寒風の中、2026年の漁が始まった浜は活気に満ちていた。筆者の古里、福島県相馬市の尾浜にある相馬双葉漁協本所前の岸壁。地元の小型船が沿岸の漁から続々と戻り、接岸するたびに人だかりができた。(寺島英弥)

丸々としたトラフグの水揚げを見る池田さん(左端)=2026年1月8日、相馬市の相馬漁港・荷さばき場前
「なんだべ、どうしてたの」
漁師が船腹の魚庫から網ですくい上げたのは丸々としたトラフグだ。「3キロ以上はあるよ」。岸壁では、多彩な作業着姿の浜のかあちゃんたちが声を上げ、漁果の樽を荷さばき場に運ぶ。漁協の元総務部長で筆者の同級生、池田精一さん(69)は久しぶりにこの岸壁にやってきた。にぎわいを眺めていると、「なんだべ、どうしてたの」と次々声を掛けられた。
の池田さんら。沖には白い山脈のように津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)-1.jpg)
津波第一波の後、陸側から撮られた相馬双葉漁協。屋上(中央奥)に池田さんらが立っている。建物の向こうから白い山脈のような津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)
津波が建物をのみ込んだ
池田さんはあの日、相馬の漁港を襲った東日本大震災の津波(気象庁発表は波高9.3㍍以上)の生存者だ。2011(平成23)年3月11日午後2時46分の大地震の後、「気になって見に来た岸壁前の海の水が底近くまで引いていた。これは津波が来ると感じた」。漁協関係者らは車で避難し、池田さんは残っていた同僚二人と漁協の屋上(高さ13㍍)に上った。1時間ほど後、白と青の壁が立ったような津波の第一波が漁協の建物に激突、盛り上がった先端が池田さんらをのみ込んだ。必死で天端(最上部)にしがみついて無事だった。間もなく第二波が来たが、引き波とぶつかり崩れた。沖には既に巨大な壁のような第三波が立っていた。
逃げるしかないと覚悟し、漁協を離れた。「爆弾が破壊した戦場のような世界に飛び込み、海水の深さを足で探って進んだ」。陥没した道路の穴に落ちて必死に這い上がり、漁網に足を絡め取られてもがき、第三波の恐怖に追われて、半死半生で高台の旅館にたどり着いた。停電で暖房は切れ、避難した住民らと配られた毛布にくるまり、ひざの深さの湯の風呂で体を温めた。夜はヒーターを入れた同僚の車で眠ることができた。「そうでなければ寒さで死んでいた」

津波から生還した相馬の漁船群。船は健在だったが、原発事故のため岸壁に留め置かれた=2011年4月7日、相馬市
大波の山を越え続ける
同じ頃、沖合の海上でも生への闘いは繰り広げられた。大津波警報が出ると、相馬の漁師たちは船に飛び乗り、80隻余りで沖に向かった。係留したままでは津波に巻き込まれるからだ。当時取材した菊地良治さんという40代の漁師は、4キロ沖で津波をやり過ごそうと待った。が、「来たのは7、8メートルの三角のとがった山みたいな、壁みたいな波で、のみ込まれそうだった」。漁師たちが瞬時に決意したのは真っ正面から乗り越えること。
「大津波に向かって船を走らせたが、全速でははね飛ばされちまう。波の一番てっぺんで減速して、うまく乗り切らなきゃならない。命懸けだった」。山登りのように第一波の壁を乗り越えると、すぐに第二波が見えた。「覚悟を決めて、それを越えたと思ったら、また次の壁がやってきた」「全部で6つか7つ、越えたろうか。気がついたら15キロ沖にいた」
宮城県以北では9割方の漁船が津波にのまれたが、相馬の漁師たちは命懸けで船を守り抜いた。が、再びエンジン音を響かせることもなく、被災し丸裸の港に留め置かれた。帰るべき家々も流され、多くの家族が被災者になった。「それでも、おれたちは陸に流された漁具を回収して、すぐ船で海に出られるものだ、と準備をしていた。そうしたら漁は自粛になった」と、地元の小型船主会長だった今野智光さん=当時(54)=は無念がった。相馬市から南に45キロ離れた東京電力福島第一原発が、津波による全電源喪失で未曽有の大事故を起こし、原発構内の汚染水も漁場の海に放出された。その後も流出事故は続いた。
今野さんらはコウナゴ、シラス、タコなどの試験操業を始め、水産試験場と組み、安全性の検査を重ねた。美味なカレイやヒラメなどで全国に知られる「相馬の魚」の漁獲対象を10年掛けて原発事故前の状態に回復させた(福島県漁連全体で200余種)。

操業自粛中も「漁師の本分を尽くす」と仮設納屋で網を編んだ今野智光さん=2014年3月10日、相馬市尾浜
震災後の後継者が100人
あの日の後、目にした古里の浜の惨状に、筆者は言葉を失って立ち尽くし、原発事故の明日をも知れぬ行方に古里喪失さえ危惧した。だが、津波から生還した池田さんはそれから5年、全国で屈指の規模を誇る漁港や荷さばき場、漁協施設の再建に責任者として取り組んだ。相馬双葉漁協では800人の漁師のうち、震災後に新たに漁船に乗った後継者が約100人もいる。組合長を務める今野さんの息子さんもその一人だ。津波に立ち向かい、原発事故と風評にも諦めず、漁獲ゼロからの試験操業も貫徹したのは「新しい漁場の開拓心も、困難な状況に立ち向かう冒険心も強く、漁の技術は日本一」の自負だった。
再びの試練が浜に訪れたのは2023年夏。福島第一原発の膨大な廃水を海に放出するという政府方針をめぐり、新たな風評が立つ懸念が広まった。渦中で今野さんは当時の通商産業相に直談判し、「頭越しではだめだ」と現場の漁師の声を伝えた。そして社会にこう訴えた。「原発事故から立ち上がって漁を再開した後、漁業者たちは福島の魚を知ってもらうイベントで各地を訪ね、消費者とつながってきた。最後は、この12年の間に培ってきた人と人のつながりだ。私たちを信じてほしい」

相馬市は「ふくトラ」をPR中=相馬市のホームページより
天然トラフグが新名物に
浜では今、温暖化で新顔のトラフグが国内有数の漁獲を占めるようになった。はえ縄漁で釣った35㌢以上の天然トラフグを「福とら」と命名し、名産フグ料理として人気を集めている。相馬の漁師は「宝の海」を守って、守られている。(つづく)









の池田さんら。沖には白い山脈のように津波が迫る=2011年3月11日(提供写真)-1-150x150.jpg)






