをえず、成績はトップながら首席にはなれなかった。2年のとき、病弱だった父親が病死する。卒業後、満鉄(国策会社の南満州鉄道株式会社)に就職が内定していたものの、家族に内緒で受験していた予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊する。1943(昭和18)年4月だった。

翌年9月に卒業飛行章、12月に卒業特修科飛行章を授与される。神風特別攻撃隊菊水部隊銀河隊の一員として特攻・戦死したのは1945(昭和20)年3月19日。二等飛行兵曹として3人乗り双発急降下爆撃機「銀河」に搭乗、米機動部隊に特攻した。19歳の誕生日を迎える6日前だった。

追補版『菊水部隊・銀河隊八十一名の特攻群像』にある坂口昌三大尉(左)の写真

特攻直前、極秘裏に送った隊員名簿

実は登の所属部隊は分かっていなかった。知らせてくれたのは1975(昭和50)年にかかってきた1本の電話である。電話の主は長野県小県郡に住む坂口蓑作氏。ご子息の昌三氏が特攻に出撃する前、極秘裏に部下の隊員名簿を送ってきていたという内容だった。五つの基地から分散して出撃したため、部隊の全容を語るものはこの隊員名簿しかなかった。隊員名簿を元にして、1967年に蓑作氏は坂口家の墓地へ「海軍神風特別攻撃隊菊水部隊之碑」を建立、登を含む隊員81人の名を刻んでいた。

隊員名簿を父に託した坂口昌三(出撃時は大尉)は特攻に出る前の月、1945(昭和20)年2月初旬に千葉県でお見合いして結婚した。結婚式は新郎不在のまま長野県の上田で挙げ、新婦が夫のいる鹿児島に駆けつけて慌ただしく1週間だけの新婚生活を送っている。特攻に出撃、戦死したのは翌月20日。29歳だった。

蓑作氏が亡くなったあと、長男の育三氏が呼び掛けて1980(昭和55)年に坂口家で銀河隊初の慰霊祭が行われた。遺族たちが顔を合わせたのはそれが初めてだった。

双発急降下爆撃機「銀河」(『奇跡の特攻機』より)

空母フランクリンを大破させていた

登の生涯をたどった土田さんは、8ミリフィルムを完成させたことでいったん登のことを頭から切り離す。再び調べ始めたのはすし屋を閉じて県立高知短大に通っていた39歳のときである。土田さんは調べたことを冊子にしようとした。

さまざまな情報を得ることができたのは戦後49年になる1994(平成6)年の秋だった。五十回忌に靖国神社で「銀河隊」の慰霊祭をすることにした。「50年たったら神に帰るので最後の慰霊祭になると思っていました。だからでしょう、半数に当たる約40組の遺族の方々が集まりました」と土田さん。その席で土田さんはこう呼び掛けた。「分散して配置されたため、この部隊には集合写真もない。せめて記録を残したいので、資料があれば私のところに送ってください」。集まった資料を加えて翌1995年に作り上げたのが2つの手作り本、『菊水部隊銀河隊・土田登少尉の記録』と『銀河の果てに散華した八十一名の群像』だった。

引き続き調べを進めながら、2014(平成26)年に土田さんは高知市の自由民権記念館で「特攻70年・高知」展を企画する。特攻で戦死した高知県人は、この時点では52人が分かっていた(その後新たに2人が分かる)。その人たちにスポットを当てる企画だった。開催準備をしているとき、土田さんは登の特攻機が大戦果を挙げていたらしいことを知った。ある本に載っていたのを教えられたのだが、時間と場所、機種がぴったりと符合する。登の「銀河」で間違いないと思った。無駄な死ではなかった、と思った。驚きだった。

日米の記録などによると、登ら3人搭乗の「銀河」は1945(昭和20)年3月19日午前4時20分、鹿児島県の鹿屋基地を離陸している。目標は土佐沖の米機動部隊。午前7時8分、同機は雲の間から米空母フランクリンに急降下し、爆弾2発を投下する。直後に対空砲火で機は四散したものの、爆弾はいずれもフランクリンの上甲板を突き破って大破させた。フランクリンの死者は700人とも800人ともいわれている。

『高知県人五十四人の特攻隊員』には集められた限りの顔写真とプロフィールが載っている

一人ひとりの人生を伝える2冊

土田さんは2020(令和2)年春、すい臓がんで余命宣告を受けた。人生が有限であり、だからこそ一瞬一瞬の生のきらめきを見つけるほかない、と思った土田さんは自身が調べた特攻隊員のあらましを自費出版することを考える。同年8月15日に上梓したのが『高知県人五十四人の特攻隊員』と『菊水部隊・銀河隊八十一名の特攻群像』だった。2冊を1冊にした装丁で自費出版した。

2022(令和4)年夏には『奇跡の特攻機』と追補版『菊水部隊・銀河隊八十一名の特攻群像』を一冊本にして自費出版する。『奇跡の特攻機』はフランクリンを大破した登の「銀河」のことだ。写真と文章で登の人生をたどり、併せて猛火に襲われるフランクリンの写真や「銀河」の写真も載せている。

いずれの冊子も、最大の特徴は特攻隊員一人ひとりの写真やエピソードをできるだけ載せようとしていること。一人ひとりの人生が伝わってくる構成になっている。

「81人の中に土佐人は3人います。土佐沖で航空戦があったことを多くの人は知らないと思います」と土田さんは言っていた。「実は昭和19年10月に最初に特攻をしたのも、昭和20年8月15日の玉音放送のあとに最後の特攻をしたのも土佐人でした」とも。冊子を開きながら、最後に土田さんはこう言った。

「戦争がなければそれぞれの青春があったでしょうに…」

 

(C)News Kochi(ニュース高知)

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