現在の高知県知事は浜田省司氏で、さかのぼると尾﨑正直氏、橋本大二郎氏、中内力氏、溝渕増巳氏となる。溝渕氏から中内氏に移るとき、地方議員から自民党本部までを巻き込む静かな闘争が繰り広げられた。(依光隆明)

作家の司馬遼太郎氏と談笑する副知事時代の中内力氏(左)。1968年と思われる=中内氏の著作『県庁わが人生』より
県庁生え抜きのエース
公選後の高知県知事を務めたのは浜田、尾崎、橋本、中内、溝渕各氏のほかに川村和嘉治氏、桃井直美氏の7人。高知県出身でないのは橋本大二郎氏だけで、浜田氏が四万十市、尾﨑氏が高知市、中内氏が越知町、溝渕氏がいの町、川村氏が本山町、桃井氏が南国市の出身。郡部出身の知事が多いのが特徴となっている。もう一つの特徴は県庁の生え抜きが少ないこと。多いのが官僚で、内務省・総務省系が浜田氏、溝渕氏、桃井氏の3人、大蔵省系が尾﨑氏。橋本氏と川村氏はマスコミの世界(NHK記者と新聞記者)から知事選に挑んで当選した。
唯一の県庁生え抜きが中内力氏(1912~2001)だ。城東中(現追手前高校)を卒業後、いったん大阪に出たあと県の外郭団体で臨時職員をする。県が採用試験をしたときに受験し、1935(昭和10)年に県庁入り。川村県政下で人事課長、溝渕県政下で教育長を務めて実力を蓄える。中内氏の名が県民に広く知られたのは勤評闘争のときだった。教員への勤務評定(校長による査定)を導入しようとする国、県に教職員組合や生徒たちが猛反発、組合に反感を持つ住民も参入して県挙げての騒動となる。一方の主役として勤務評定実施を推進したのが教育長の中内氏だった。
中内氏の後ろ盾として福田義郎氏の力が寄与したという見方もある。西岡さんが「高知県を裏で支えたのは四天王だった」と強調する四天王の一人、高知新聞社長兼社主の福田氏だ。ある県庁OBは「同級生だったか下宿先だったか、福田氏と中内氏の兄が懇意にしていて、福田氏が中内氏を引き立てた。中内氏の兄の娘は高知新聞記者に嫁いだはず」と話していた。西岡さんが初めて中内氏に会ったのはその兄の家。中内氏はそこに住んでいたらしい。要件は仲人のお願いだった。
「僕の弟が結婚するとき、溝渕さんと塩見さん(塩見俊二参議院議員)が『仲人をしてあげる』と言ったんです。親父は『どっちも立てないかんき、どっちかを選ぶことはできん。教育長に中内ゆうのがおるき行ってこい』と。で、中内さんのところへ頼みに行った。確か比島(高知市比島町)におったと思う」
中内氏が教育長を務めたのは1958(昭和33)年から1965(昭和40)年まで。西岡さんは土佐高をやめ、家業の酒類卸を営んでいた。県議会議員となった父・寅太郎氏の指示で中内氏に会いに行く。中内氏は弟の仲人を引き受けてくれた。
中内氏は1965年10月に副知事となり、1期4年が終わるときは57歳。県庁生え抜きのエースとして庁内で圧倒的存在感を示すようになっていた。任期切れに伴って勃発した再任問題を号砲に、溝渕VS中内の政治闘争がスタートする。

