愛媛県大洲市肱川町山鳥坂。自然豊かなこの山あいにダム建設計画が降ってわいたのは半世紀以上も前のことだった。その効果には少なからぬ疑問符がつき、計画は幾度も水面下に没する。ところが…。反対する住民が「もう計画は消えた」と安堵するたび、なぜか計画は復活した。背景にあるのは国や県、松山市などのさまざまな思惑だった。(西原博之)
水不足解消の切り札だった
そもそも山鳥坂ダムの起源ともいえる「南予水資源開発計画」が発表されたのは1970年にさかのぼる。高知県西部の四万十川から分水し、計画中だった肱川本流の野村ダムに導水。八幡浜市などに農業用水として流したあと、利用後の水は河口堰を設けて松山市へ分水する。四万十川の水で愛媛県の都市部だけが利を得るような構図だった。高知県がこんな計画に同意するはずがなく、あっけなく頓挫する。
12年後の1982年、この計画の亡霊が突如としてよみがえる。
以前から水不足に悩まされてきた中予地方と県都松山市は、渇水が頻発する「石手川水系」に代わる新たな水源を模索していた。候補に挙げられたのは上浮穴郡面河村(現久万高原町)にある仁淀川水系面河ダムからの転用や、他の水系からの導水。白羽の矢が立ったのが肱川水系だった。肱川水系にダムをつくり、その水を松山まで導くという遠大な計画だ。ダム候補地は河辺川。「山鳥坂ダムと中予分水計画」である。
利水旗印に加戸氏がダム復活
ダム計画は地域を激流に飲み込んだ。発表当初に「ダム反対期成同盟」が組織され、多くの地元住民がこの計画に真っ向から反対した。95年には「肱川を守る連合会」がつくられ、住民が2万2千人、肱川漁協が1万6千人、計3万8千人のダム建設反対署名を集めた。ダム反対は地元住民の総意に近かった。そんなさなかの2000年8月、与党3党の公共事業見直しで山鳥坂ダムを含む233の公共事業が中止勧告を受ける。国にとっても県にとっても想定外の事態。有友さんを含め、多くの住民は「これでダムは消えた」と確信した。
ところが、利水を受ける県都周辺では火は消えていなかった。
松山市で中予分水存続の署名が始まり、署名が30万人に達する。それを受けた形で加戸守行知事(当時)が中止勧告の見直しを進めた。ダムが建設される地元と、利水を受ける都会。地方と都市という対立の構図の中で、加戸知事からはこんな驚きの発言まで飛び出した。「洪水が起きても国や県の怠慢と言わないでほしい」。地元住民に対する一種の脅しである。
加戸県政の姿勢はダム建設で一貫していた。いったん消えかかっていた計画は加戸県政の下で再び復活する。04年5月、計画は確定し、山鳥坂ダムはよみがえった。
分水事業が頓挫、突然「治水ダム」に
地元住民の声を抑える形で計画を進めた国県にとって、再び想定外の事態が発生する。松山市など中予で分水拒否反応が起きたのだ。分水が消えれば、ダムをつくる根拠はない。気配を察した国はダムの目的を「利水」から「治水」へ変更する姿勢を示し始めた。結局、当時の中村時広市長(現知事)は巨大な費用負担など理由に「与えられた期限、条件で中予が事業に乗るのは困難」として2000年11月に分水事業への参加を拒否。国は正式に分水の中止を決定した。この時点で利水ダムとしての山鳥坂は、その存在意義も建設の法的根拠もいったん失った。
逆転をかけて国交省が打ち出したのが治水ダムへの転換だ。利水主体から治水主体へ。たびたび水害に見舞われる肱川流域の治水のためとして、山鳥坂ダム建設、鹿野川ダム改造、そして堤防整備を盛り込んだ肱川水系河川整備計画を決めたのが2004年5月だった。
「後付け、でっち上げの理屈だ」
利水ダムが頓挫したから慌てて治水に目的変更するやり方に、反対住民はあきれ返った。大洲市菅田町の有友正本さんは「利水が主体だったダムを『治水のため』に変えた。国交省が主張する治水効果はすべて後付けだ」と憤る。極端にいえば「でっち上げの理屈」だと。
大洲市の洪水はこれまで、有友さんの居住する菅田町のほか、主に東大洲地区で発生してきた。2018年の水害でも、膨大な浸水市街地の映像がマスコミを通じて流された地域だ。イメージは「肱川の氾濫」。しかし、東大洲については「肱川に起因する水害ではない」と有友さんは言う。東大洲の西部で矢落川が肱川に合流するのだが、直前で川幅は著しく狭まる。その狭隘部で越流が起きる、つまり矢落川が氾濫するのだ。有友さんの案内で現地に立った。「ここから越水したのです」という場所には、築かれたばかりの2メートル以上かさ上げされた堤防がある。見下ろすと、水害に見舞われてきた東大洲地区が一望できる。
そもそもこの一帯は、旧市街地に水が流入するのを防ぐ「氾濫原」的な役割を果たしてきた。近年になって、そこに人が住むようになった。洪水防止には合流地点の堤防かさ上げや矢落川の浚渫こそが必要であり、それは地元の人々に広く認識されてきたことだ。やっと整備された堤防に立ち、有友さんは「これで東大洲の水害はなんとか防げる」とため息をついた。
東大洲を襲っているのは矢落川の氾濫だが、山鳥坂ダムが水量をカットするのは肱川本流であって矢落川ではない。有友さんは言う。「矢落川の氾濫を山鳥坂ダムで防げるわけがない」。では肱川本流の治水に山鳥坂ダムが寄与するかといえば、それにも疑問符がつく。
集水面積わずか5%
筆者は長年にわたり肱川を上流から下流までくまなく歩いてきた。水域全体を多様な観点から俯瞰して、ダムの存在意義を考えるのだ。
あらためて河辺川の水量を見てみる。繰り返しになるが、こんな場所にダムをつくって洪水が防止できるのだろうかとの疑問が沸く。それほど小規模な支流である。実際、山鳥坂ダムの集水面積(流域に降る雨を集める面積)は、肱川流域全体の5%に過ぎない。流域全体が1200平方㎞あるのに対し、河辺川はわずか60平方㎞である。そして前述の通り、主な水害の場所は、はるか下流の、しかも本流とは無関係の地域なのである。
計画全体を俯瞰してみて、水質汚染や洪水防止機能への疑問、利水から治水に鞍替えした強引な手法など、山鳥坂ダムには多くの疑問がある。最大の問題は、「アリバイづくり」としか思えない環境アセスメントの「歪曲」である。幾度となく環境調査をしたからこそ、自分の目で見ているからこそ、あえて「歪曲」と呼びたい。多様な生物個体群が、この工事で壊滅的な打撃を受けているのだ。次回は、多大な影響を受けてきた生物たちに焦点を当てる。