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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール㉔4年間よく働いた

土佐電気鉄道(土電)は1991(平成3)年に『土佐電鉄八十八年史』を出している。なぜ百年史ではなく八十八年史なのか、を探ると発行人の個性が見えてくる。(依光隆明)

1991(平成3)年発行の『土佐電鉄八十八年史』

なぜ88年だったのか

『土佐電鉄八十八年史』の奥付には「発行人 大町利夫」と書かれている。1983(昭和58)年に高知県庁を辞して土電入りし、専務、副社長、社長を歴任した大町利夫氏だ。同じ1983年に土電の会長となった西岡寅八郎さん(91)は、八十八年史を「大町が作った」と話す。土電は1979(昭和54)年5月に『土佐電鉄75年の歩み』と名付けた「写真を主とした社史」(「あとがき」より)を出していた。八十八年史編集委員会ができたのは8年後の1987(昭和62)年夏。そのとき大町氏は代表取締役副社長だった。翌年6月に代表取締役社長となり、発行日の1991年1月も社長。

大町氏は土電の歴史に名を残したかったのかもしれない。企業の周年史は100周年と50周年が多く、次が10年刻み。その次に5年刻みがある。ただし「米寿」に引っ掛けた88周年や「喜寿」の77周年で作る企業もないわけではない。1987年ごろの土電は実質的に大町氏が采配を振るっていた。会長の西岡さんは非常勤で、代表取締役社長だった久米滋三氏は名ばかりの存在。経営の実権は代表取締役副社長の大町氏が握り、いつ社長に就いてもいい状態だった。土電の創業は1903(明治36)年で、100周年は2003年。大町氏が実権を握る時代に周年史を作るとすれば、100年は先過ぎる。最も適していたのが88周年史――という構図だったように見える。

88年史は大町氏の活躍ぶりを念入りに書いている。〈副社長(大町氏のこと)は県庁在任当時の手腕をかわれ、懇請されて久米社長の後任含みで専務として入社したが、就任早々から漫画電車の運行、とでんサウナ改装、東京モノレール乗車券の発売、当社バスと県交バスの回数券による共通乗車の実施、高知空港新ターミナルビルでの直営売店開設、レストラン(チャオ)の営業開始、電車と県交通バスとの回数券による共通乗車などを手がけ、さらに未払い退職金処理のため、稲荷町の女子寮用地の売却を取り決めるなど沈滞気味の社内に“活”を入れ再建への一歩を踏み出した〉〈副社長就任後は風鈴電車の運行、チンチン電車の復元、土電ハイヤーへの九人乗りジャンボ車の導入、カラオケ電車、おみくじ電車、ミュージック電車、トロッコ電車、ビアホール電車の運行など目新しい企画を矢つぎばやに打ち出しこれを実現した〉

1984年3月末での神戸製鋼高知工場閉鎖を報じる高知新聞記事。従業員数は84人とある=1983年11月10日付朝刊

基地移転という大仕事

大町氏を県から土電に迎えるとき、西岡さんは副知事の和食延夫氏に言われたことが脳裏に焼き付いている。「『大町の賞味期限は4年ぞ』と言われたんです。『4年ぞ』と。その通りでした。4年間は大町はほんとに働きましたよ。僕と一緒に徹夜したりして」。がむしゃらに働きながら次々と打ち出した妙手が漫画電車やカラオケ電車、ビアホール電車、高知県交通との共通回数券等々なのだろう。

大町氏が副社長に就いた1984(昭和59)年にはそれら以上の大仕事が待っていた。車両基地の移転だ。『土佐電鉄八十八年史』はこう書いている。

〈会社再建を果たすためには基地移転の実現が先決だとする大町副社長は、高知市桟橋通五丁目の神戸製鋼高知工場が五十八年三月末(注・59年3月末の間違いだと思われる)で閉鎖することが明らかになったことから、製鋼側とつながりの深い丸紅の開発事業本部長と連絡を取り、直接製鋼本社に出向き工場跡地の一部譲渡について、同社の考え方を打診、交渉に入った〉

そのあとも大町氏の活躍ぶりが続くが、西岡さんは八十八年史をやわらかく否定する。「(神戸製鋼からの土地買収を)やったのは和食さんでした」と。「和食さんは『港六社の土地は県が造った。出ていくのなら公共性のあるところへ譲っちゃってくれんか』と交渉しました。神戸製鋼本社の副社長が吉村さんといって高知出身で、和食さんの交渉相手は吉村さんでした」

港六社については後述する。公共性のあるところ、というのは暗に土電を指す。吉村というのは高知パレスホテルを経営していた吉村泰輔氏の兄、吉村聡一郎氏。副知事の和食氏は吉村聡一郎氏を通じて神戸製鋼所と交渉する。西岡さんが続ける。「和食さんと吉村さんの話し合いで、神戸製鋼は土電へ1万坪を譲ってくれました。『工業団地なので公共性のあるところに売ります』と」。譲ってもらったのが現在の本社兼車両基地、通称「桟橋車庫」だ。八十八年史はこう書いている。