中内力氏の出馬辞退を報じる高知新聞。中内氏(右)と溝渕氏(左)の表情が対照的。中央は自民党県連会長の塩見俊二氏。塩見氏の出した「念書」が4年後に火を噴く=1971年9月28日付朝刊
火種となった「念書」
溝渕氏は中内副知事を再任せず、新しく作る県の外郭団体へ移そうとした。知事選のライバルとなるであろう中内氏をラインから外しにかかった構図になる。これを中内氏は拒否。著書の『県庁わが人生』(1995年高知新聞社刊)に、中内氏はこう書いている。
〈正直なところ、県庁内部や県議会などでは、私の再任を当然視する声が多かった。私自身も「溝渕県政は中内を必要としている」と信じていた。高知県庁生え抜きの職員で、副知事に起用されたのは私が初めてである。知事に信頼されているとの自負もあった。それだけに「再任せず」との通告はショックだった〉
再任拒否をめぐって県議会自民党は溝渕知事の真意を確かめに走り、社会党は本会議で「再任するべきだ」と溝渕氏に質問する騒ぎになる。各会派の思惑が入り乱れ、溝渕氏と中内氏の亀裂は深まっていった。中内氏は1969(昭和44)年10月に任期切れで副知事を退任。ここから事実上の知事選がスタートしたと言っていい。溝渕氏はこのとき4期目の途中。任期は1971(昭和46)年12月までだった。
知事選の年、1971年の7月21日、溝渕氏は自民党県連会長の塩見氏を東京の議員会館に訪ねる。口頭で入党を申し入れるとともに、知事選の公認申請をした。同日、中内氏も東京に塩見氏を訪ね、自民党に推薦願を出した。中内氏は社会党、公明党、民社党にも推薦を申し入れていた。
げたを預けられた形の自民党県連は、延々結論を出すことができなかった。最終的に決着したのは9月27日。中内氏が引く形で出馬断念を表明、溝渕氏に自民党公認を出すことで落ち着いた。決め手は県連会長の塩見氏と副会長の仮谷忠男衆議院議員から中内氏の後援会長に手渡された「念書」だった。そこにはこう書かれていた。〈今期の知事選挙においては溝渕増巳氏を自民党公認とするが次期知事選挙においては中内力氏を自民党公認候補とするよう責任を持ちます〉。この念書が4年後に火を噴く。

溝渕増巳氏の出馬表明を報じた記事=1975年3月12日付高知新聞朝刊
六選出馬を表明
1971(昭和46)年11月に行われた知事選は県政史に残る戦いとなった。5期目を目指す溝渕氏に対し、最強の「革新統一候補」が立ちふさがったのだ。衆議院議員を経て1946(昭和21)年から4期16年にわたって高知市長を務めた氏原一郎氏。社会党、共産党が推薦し、民社党の支持を受けていた。どちらも1900(明治33)年11月生まれで、ともに現在のいの町出身。全国的な革新知事ブームもあり、がっぷり四つの戦いを展開した。
投開票日は11月28日だった。結果は23万票対21万票。ぎりぎりで溝渕氏が五選を果たした。病に伏した父親に代わって西岡さんが県議選に出馬、当選したのはその7カ月前。政治の世界に入ったばかりとあって、西岡さんはこの知事選にはさほどのかかわりはなかった。
選挙から半年後の1972(昭和47)年5月、中内氏は高知新聞の関連会社、RKC高知放送の副社長に就く。箔があって動きやすいポストを福田氏が用意した、と受け止められた。退任は2年後の1974(昭和49)年5月。ここから中内氏は本格的な選挙活動に入る。西岡さんは中内氏から「西岡君、知事選挙に出るき応援してくれ」と頼まれた。西岡さんはこう答えた。
「『溝渕さんに頼まれて最初から(溝渕氏の応援を)やりゆうき』と答えました。『個人的には恩返しをしますが、政治ごとでは協力できません。申し訳ありません』と」
溝渕氏も六選出馬の決意を固めていた。念書は視野の外に置かれた。念書を出したのは県連の正副会長を務める国会議員であり、溝渕氏本人も、支持派の県議会議員も与り知らぬ話である、と。知事選の年となった1975(昭和50)年3月11日、溝渕氏は県議会で六選に向けて出馬を表明する。翌4月の県議選を経た5月、溝渕氏は自民党に知事選の公認を申請。溝渕VS中内の戦いはヒートアップしていった。

