西岡寅八郎さん(91)が高知県議会議員選挙に初当選したのは1971(昭和46)年4月だった。谷川寛三氏を担いで衆議院選挙を戦ったのは1976(昭和51)年12月。その間、国政選挙が4度、知事選は2度あった。(依光隆明)

林迶氏。これは1985年、労働大臣になったとき。祖父から3代続けて大臣に就いた=『高知県議会史』より
影となって半世紀
衆議院議員選挙は1972(昭和47)年12月の一度だけだった。高知全県区(定数5)は自民党が3議席を確保。残りを社会党と共産党が占め、公明党が議席を失っている。参議院選挙は3回あった。1971(昭和46)年6月通常選挙の高知県地方区(定数1)は自民党の浜田幸雄氏が勝利する。ところが浜田氏は現職のまま亡くなり、1974(昭和49)年5月に参議院補欠選挙が行われた。3年前に無所属で出馬し落選した林迶(ゆう)氏が自民党公認を得て初当選。2カ月後の7月には参議院通常選挙が行われ、自民党の塩見俊二氏が4度目の当選を果たしている。
林迶氏は血筋のよさで有名だった。父親の林譲治(1889~1960)はワンマン宰相といわれた吉田茂(1878~1967)を支え、衆議院議長や副総理を務めた人物。祖父の林有造は板垣退助輩下の民権活動家として活躍し、政治家としては農商務大臣などを務めている。有造の兄弟も著名で、兄は初代北海道長官の岩村通俊、弟が複数の県の知事を務めて貴族院議員となった岩村高俊。吉田茂も林家の親戚になる。
西岡さんにとって林迶氏が初当選した1974年の参議院補欠選挙は忘れられない選挙となった。期せずして買収事件のど真ん中に立ってしまったのだ。
西岡さんには影のように寄り添う秘書がいる。横山新一さん、86歳。西岡さんに連絡を取りたい人は横山さんに電話をかける。西岡さんを目的地まで運ぶのも横山さんであり、西岡さんが行く先に随行することも少なくない。西岡さんに代わって物を届けることもあるし、代理で会合に出席することもある。50年以上も前からそれを続けている。当然、西岡さんの人脈は知り尽くしている。この聞き取りで西岡さんの記憶を補完してくれるのも横山さんだ。横山さんのおかげで正確さが倍加している。
1974年の参議院補欠選挙直後、その横山さんが買収容疑で逮捕された。

