2025年10月30日に100歳を迎えた岩手県大船渡市綾里白浜の熊谷正吾さんは、小学2年で昭和三陸津波を体験した。甚大な被災からの自力更生、続く大凶作の歳月に苦闘した浜から太平洋戦争に出征。昭和20(1945)年の終戦間際にあった大湊軍港(現青森県むつ市)の大空襲を生き延びた。戦後は行政区長などを務めながら集落を歩き、古里の津波と戦争の犠牲者たちを記録してきた。(寺島英弥)

東日本大震災では津波襲来を確信し、自宅前の高台から海を見守った熊谷正吾さん。「津波が来るぞ」と真っ先に叫び、不安がる近所の人たちに教えた=2024年2月20日、岩手県大船渡市綾里
徴兵、海軍横須賀海兵団に
昭和初期からの戦争は、津波の災禍を懸命に生き延びた白浜地区を否応なくのみ込んだ。地区からの出征兵士は敗戦までに407人。正吾さん自身も1944(昭和19)年11月に徴兵される。網本の息子だった正吾さんは、尋常高等小学校を出て漁師となった。青年学校令に伴う青年学校の軍事教練(必修)を受けていた正吾さんは、横浜の造船所に徴用(強制動員)され、軍艦の修理の鋲打ち作業に従事。帰ると、綾里の海岸にあった「監視所」勤めを志願し、「夜に敵機の灯を見つけて報告した」という軍国少年だった。徴兵検査は正吾さんら20歳になった男子三十数人が大船渡の盛(さかり)小学校で受検し、半数が甲種(兵士に適する心身健康な者)合格した。徴兵で、どの家も苦しい生活から男手を奪われたが、「軍隊に行けば満足に飯が食えると聞かされていた」。多くの同級生が陸軍第31歩兵連隊(弘前)へ、そして正吾さんは小柄という理由で海軍に振り分けられ、横須賀海兵団に入営した。
横須賀にあった海軍の鎮守府と大軍港には米軍の空襲が相次ぎ、正吾さんら新兵約7千名は昭和20年4月、北方海域を守る大湊警備府の大湊海兵団に転属させられたという。「本土決戦間近」の緊迫の中、敵上陸に備えた訓練に明け暮れたが、正吾さんは「青年学校で鍛えたから私は楽だった」。優秀とみられた正吾さんは教員室係に指名され、班長の靴磨き、服の洗濯などをして、外出の土産に羊かん、あめをもらった。運命の分かれ目もあったという。「沖縄決戦」(沖縄戦は同年3~6月)への輸送船護衛任務への志願を募られたが、目をかけてくれた班長から「志願するな」と言われ、後に志願者は全員戦死と聴かされたという。「秋田の人で、命の恩人だった」と正吾さん。
年に地元から徴兵された人々の間に、熊谷正吾の名前がある(左から6人目)=熊谷さんの記録ノートから=-1024x751.jpg)
戦争末期、昭和19年に地元から徴兵された人々を記す熊谷さんの記録ノート。左から6人目に熊谷正吾の名前がある
毎夜、陸奥湾でスルメイカ
最後は大湊軍港の駆逐艦に配属されたが、米艦隊による岩手県釜石市への艦砲射撃とほぼ同じ7月14日、8月9日に大湊空襲があった。特に2度目の空襲は激しく、港内の駆逐艦「常盤」「柳」などで120人余りが戦死した。「みんな、艦から海に飛び込んだ。海軍基地は壊滅した。戦友も大勢亡くなり、浜に運んで火葬したんだ」
敗戦の玉音放送を知ったのは、立てこもる陣地を構築するため仲間と穴を掘り、機関銃や弾薬を運んでいた時だった。「午後3時ごろ、『おーい、みんな出てこい』と号令があり、『戦争に負けた。陛下からお話があった。無条件降伏だ』と聞かされた」
それから、打って変わった毎日が始まったという。「漁師の者は手を挙げろ」とカッターボートの乗り手を募られ、毎夜、陸奥湾の釣りに漕ぎ出して、スルメイカを山ほど捕った。「海軍の飯はいい、と言われたが、戦争が終わってもう食糧は届かなくなったんだ。毎晩、イカ汁だった」。もう一つの不安は、敵だった米軍の上陸だった。「自分たちは殺されるのではないか、だから、すべて捨てろと、武器弾薬を海に投げ込んだ。ところが、やってきた米兵は礼儀正しく、何もひどいことはされなかった」
米軍の基地接収から2週間余り後の10月24日ごろ、海兵団の各部隊は解散し、正吾さんは大湊を去った。兵営で使った毛布5枚、靴下1足分のコメ、缶詰1個、たばこ2箱を袋に背負い、助かった命を何よりの土産に、郷里の白浜に帰還した。 しかし、地元から出征した人々のうち戦死は117人を数えた。

百歳となってなお生き字引のように自ら記録した人の歴史を語る熊谷正吾さん=2025年10月10日、大船渡市綾里白浜
「名前があれば忘れられない」
正吾さんは24歳で網元の家を継いだ。自らも漁船に乗り、マグロ、イカ、サバなどを捕って80歳まで現役漁師を続けた。地元の行政区長など30ほどの役職を長く務め、白浜の海水浴客のために「岡田荘」(屋号から命名)という民宿も営んだ。子どもの時から記憶力に優れ、戦前から帳面、日記にすべて記録する習慣を続けている。日々の活動で集落を歩きながら、明治からの津波犠牲者、出征兵士、戦死者の名前と年齢、家族や残された話なども聴き取り、寺や墓地にも足を運んでノートに記してきた。上記の戦死者数も熊谷さんの丹念な調べから分かった。他にはない貴重な資料だ。
「昔から、小中学校、公民館などに呼ばれて、白浜の津波の講話をしてきた。民宿でも子どもたちに聴かせたものだ。戦争の歴史も、人の名前を記していれば、津波と同じに忘れられることはないと思った。あのころは厳しい時代だったが、私は背が小さくとも負けたくないと頑張ってきた。この年になって、呼ばれて語る機会はなくなったが、今は、毎週通っているデイサービスで『昔語りじいちゃん』といわれているよ」

