高知市鷹匠町にある高知県知事公邸=Google Earthより
土建13社を公邸に集める
選挙に少なからぬ影響を与える大災害が起きたのは、そんなさなかだった。
1975(昭和50)年8月17日、高知県を襲った台風5号は仁淀川筋を中心に猛烈な雨を降らせた。時間雨量100ミリを超える雨が数時間続き、山間部を中心に各所で山崩れや土砂崩れが発生。死・不明者77人、被害総額は1398億円に達する大災害となった。高知市をはじめ県内19市町村に災害救助法が適用されている。現職知事として溝渕氏は災害対応に追われた。選挙どころではなかった。
この災害は革新陣営にも深刻な影響を及ぼした。革新統一候補として出馬が有力視されていた土佐市長の板原伝氏や、出馬が取りざたされていた高知市長の坂本昭氏が、いずれも災害対応で出馬どころではなくなってしまったのだ。
対する中内氏の武器は4年前の念書だった。支持する県議会議員の数は溝渕氏が多かったといわれるが(当時の高知新聞報道によると、溝渕氏支持16人、中内氏支持11人)、党中央は夏の時点で中内氏の公認を決めていたらしい。台風災害で発表は遅れ、自民党本部が中内氏公認を正式発表したのは選挙告示20日前の10月8日。翌9日午前に溝渕氏は自民党に離党届を提出し、無所属で戦う構えを見せた。
その少し前だと思われる。西岡さんは先輩の西内四郎県議に呼び出された。
「西内さんに呼ばれて、『なんですか?』と聞いたら『溝渕知事に資金はできたとゆうちゅうけんど、できてない』と。『どうしますか?』と聞いたら『これまではお前の親父が作ってくれよった。やっとうせや(やってくれ)』と。『どうやってやりよったろう』と聞くと、『業者を集めて集めよった』と」
選挙資金を作るのは西岡さんの父・寅太郎氏の役目だったらしい。ところが寅太郎氏は1971(昭和46)年に病没している。寅太郎氏が担っていた資金集めを西岡さんが押し付けられた。
「総務部長の大町行治氏に相談したら、『わしが県予算の話をするき、知事公邸の応接室へA級の土建屋を集めや。そこで頼んだらえい』と。それで土建業者13社を集めた」
県の総務部長が県予算の説明をする、聞きに来てくれと言って集めたわけだ。A級というのは高知県で最も大きな業者のクラス。ちなみに大町氏は県総務部長、出納長を経て高知市長選に2回立候補していずれも惜敗。その後、南国市長に2回当選している。
知事公邸に集まった13社に対し、西岡さんはこう言った。「溝渕は出馬する。1社あたり500万か1000万出してくれ」。集まった金額は5000万円だった。「それを西内さんに持って行った」と西岡さんは説明する。

知事選後、高知新聞が駆け引きの裏側を連載した「もう一つの知事選」より。これは10月27日午前4時に城西館で撮られた写真。中内氏(左)の頭の下げ方と溝渕氏(右)の疲れた表情が印象的=1975年11月29日付朝刊
「2000万円だけ返します」
6期目を目指す無所属の現職か、前回身を引いた自民党公認の新人か。保守系同士の激突が刻一刻と近づいていた。自民党としては保守同士の争いは避けたい。中内氏に公認を出した以上、溝渕氏に引いてもらうほかない。中曽根康弘幹事長の意を受けた幹事長代行の石田博英氏が自民党本部から数度来高、溝渕氏の説得にかかった。
1975(昭和50)年の知事選告示は10月29日。保守激突が回避されたのはわずか2日前の10月27日だった。舞台は高知市の老舗旅館、城西館。前日深夜から石田博英氏が溝渕氏を説得し、西岡さんら溝渕支持派の県議会議員も城西館に詰めた。最後まで出馬を主張した溝渕氏が折れた理由は「ドクターストップ」だった。
当時、溝渕氏は70歳。災害対応で疲労が蓄積していたのは事実だった。県立中央病院の主治医がドクターストップをかけ、溝渕氏もそれに従った。西岡さんが言う。
「中央から有名な政治家が来て、溝渕さんの病気引退が決まったわねえ。城西館で朝の3時まで話しよって、溝渕さんが『体の調子が悪いき引退する』と。その日のうちに西内四郎さんに会うて『あの金、あるろう』ゆうたら『農協で(選挙費用を)借りちょったき、それを返したぞ』と。2000万だけ残っちょった」
選挙資金として農協から3000万円を借り、それをすでに使っていた。だからその返済に3000万円を使った、という説明だった。
「(3000万円を)何に使うたがか分からん。仕方ないき、もう一回土建業者に集まってもろうて『金はこればあしかないけんど、お返しします』ゆうて謝って。そしたら『お前は親父とぜんぜん違うねや。詐欺やないかよ』と怒られて…」
高知新聞によると、10月27日の午前3時から城西館で記者会見が行われ、その場で溝渕氏の引退が発表された。中内氏と溝渕氏が握手する演出もあった。最後まで残った溝渕派の県議会議員は13人。その多くが不満と憤りをため込んでいた。27日未明、西岡さんは腹立ち紛れにある人物に電話する。西岡さんは全く意識しなかったが、そのことが高知県政の闇の一つへとつながっていく。(つづく)










-150x150.jpg)