連続して行われた参議院の補選と通常選挙が終わったあと、1974年8月7日の高知新聞。「汚れた選挙」だったと選挙違反を指弾している
「意地でもしゃべらん」
西岡さんによると、事情はこうだった。自民党公認で林迶氏の出馬が決まったあと、自民党県連に本部から「公認料」が下りてきた。金額は分からない。自民党県連はそのカネを選挙資金として末端に下ろそうとした。多くは県議会議員を通じて下ろした。県議にカネが配られた。県議会議長室で渡されたらしい。自民党県議の中でそのカネを受け取っていなかったのは土佐清水市の中平博氏だけだったと西岡さんは言う。西岡さんもカネを受け取り、選挙区内の世話役に下ろした。春野町(現高知市)に下ろす分は横山さんに託して町議会議長に届けた。金額は40万円。それが多数の町議に配られ、買収に使われた。
町内のラーメン屋で町議の一人が有権者に酒を飲ましながら「林をよろしく」と一席ぶったらしい。ちょうどその場に刑事がいた。違う案件を調べていた土佐警察署の刑事だった。刑事の前で供応買収をやってしまったわけだ。下に流れた「公認料」が、交通費や会場使用料など公職選挙法で認められた活動(実費精算)に使われればセーフ。活動家の報酬や投票依頼に使われたらアウト。供応は買収の一種で、即アウトとなる。現代と違い、当時は供応すれすれの行為が少なくなかった。
警察はその町議から「上流」に向けて資金の流れをたどった。調べるうちに運び屋として横山さんの名が出たとみられている。6月のある日、「午後1時に高知地方検察庁へ来い」と横山さんに呼び出しがきた。警察ではなく検察からの呼び出しだった。妻に「21日したらもんて(戻って)来るき、バタバタせんとおれよ」と言い残して検察庁に行った。
検事の取り調べに、横山さんは「(まさか現金とは思わず)推薦はがきだと思って持って行った」と主張した。夜7時、逮捕状を執行された。午後11時まで取り調べを受け、近くにあった高知刑務所に連れて行かれた。正確には高知刑務所内の未決拘禁区画に連れて行かれたのだが、実質的には刑務所と同じ。横山さんは「ごはんが臭くて食べられなかった」こと、トイレが粗末で臭かったことを覚えている。ちなみに当時の高知刑務所は高知城のすぐ西(現在の城西公園)に広がっていた。
刑務所に連れて行かれるとき、担当検事は横山さんを連れて検事正のところにあいさつに行った。検事正に向かい、担当検事はこう言った。「明日片付けますから」。聞いた瞬間、横山さんはカチンときた。「なに言いよりゃあ、意地でもしゃべらん」と。翌日は少しだけ口を開いたものの、翌々日からは黙秘を貫いた。「検事さんすいません、なにを言うても信じてくれんき、もうしゃべりません」と通告し、なにをどう言われても口を開かなかった。朝9時に刑務所から検察庁に連れて来られて取り調べ。昼は刑務所に戻って昼食。午後1時から5時まで検察庁で取り調べ。刑務所に戻ったあと、午後6時に検事が刑務所まで来て取り調べ。終わるのは午後10時だった。

高知県議会棟に登る階段
検察の威信を懸けて
いつの間にか横山さんは自民党県連の命運を握る立場に立っていた。
「下流」の春野町側はすでに次々と町議会議員がお縄になっていた。横山さんが口を割れば「上流」にも検察の手が伸びる。県議会議員までたどり着いたら検察としては面目躍如。その上の国会議員まで手が伸びれば全国的に特記される成果となる。検察は張り切っていた。当時、自民党の県議会議員は32人。うち31人にカネが渡っている。横山さんが口を割ったら自民党県議のほぼ全員がお縄になる可能性すらあった。警察ならまだしも、検察が直接やっているので止めようもない。事態の深刻さを、誰よりも自民党県連自身が分かっていた。
林陣営の参謀長は自民党県連幹事長の安岡一県議で、参謀が前副議長の美馬健男県議だった。西岡さんが振り返る。「自民党県連は『もうすぐやられる』と思いよりましたきねえ。安岡さんと美馬さんが来て『横山にしゃべらんように言うてくれ』と。2人の目は血走ってましたよ。『しゃべってもろうたら困る』ゆうて」
担当検事の前任地は神戸で、主に暴力団の取り調べを担当していた。横山さんに対する取り調べは厳しかった。ただし暴力的な言動はなかった。横山さんは耐えた。勾留期限は警察なら23日間だが(検察に送致するまでに2日ある)、検察の場合は約21日間。なにを言われても耐え続け、横山さんは最後まで黙秘する。結局、不起訴となった。この選挙では春野町議が13人逮捕・検挙されている。対照的に、県議会議員はゼロ。西岡さんが言う。
「検察が『なんちゃあしゃべらん』ゆうて怒り回りよったゆうて人に言われました。『西岡組はやくざよりすごい』ゆうて」
横山さんが高知刑務所に勾留されているとき、塩見俊二氏の候補者カーが回ってきた。塩見氏を連呼する声が刑務所内まで聞こえてきた、と横山さんは振り返る。横山さんが買収の疑いをかけられたのは参議院補欠選挙で、塩見氏が出馬したのは2カ月後の参議院通常選挙。6月14日公示、7月7日投開票の七夕選挙だった。
翌1975年は年末に知事選が行われることになっていた。知事選にもさまざまなドラマがあった。(つづく)









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