2006(平成18)年、物部川は死に瀕するほどの惨状に陥った。直接のきっかけは豪雨だったが、そのとき山はまだぎりぎり再生力を保っていた。再生力をも奪う厄介な課題が表面化したのはその直後だった。(依光隆明)

葉を食べるシカ。一度にたくさんの生葉を食べる=「三嶺の森をまもるみんなの会」提供
自然災害ならば山は復活する
高知大名誉教授の依光良三さんは物部川にほど近い香南市野市町に住みながら物部川上流の山々に目を向け続けている。
「2004年の豪雨は上韮生川筋で700ミリの雨量を記録しました。翌2005年、別府峡筋で1000ミリの雨量を記録しました。2年連続でやられたわけです。2004、5、6年の物部川は濁水が消えず、中でも2006年のアユの漁獲量はわずか1㌧。実際は1㌧もないでしょう、ほとんどゼロでした。1日(釣りを)やって1匹2匹しか捕れないような状態でした」
山から大量の土砂が流れ込み、物部川は赤っぽく濁り続けた。川魚が消えた2006年の物部川には「ひん死」という表現まで使われた。ただし自然災害の場合、長い時間をかけて山は復活する。
「稜線がバサバサと崩れたんですが、崩れというか、自然災害の場合は植生がすぐ出てくるんですよ。10年20年たったら稚樹が出てきて、樹木もかなり元に戻る。ところが(2004~6年災害は)ちょうどシカが入ってきたタイミングだったんです。だからぜんぜん再生しない」
物部川の源流に当たる三嶺周辺にシカ(ニホンジカ)が入ってきたのは2005年頃だったとみられている。気づいたらシカは急速に増えていた。ある程度の頭数なら食害につながらないが、それを超えると植生が破壊される。たとえば冬場にシカはササを食べる。夏は食べないからササは夏の間に根を張って伸びる。ところが年中食べ続けると、ササは枯れる。シカが増えすぎると夏もササを食べるしかない。そうなるとササ原は死滅に向かう。樹木の新芽も食べる。依光さんが言う。「稚樹はほとんど食われます。ほとんど百パーセント食われる。森は再生しません」

シカの生息数の推移=『危機に立つ四国山地の自然』より
1000頭が15万頭に
依光さんによると、もともと四国には西南部と高知県東部の徳島県海南町との県境付近くらいにしかシカの群れはいなかった。それぞれ数百頭くらいが生息していたとみられている。人間とのかかわりは少なく、いわばひっそりと生活していた。
シカは明治時代から全国的に乱獲され続けてきた。地域によっては絶滅寸前にまで追い込まれた個体群もある。増加に転じるきっかけは1947(昭和22)年に国が打ち出したメスジカ捕獲禁止だった。シカのメスは年1頭しか子どもを産まない。だから絶滅に向かいやすいのだが、保護をすると年15%程度の割合で個体数が増加するとされている(北海道のエゾジカは20%近いとされる)。年15%の増加だと5年後に2倍、10年後に4倍、20年後に16倍、30年後に66倍となる。依光さんが代表を務める「三嶺の森をまもるみんなの会」が2024年5月に出した『危機に立つ四国山地の自然―シカ食害の進行の中で―』にはこんなくだりがある。
〈1960年頃に四国西南部と東部に1000頭いたとすれば、30年後には6万~7万頭に達し、40年後には約15万頭になる。2000年のころの四国のシカ生息数はこのようなレベルに達したと推測されよう〉
しかし三嶺周辺ではシカは目立っていなかった。依光さんが言う。
「2003年に四万十川上流(四万十市西土佐)の黒尊に行って、こんなにシカ問題が起きているんだと驚いたことがあります。モミの木なんか、根株がかじられていましたから。黒尊では(植生が変わって)シカが食べないものが増えていました。1990年代から被害が出ていたのかもしれません」
当然ながら個体数が増えるとシカの生息範囲は広がっていく。四国のシカの生活エリアはじわじわと広がっていた。三嶺の南稜線部にある「韮生越」にシカが入り始めたのは2005年だとみられている。そのすぐ上部に広がる「カヤハゲ」がシカの食害に遭ったのは2007年だった。あっという間に稜線部のササは全滅した。『危機に立つ四国山地の自然』はこう書いている。
〈シカは1日5㌔㌘~6㌔㌘もの生葉を食べるといわれている(高槻2015)。剣山山系の三嶺山域にシカの群れが進出してきたときは、ササやスズタケ、毒のない草本類、稚樹、灌木など、シカにとって食料の宝庫であった。三嶺山域でみると、東部から移動してきたり、定着して繁殖したりして、あっという間に過剰生息状態となり、残された貴重な自然に打撃を与えるようになった。(中略)このような大群に食べられたササは衰退し、矮化しながらも生き延びているが、一部エリアでは枯死を免れなかった。完全に枯死したササ群落は、後にシカに強い植物に遷移している。(中略)林床では、真っ先に希少種を含む有毒でない草本類が被害にあい、そして樹林帯の林床植生の7、8割を占めるスズタケが三嶺の森コアエリアでは壊滅した〉

三嶺北斜面でエサを食べるニホンジカの群れ。19世紀初頭にニホンオオカミが絶滅したあと、天敵はいない(2017年)=「三嶺の森をまもるみんなの会」提供
長期的には森は滅びる
ピーク時には1㌔平米当たり80頭のシカがいたのではないか、と依光さんは言う。「焼け野原」とも表現した。シカの食害に遭ったエリアは、それこそ焼け野原の惨状になっていく。再び『危機に立つ四国山地の自然』。
〈シカは樹の葉も大好物で、稚樹や灌木はほぼ壊滅し、樹皮食いをしない樹木でもシカは立ち上がって葉を食べる。その結果、森林にはシカの立ち上がれる範囲から下部に枝葉がない採食ライン(ブラウジングライン)が形成されている。三嶺の森では、シキミとアセビ以外の稚樹は食べられ、樹木の次世代が全く育っていない。樹木にも寿命があるので、本来なら枯死後のギャップに稚樹が芽生えて若木が育ち、更新されて森の循環系が保たれる。しかし、シカ生息下の現状では後継木がほとんど育たず、長期的には森の循環系は断たれ、長期的には森は滅びる〉
食べ尽くし、焼け野原のようになったエリアにはミツマタが繁茂した。ミツマタはシカが食べないからだ。食べるものがなくなったシカは分散していく。(つづく)

















