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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール⑱なぜ手のひらを返したのか

西岡寅八郎さん(91)と話していると、「なぜでしょうねえ」というフレーズが頻繁に出る。四国銀行がなぜ急に態度を変えたか、なぜ全財産をはぎ取られなければならなかったのか、なぜ暴力団問題で徹底的にたたかれなければならなかったのか。法的にはともかく、西岡さんの常識からは理解できないのだ。(依光隆明)

高知市街を走る電車。122年前の土佐電気鉄道営業開始以来、住民の足となってきた

異様だった35億の借入金

西岡寅太郎さんは1971(昭和46)年4月に高知県議会議員となった。元大蔵官僚の谷川寛三氏を担ぎ出して衆議院議員選挙を戦い、2位当選させて県議会に谷川派を確立したのが1976(昭和51)年12月。建設大臣在職中に急死した仮谷忠男氏の県議会仮谷派を飲みこみ、谷川派は県議会最大の勢力となった。2期目の1978(昭和53)年、西岡さんは「県の心臓部」を構成する人たちに呼ばれる。西岡さんの記憶によると、会合場所にいたのは中内力知事と和食延夫教育長。四国銀行から吉村真一頭取、久保忠武副頭取、浜田耕一専務、滝本浩専務。労働界から国沢秀雄県総評議長と土電労組の香西誠一委員長。それからもう一人、高知新聞の社主兼社長だった福田義郎氏。

おさらいすると、その場で西岡さんが言われた話はこうだった。

「土電(土佐電気鉄道)は(昭和)58年9月に運転資金が切れて倒産する。54年の株主総会で非常勤取締役となって土電の様子を見て、役員との付き合いをしてくれ。58年6月に代表取締役会長となり、2300人の株主の代表として土電におってくれ。その3カ月後に土電は倒産し、会社更生法を申請する」

1983(昭和58)年に土電が倒産するという見通しを明らかにした上で、倒産直前に代表取締役会長になってくれという注文だった。西岡さんは断ろうとするが、最終的に承知させられる。予定通り1979(昭和54)年に非常勤取締役、1983(昭和58)年には代表取締役会長に就任、県や四国銀行と連携しながら土電の経営に携わった。倒産はしなかったものの、土電の経営は火の車だった。西岡さんによると、1983年当時の長期借入金は35億円。うち10億は退職手当引当金などの労務債(労働者に支払われるべき債務)で、これは西岡さんの土電入りなどを条件として四国銀行が1983年に土電へ新規融資した。国沢氏や香西氏が西岡さんの説得に加わったのはこの10億円が土電で働く労働者の死活問題だったからに他ならない。

西岡さんが何度も繰り返すのは、その35億円の異様さだ。1983年に土電の会長になったとき、四国銀行の浜田耕一氏から「35億円の経理は大蔵省との関係があるのでうちがやる。土電はそこから先の経理をやってくれ」と言われる。西岡さんが振り返る。「35億には触るなということでした。入交という土電の経理部長が『どう経理をしたらえいですか』と言うてきたとき、『35億は四銀が処理するからこれには触らんとってくれ』と言うて。要するに、35億円の経理をしていたのは四国銀行です。土電は35億円には触らず、金利だけを払っていました。3%の金利です」。長期借入金を塩漬けにした上で(元本返済を猶予してもらった上で)経営したということだろう。元本返済の猶予で資金繰りが改善するプラス面もあるし、延々利息だけを返し続けて経営が改善しないマイナス面もある。いずれにしろ土電には選択権がない。四国銀行と県の差配通りに動いた。

高知市街を走る「とさでん交通」の電車=高知市旭町2丁目

県の補助≒四国銀行の金利

運転資金が切れなかったこともあって、結果的に土電は倒産を免れた。土地の売却、置換などでわずかながら借入金も減っていく。単年度黒字も出るようになった。株主総会で「3%の金利は高い」という声が出たこともあるが、四国銀行の言い分は「債務超過の会社なので3%が妥当」だった。35億円の3%は約1億円。それを払っても土電は倒れることもなく経営を続けていた。「3%の金利を払うても単年度黒字やったんですよ」と西岡さんは言う。「公的整理をして3%の金利負担がなくなったら完全に黒字になる。公的整理をしてニュー土電を作ろう、というのが浜田耕一さんの計画でした」とも。西岡さんの感覚では土電は立ち直りが見えていた。

一気にそれが崩壊するのが浜田耕一氏が亡くなったあと、2013(平成25)年に勃発する暴力団問題だ。この問題はのちに触れるが、西岡さんから見れば何が問題だったのかは今も分かっていない。指弾された要点、いわば扇のかなめだったのは30年前に暴力団組長だった人物と付き合いがあったこと。その人物との付き合いには法的にも、条例上も、社会的常識からさえ全く問題はなかったと西岡さんは思っている。ではなぜ県も四国銀行も手のひらを返したのか。西岡さんなりに想像はするものの、真相にはたどり着いていない。

