中山間

消防団員は「殉職」と刻まれない? 東日本大震災で犠牲、遺族の願い

15年前の東日本大震災では約200人の消防団員が殉職した。そのほぼ百パーセントが津波による犠牲者だった。警察官の30人、消防署員の27人に比べて圧倒的に多い。消防署員と違い、消防団員はほかに仕事を持ちながら活動している。普段は普通の一般人であり、半ばボランティアと言っても外れていない。しかし目の前に遭難しそうな人がいれば、危険を顧みずに助けるのは警察官や消防署員と同じ。半面、扱いがあいまいにされる側面もあるようだ。31歳で亡くなった仙台市の消防団員男性の両親は、胸のつかえを抱えたまま15年目のあの日を迎えようとしている。(寺島英弥)

政府広報オンラインより。地方の人口減に伴って消防団員は減少、近年は学生や女性にも参加を呼び掛けている

10㍍の津波がすべてを流した

和地克倫さん(享年31)。2011年3月11日の津波が迫る中、仙台市若林区荒浜の消防団員として避難が遅れた住民を最後の一人まで助けようとし、荒浜小学校の昇降口まで逃れて津波にのまれた。荒浜の海岸に立った犠牲者銘盤に名前は載るが、なぜか「殉職」の文字はない。「命を賭して地元に尽くした事実が忘れられてしまう」と両親は訴える。

沼海水浴場で知られた約800戸の荒浜地区はあの日、高さ10㍍とされる津波ですべて流され、190人が犠牲になった。残る住民全員が被災後に他地域へ移転、いまは仙台市の震災遺構となった旧荒浜小学校校舎が残るだけだ。

地元自治会による慰霊の場所は、震災後に造られた防潮堤の近くにあり、慰霊之塔や観音像などが立つ。津波犠牲者たちの名は黒御影石の銘盤に町内会別に刻まれ、2段目に和地克倫さんの名がある。「息子は近隣の人たちからかわいがられて育ちました。あの時、誰も見過ごすことができなかったのでしょう」。現地を取材したその朝、母理恵さん(69)は寒風の中、銘盤の息子の名を指でなぞりながら語った。若林消防団七郷分団荒浜部の団員として活動中の殉職だった。

荒浜にある慰霊の場所で、犠牲者銘盤に向き合う理恵さん=2025年12月、仙台市若林区荒浜

「身内を助けて」と請われ

理恵さんによると、2011年3月11日午後2時46分の大地震の際、克倫さんは自宅から約10キロ離れた若林区蒲町を車で走っていた。荒浜の自宅には86歳の祖母が一人留守番をしている。大津波警報発令中の荒浜に急いで戻り、祖母と近所の年配女性を乗せて約800メートル離れた荒浜小に避難させた。その最中、七郷分団荒浜部の消防団上司から電話で呼び出しがあった。消防団詰所へ駆けつけたとき、集まっていたのは3人。うち一人は大学生の団員だった。上司の判断で大学生を避難させ、克倫さんは上司とポンプ車に乗って高齢者らを荒浜小へピストン搬送した。大多数を避難させたあと、住民から「海岸近くに残った身内を助けて」と訴えられる。急いで海岸近くへ戻り、最後の一人の救援をした。荒浜小までたどり着いたものの、昇降口まで来たところで津波にのまれた。上司だけが間一髪で難を逃れることができた。

総務省消防庁のサイトより。消防団員は「非常勤特別職の地方公務員」と書かれている

事情を聞かせてもらえない

理恵さんと夫の貞男さん(75)が克倫さんの行方不明を知ったのは、祖母が自衛隊ヘリで荒浜小から助け出され、避難所で再会したときだった。荒浜小に送り届けてくれた際、「(消防団の)仕事に行く。心配しないで、みんなの所に行って」と励ましてくれたのが克倫さんの最後の言葉だった。理恵さんらは避難所で住民から、さらに若林区消防署の関係者から、克倫さんがポンプ車で必死に住民を避難させていた事実を聞いた。助かった上司からも詳しい事情を聴こうとしたが、断られた。消防団の活動現場など何度か会った機会に声を掛けたが、直に話をしてもらうことは現在までかなわないままだという。

