教育

ひと。ハンセン病から福島を語る木村真三さん

職を投げうって現場に走る

放射線衛生学者の木村真三さんが12月8日に松山市で講演した。

ひとことで言えば、熱血漢。東日本大震災に伴う福島第一原発の事故が起きた2011年3月、職を辞して福島で放射能測定に駆け回った。高知県境にほど近い愛媛県広見町(現鬼北町)に生まれ、北大大学院を経て放射線衛生学者に。しかし研究職は不安定で、一時は塗装工をしながら研究を続けていた。厚生労働省傘下の労働衛生総合研究所(神奈川県川崎市)でやっと正規職員となったのだが…。目の前で起きた原発事故に知らんぷりはできなかった。動きを止めようとする上司の机に辞表を置き、原発近くを自由自在に駆け回った。

またペンキ工に戻るのかな、と考えていたら幾つか誘いがきた。大学教授のポストもあったが、選んだのは福島県内で研究を続けられる仕事だった。獨協医科大学国際疫学研究室福島分室室長(准教授)。福島県二本松市に拠点を置き、福島にこだわって研究を続けている。やがて何度も「教授になってくれ」と求められた。が、「教授になったら会議など研究以外の用事で忙しくなる」と断り続けている。

木村真三さん(2023年12月8日、松山市)

「無らい運動」という国家施策

松山市で木村さんは「ハンセン病患者強制収容の歴史観」と題して講演した。放射能の専門家だった木村さんがハンセン病のことを語り始めたのは昨年の秋からだった。きっかけは大叔父に関する記録の発見である。祖父の兄に当たる木村仙太郎は長宗我部侵略前からの郷士だった名家、木村家の当主。ところが23歳のとき、ハンセン病(旧名はらい病)に罹患する。明治末期のことである。当時、らい病は不治の病だった。仙太郎は妻に離縁され、家の離れでずっと暮らしていた。顔を見せることなくひっそり暮らしていた仙太郎が国の政策にもまれるのは30年後だった。

映像を交えて木村さんが伝えたのは、世界の一流国になっていく日本と、ハンセン病患者との関係だった。当時の日本社会にはハンセン病患者があちこちにいた。ハンセン病の特徴は、指の欠損や顔面の変異など外見に異常が生じることだ。そのため昔は著しい差別を受け、それでも社会の中で細々と生をつないでいた。一流国に手が届くところに来たとき、国はハンセン病患者を社会から遠ざける政策をとる。やがて出されたのが「無らい県運動」だった。感染力は極めて低いが、ハンセン病は伝染する。専門の隔離施設に患者を入れよう、県内に患者はいないようにしよう、と。あたかもそれが素晴らしいことのようにアピールし、ハンセン病患者を探し出しては施設に入れた。

 

療養所に入ったがゆえに死んだ

仙太郎もその対象となった。昭和14年、53歳で岡山県の離島にある国立長島愛生園に入所。すぐに重症者の病棟に入れられ、2年後に死去した。肺結核だった。事情が分かったのは、同園に解剖記録があったからだ。6年ほど前から仙太郎のことを調べ始めた木村さんは、同園に開示請求をしてその記録を見る。さらに同園入所者から当時の模様を聞き取りし、なぜわずか2年で亡くなったかを推測していった。

時代は太平洋戦争前夜だった。仙太郎が入所したころ、長島愛生園に桟橋ができた。それによって入所者はどんどん増えた。ところが戦争前夜にハンセン病療養所へ回す予算を手厚くできるわけはない。食料不足を補うため、入所者は畑を耕して半ば自活していた。働ける者には昼間に握り飯一個が支給されたが、働けないものは重湯だけ。それも、透き通っているほど薄い重湯だった。木村さんは食料事情が仙太郎の死の背景にあったと推断した。「栄養失調からくる肺結核の進行です。栄養失調によって肺結核が進んで命を落としてしまった。療養所に入れられたがゆえに短命に終わってしまった」

木村家当主として生まれたものの、若くして罹患し、妻に離縁され、30年間家の中で暮らし、療養所に入れられて死ぬ。無念だったであろう仙太郎の不幸を思いながら、木村さんは家族の不幸も思った。木村さんの亡き父は、仙太郎の弟だった父を早く亡くし、祖母の実家に引き取られた。家が貧しかったために進学を果たせず、軍に入って身を立てようとする。結婚する人を決め、仮祝言まで至ったときに相手の父が鉈を手に乗り込んできた。「らい病の家に娘をやれるか!」。侮蔑の言葉を浴び、そのまま破談。

 

プロジェクターの画面にあるのが仙太郎さん。手の指がない。長島愛生園で発見したこの写真を公開するかどうか、木村さんは「悩んだ」と明かす(松山市)

 

子どもを産んでもいいですか?

「ハンセン病によって父の運命は変わりました。そのことを父はずっと胸にしまって生きてきた」と木村さんは言う。「けがをして復員していたので、父は長く記憶が喪失したふりをしていました。だから大叔父のことも一切話さなかった。妻にも全く話していなかった。でも本当は記憶はありました。自分の身内がハンセン病だったことが、父にとってはものすごい重荷だったのだと思います」

父の痛みを感じたとき、木村さんが思いを寄せたのは原発事故に遭った福島の人たちのことだった。「二本松市の中学生にアンケートをしたら、『子どもを産んでもいいですか?』『結婚してもいいですか?』と書いてくるんです。みんな痛みを持っている」と木村さん。「若い女性には『福島以外の人と結婚してもいいですか』と言われました」とも。感じるのは異質なものを排除・差別する病理と、差別される側の底深い痛みだ。排除や差別をしないため、「まず知ることが大切だ」と木村さんは言う。正確な知識さえあれば排除や差別を防ぐことができる、と。だからこそ福島にこだわり、福島の中で活動を続けている。

北宇和高校を卒業後、1年間は高知市で下宿しながら土佐塾予備校に通った。そのときの同級生の一人が東大を経て財務官僚から高知県知事となり、現在は高知県選出の衆議院議員を務める尾崎正直さん。木村さんは東京理科大の山口短大から九州工大に進学し、大学院は北陸先端科学技術大学院大学と北大で学んだ。研究者になったあと、一貫して続けているのがチェルノブイリ調査。被爆調査のためのウクライナ入りは十数回に達し、ロシア語とウクライナ語は片言で話せるほどになった。通い続ける土地だけに、ウクライナとロシアの戦争には心を痛めている。

福島の痛み、ハンセン病の痛みを語る木村真三さん(松山市)

 

来年、二本松から拠点を浪江町の下津島に移す構想を進めている。

2011年3月15日朝、福島第一原発2号機の爆発で、高濃度の放射能が雲になって北西方向に流れた。下津島周辺からさらに北西の飯舘村長泥まで雲が達したとき、雪になって地上に降り注いだ。原発から30キロ離れているにもかかわらず、地上は放射能で分厚く汚染された。原発事故から12年が過ぎ、一帯に生活が戻り始めている。そこに拠点を移し、福島の一人として調査を続ける。(依光隆明)

 

(C)News Kochi(ニュース高知)

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