四国銀行の手のひら返しは強烈だった。なにより、塩漬けだったこの借入金が唐突に動き始める。土電の代表取締役会長を追われたあと、四国銀行から土電の全債務(元本残高約25億円)を請求されたのだ。代表取締役会長時代に連帯保証の印をついていたため、法的には土電の債務イコール西岡さんの債務だった。代表取締役会長を下りたあとも、四国銀行は西岡さんの連帯保証を解く意志はなかった。県の主導で土電は高知県交通と統合、新会社の「とさでん交通」をつくる。その際、銀行団が保有する土電の優良債権は統合後の「とさでん交通」に移し、不良債権は旧土電に残したとみられる。過去に連帯保証の印を押した以上、払い残した土電の債務は西岡さんの債務になる(単純にそうならないという見解もある)。暴力団問題を理由に四国銀行は西岡さんとの話し合いを拒否、法的に回収できる全財産を回収した上で破産(個人破産ではなく銀行破産)させた。それだけではなく四国銀行は自分が免責を取ることすら執拗に妨害した、自分が死ぬのを待っていたとしか思えない、と西岡さんは思っている。

土電という会社が消える間際、一部の株主が「四国銀行に払う金利分と県から土電への補助金は同程度だったと判明した。結局県の補助金は四国銀行に運ばれていただけではないか」と声をあげたことがある。その事実は高知新聞も取り上げ、県外の経済誌も取り上げた。金利という甘い汁を吸うだけ吸っておいて、潰したいときに土電を潰したのではないか、という指摘だった。

四国銀行にいいように使われたのではないか、という疑惑は西岡さんにもある。西岡さんが最も信頼していたのは専務から頭取、会長を歴任した浜田耕一氏だ。浜田氏が自分を陥れるつもりだったとは信じられない。そう思いつつ、その後の推移を考えると最初から仕組まれていたかもしれないとも思う。いや違う、浜田氏の後継者が浜田氏を裏切ったのだ、と考え直すときもある。「きれいにいく計算になっちょったがですよ。土電を軸に公的整理をして、将来は『土佐くろしお鉄道』と一緒になって陸路を一本化する。浜田耕一さんとそんな話をしよったんです」。なぜ土電が潰され、なぜ統合新会社を県や高知市が経営し、なぜ自分がすべての財産を取られなければなかったのか。考え始めるたび、さまざまな顔が浮かんで眠れない。西岡さんが淡々と言葉を継いだ。

「四国銀行には世話になりましたから、浜田耕一さんの時代の四国銀行には恨みはないです。今の四国銀行にもわだかまりは持っていません。恨んでいるのは土電を潰した当時の四国銀行の経営者だけです。僕は銀行の犯罪だと思っています」

四国銀行本店と「とさでん交通」の電車、バス=高知市のはりまや橋

アウトローと暴力団

1978年に話を戻す。そのとき西岡さんは43歳。「県の心臓部」の面々がなぜ西岡さんに白羽の矢を立てたのか。判明している唯一最大の理由は、西岡寅太郎氏の長男だということだ。寅太郎氏は1971(昭和46)年7月に亡くなったが、豊富な交友関係でさまざまな人に頼られていた。例えば高知新聞の社長を務めた岩井寿夫氏や副社長を務めた秋山重晴氏が入社する際の保証人も寅太郎氏だった。日常的に拠点としたのは高知市堺町の電車通り南にあった明治というレストランで、四国銀行の頭取にも、パチンコ店の経営者にも、暴力団中井組の中井啓一組長にもそこで会っていた。表の人たちにも裏の人たちにも頼られる、それが寅太郎氏だった。加えて寅太郎氏は終戦直後から土電の非常勤取締役を務めていた。土電は特殊な会社で、西岡さんは「(会長になった当時で)株主が2300人。うち30人はアウトローでした。株主総会には刑事6人が張り付いていました」と明かす。赤字会社だが、土電は電車通り沿いに広大な土地を持っていた。それを目当てに、暴力団関係者を含む有象無象が集まっていたらしい。アウトローから企業のトップまで対等に付き合っていたのが寅太郎氏であり、だからこそ表の人にも裏の人にも頼られていた。寅太郎氏が亡くなったあと、その穴を埋めるのは簡単ではない。やってもらうのは息子の寅八郎しかいない、と「心臓部」の人々の考えは一致した。

この考えが的外れではなかったことは西岡さん本人も感じている。例えば土佐闘犬センターの弘瀬勝氏と最初に面識を持ったのは土電の会長になって間もないころだった。そのころ既に弘瀬氏は中内県政の下で隠然たる力をつけ、毎年正月明けには県庁内で幹部に訓示をしていた。その弘瀬氏が土電に乗り込んできた。