家族と避難所で暮らしながら、理恵さんは夫と二人で荒浜に通った。毎日、泣きながら克倫さんを捜して歩いた。2011年4月7日、若林区消防署長から電話が入った。荒浜小から1.5キロほど内陸にある農家の瓦礫の中から遺体が見つかった、と。普段着とくつを身に着けた姿を貞男さんが現場で確かめた。理恵さんが対面したのは遺体安置所=宮城県利府町の県総合運動公園(グランディ21)体育館 =に運ばれて、水で清められた後だった。背丈が180センチと大きく、それに合う棺が届くまで何時間もそこで一緒にいた。

「冷たい床で、克倫は眠っているようでした。右のこめかみにざっくり切れた傷があったけれど、きれいな体で、穏やかな顔をしていた。夫に『何日か生きていたのかしら』と尋ねたら、『あっという瞬間に亡くなって、つらい思いはしなかったはずだ』と言ってくれました。それが覚えている記憶の全部で、あとはずっと泣いていたのだと思います」

慰霊の場所近くにある「荒浜記憶の鐘」の傍らに立つ理恵さん。克倫さんは、ここで最後の住民救出をした。右後方に荒浜小が見える=2025年12月、仙台市若林区荒浜

「ここは前向きな話をする所」

克倫さんの遺体は山形県南陽市に運ばれ火葬された。出発前の枕経に荒浜の消防団員たちが立ち会ってくれたが、上司は姿を見せなかった。5月1日に葬儀を行った後、夫妻は仮住まいのマンションで、遺骨を二人の布団の間に置いて寝起きし、三度の食事も共にして暮らした。理恵さんは、津波でわが子を亡くした親たちが毎月集う「つむぎの会」(仙台市)、「灯りの会」(岩沼市)に出合い、息子への思いを語り、心を支え合う仲間を得た。が、心が晴れないままなのは荒浜自治会が2013年3月に設けた慰霊の場でのことが引っ掛かっているからだ。地元の犠牲者銘盤に克倫さんの名前は住民の一人として刻まれていた。が、「殉職」の文字はなかった。

県と仙台市の消防署員、消防団員の合同慰霊祭の祭壇には克倫さんの写真も飾られていた。和地さん夫婦は当時の奥山恵美子仙台市長からお悔やみの挨拶も受けた。国の旭日単光章をいただいたし、県と同市、消防庁長官からも「切迫した状況の中、身の危険を顧みず職務を遂行した」功労の顕彰状を贈られた。それらは被災現場で見つかった形見のヘルメットとともに自宅に飾っている。

二人は「息子の行いは公に認めていただいた。地元でも、何人もの住民を助けた事実を記録し伝えてほしい」と、歴代の自治会長らに「『殉職』と銘盤に刻んで」と訴えてきた。犠牲者銘盤には、職務中に津波で亡くなった仙台南警察署員、仙台市若林区職員二人は「殉職」と刻まれている。なぜ消防団員だけが「殉職」と刻まれないのか。訴えるたび、理由を示されないまま難色を示され、「何度も打ちのめされてきた」と振り返る。理恵さんは市の震災遺構になった荒浜小学校にも「息子の殉職の話を語らせてほしい」と希望を伝えたが、「ここは前向きな話をする所です」との反応だった。

克倫さんの二十歳の記念に、理恵さんと並んで撮った写真。自宅を津波で失い、大切な形見になった

犠牲者の名を等しく刻んでほしい

2025年11月26日、理恵さんは慰霊の場所の土地を貸与した仙台市に「遺族の希望を叶えてほしい」と要望書を提出した。その中に盛り込んだのは、「市は等しく慰霊をしてほしい」という内容。仙台市民以外の犠牲者は慰霊碑に名前を刻まれていないケースがあるからだ。理恵さんに付き添った「つむぎの会」世話人の田中幸子さん(76)は「他市町の人で、遭難した地の慰霊碑に名前を加えてもらえないと訴える遺族が現実にいます。犠牲になったすべての人の名前を刻む慰霊碑が仙台市にはない。震災から15年を契機にぜひ設けて、遺族たちの悲しみを少しでも癒してほしい」と訴えている。

2025年(令和7年)4月1日時点の全国の消防団員数は73万2223人で、うち女性が2万9478人。同時点の高知県データは、消防団員数が7190人、うち女性が1081人。消防団員数を人口1万人当たりで見ると全国が59.15人(女性は2.38人)、高知県が110.90人(女性16.67人)。

(C)News Kochi(ニュース高知)

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