〈製鋼所側は工場跡地五万二千九百二十五平方㍍(約一万六千坪)は一括売却の方針で、基地移転に必要な一万坪の譲渡を求める当社との交渉は難航した。しかし数度にわたる交渉で最終的には五千坪(約一万六千八百五十七平方㍍)を宇治電化学工業、四国電気工事、四国瓦斯(ガス)が先に分割分譲を受け、当社は後日一万一千二百六十二坪(約三万七千二百三十平方㍍)を譲り受けることで話し合いがまとまった〉

『土佐電鉄八十八年史』に載っている高知市桟橋通の空撮写真。写真下半分が移転完了後の土電本社と車両基地。右上には日本セメントの工場が見える。かつて一帯は工業地帯だった

電気があるので工場立地

土電の歴史とも関係が深いので、港六社と高知県の電力問題について少し寄り道をさせてもらおう。高知市の浦戸湾西岸には戦前から続く工業地帯があった。立地していたのは1896(明治29)年設立のセメント工場(小松セメント、土佐セメント、浅野セメント、日本セメントなどと名が変わり、最終的に太平洋セメント土佐工場となって2010年に工場閉鎖)を始め、1919(大正8年)設立の東洋電化工業(設立時は土佐電化工業)、1925(大正14)年設立の南海化学土佐工場(設立時の名は土佐硫曹)、1936(昭和11)年に神戸製鋼が設立した高知電気工業(のち神戸製鋼高知工場となり1984年閉鎖)、1937(昭和12)年設立の土佐電気製鋼所(1969年に東京製鐵高知工場となり1987年閉鎖)、1940(昭和15)年操業開始の宇治電化学工業――の6社。

特筆されるのは、「電気」がつく工場が多いこと。高知県は豊富な雨量とたくさんの河川、著しいその勾配によって水力発電が盛んだった。例えば土佐電気製鋼所は高知県知事の要請を受け、県営水力発電所の余剰電力を利用するべく県自ら3分の1を出資して設立された。県の誘いに応えたのは東京で吾嬬(あづま)製鋼所を経営していた安芸郡田野町出身の清岡栄之助(1881∼1938)で、3分の1を出資した上で経営に携わっている。寄り道が長くなるが、その経緯を吾嬬製鋼所の『五十年史』から引用したい。

清岡栄之助。田野町出身で高知市育ち。14歳で東京に出され、33歳で隅田川精鉄所(のち久保田鉄工所隅田川工場)、47歳で吾嬬製鋼所を設立した=吾嬬製鋼所の『五十年史』より

収益は県工業試験所へ

1937(昭和12)年、清岡栄之助は東京市(現東京都)に50万円(給与水準で計算すると現在の15億円ほど)を寄付して東京市立向島工業学校(現在の都立橘高校)を設立する。ちょうど同じころだった。吾嬬製鋼所『五十年史』はこう書いている。

〈これと前後して、持ち上がったのが、土佐電気製鋼所設立の構想である。14歳にして郷関を後にした清岡であったが、故郷を想う心は、年と共に募り、吾嬬製鋼所の成功を見る頃から、幾度も帰省するようになった〉〈高知県出身の成功者として、清岡は寄付を依頼されれば、応分の協力を続けてはいた。が、こんなことでは何の解決にもならない。つまり、高知県人が高知に定着して働けるような、抜本的な方策を講ずるべきで、それにはまず、事業を興すこと以外に方策はない。幸い高知は電力が豊富で、安価だから、これを生かす事業に着手すべきだ――清岡はこう決心すると、還暦になった場合にと、用意していた資金のうち工業学校建設に寄付した残りを、今度は郷里の産業開発に振り向けたのである〉

吾嬬製鋼所の『五十年史』によると、用意してあった資金は100万円。つまり向島工業学校設立に使った50万円と同額を土佐電気製鋼所に注ぎ込んだらしい。

〈土佐電気製鋼所は、一応県営事業として着手されたが、結局、その出資内訳は、県側、土佐セメント、清岡の三者が、それぞれ3分の1ずつ、という比率で発足し12年7月に設立された。なお、工場建設には、彼の秘蔵っ子といわれていた原勇一をあてた〉〈県から特別配電を受けて製鋼を行ない、一方その収益を、全部育英資金として県に寄付することで、話は成立した〉〈清岡は原が腰を落ちつけて仕事に打ち込めるようにと、小学校時代の親友で画家の下司凍月氏の令嬢と結婚させた〉〈収益金を寄付するという構想は、結局、県側が辞退したので、株を野村信託に預託し、配当にも手をつけずに積み立て、後に県立工業試験所が建設されるにあたって、それらすべてを寄付したのである〉

土佐電気製鋼所は鉄スクラップなどを電気炉で溶かして鋼塊にする電炉製鋼会社として成長、戦後に業界トップの東京製鐵が経営権を譲り受けている。ちなみに清岡栄之助の娘婿は高知市出身の元文部官僚、有光次郎(1903~1995)。終戦直後に文部事務次官を務め、戦後教育の礎をつくって退官、一時は吾嬬製鋼所の社長を務めていた。

港六社の背後に安価な電力があったように、高知には全国的にも特異な電力史がある。寄り道ついでにその辺りの話をもう少し続ける(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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