当時の土電には「株主懇話会」という有力組織があり、Yという幹部社員が事務局長をしていた。西岡さんは「Yを外せ」と指示する。アウトロー的株主の代弁者としてYが土電の役員人事まで左右している、と見たからだ。Yは異動し、「株主懇話会」を離れた。弘瀬氏が土電にやってきたのはそのすぐあとだ。西岡さんが出ていくと、「こんにちは。お名前は聞いております」と弘瀬氏。「なんでしょう?」と西岡さんが言うと、弘瀬氏は手紙を取り出して西岡さんに見せた。手紙には西岡さん、土電社長、四国銀行から出向した土電常務の計3人を「懲らしめてくれ」と書いてあった。差出人はYで、あて先は中井組組長の中井啓一氏。「それがどうしました?」と問う西岡さんに、弘瀬氏はこう言った。「中井会長から『西岡寅八郎ゆうたら寅さんの息子やないかえ?ちょっと聞いてこい』と言われて来ました。西岡寅太郎さんの息子さんですか?」。「そうです」と答えると、弘瀬氏はこう言って帰って行った。「分かりました。西岡さんの名前はのけちょきます」

西岡さんが振り返る。「手紙には『自分は飛ばされた』とも書いてありました。Yはサツキ会のメンバーやったですから。その関係で中井さんに手紙を出したんでしょうねえ」。サツキ会というのは中井啓一組長を囲む会だった。「年に一度、ホテル三翠園で開かれていました。参加者は100人を超えていたはずです。Yはいつも土電の役員3~4人を引き連れて行っていました」と西岡さんは言う。

2003年12月、高知新聞は弘瀬勝氏へのインタビュー記事を載せた。当時、弘瀬氏は63歳。見出しは「『しがらみ』と呼ばれた男」「わしはトラブル処理係」=2003年12月26日付夕刊

親は暴力団でも娘は別

表の人にも裏の人にも頼られる、という点でも西岡さんは期待通りだったかもしれない。相手が暴力団組長でも「おんなじ人間や」と思う感覚は小さいときから身についていた。それがのちに暴力団問題で足元をすくわれる遠因になるのだが、そこは信念と言ってもいい。年齢が近いこともあるだろう、暴力団豪友会の中山勝正会長とは決まった場所でごくたまに昼間会っていた。中山氏と同郷の女性が経営している高知市中心部のレストラン。その個室で会うことにしていた。

「相談ごとを聞きよった。ああゆう人は心を開いてくれる普通の人がおらんですきねえ。心の友がおらんのですよ」。中山氏とのこんな会話を西岡さんは覚えている。「寅さん、おまん一番ええわえ」と中山氏。「どうしてぜえ?」と西岡さんが問うと、「夜中にラーメン食べとうなったら行けるやろ」。西岡さんが振り返る。「『そんなの、行ったらえいじゃいか』と言うたら、『誰に狙われちゅうか分からんき、若いしを(若い組員を)連れて行かなあいかん』と。『枕を高うして寝れん』とも言うてました」

こんな相談を受けたこともある。西岡さんが言う。「『一番わしが困っちゅうがは娘のことや』と言うがです。『2つだけわしの頼みを聞いてくれんか』と」。私立の学校に合格した中山氏の娘の保証人になってほしいということと、将来その娘の結婚式に出てほしいということだった。分かった、と西岡さんはすぐに動いた。入学時の保証人には谷川寛三氏の秘書になってもらった。中山氏の娘の結婚式にも出席することに決めた。

10年ほどたったころだろうか、結婚式の招待状が来た。行くと言ったからには結婚式には出なければならない。ところが運悪く結婚式の日程と県議会とが重なった。しかも西岡さんはそのとき副議長だった。副議長が議会の開会中に暴力団組長の娘の結婚式に出るなんて、今なら一発アウト間違いない。いや、当時でも辞職騒動になりかねない問題だといえる。それでも西岡さんは結婚式に出席し、祝辞まで述べた。

「(中山氏は)県議13人に結婚式の案内状を出しちょったがです。議員やりよったら暴力団にも大なり小なり世話になっちゅうがでしょうねえ。付き合いがあるくせに皆へっぴり腰やった」と西岡さん。結婚式から議会に戻ったとき、同僚議員に囲まれて「寅さん、行っちょったかえ?」と声を掛けられた。西岡さんはこう言った。「行っちょったかちなんぜよ。利用する時だけ利用して行かんがかよ。俺は別になんにも世話になってないがぞ。友人やき行ったがぞ」。とはいえ、ことが明らかになれば大問題になるのは間違いない。誰がチクったか、高知新聞の野町俊一記者がこれを知ってしまう。野町氏は安芸市の出身。若くして亡くなったが、政治部畑で一本筋の通った硬骨漢だった。西岡さんは野町記者から鋭い取材を受ける。西岡さんが振り返る。「親が暴力団でも娘はけなげに生きちゅう。それやに野町が『新聞に書く』ゆうきよねえ、『親と子は関係ない。子はけなげに生きちゅうがやに、親が暴力団というのを娘なり息子なりに引き継がせるがか。それを防ぐがが新聞やないか』ゆうて野町に言うて。それで野町と親しゅうなった」

結局、野町記者はこの問題を書かなかった。

(C)News Kochi(ニュース高知)

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