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高知裏面史 西岡寅八郎メモワール㉒西岡+大町、中山

すでに見たように、西岡寅八郎さん(91)が土佐電気鉄道(土電)とかかわりを持つ発端は1978(昭和53)年の非公式な会合だった。合意事項に沿い、翌年に土電の非常勤取締役、1983(昭和58)年には代表取締役会長に就く。(依光隆明)

西岡寅八郎さんが会長に選ばれた年の株主総会を高知新聞が特集記事にしていた。見出しは「3時間のドキュメント」。直後の取締役会で西岡さんは代表取締役会長に選ばれる=1983年7月2日付朝刊

鏡川橋から現金を落とす

まずはおさらいを。1978年といえば西岡さんは県議会議員になって2期目の43歳。若手と言っていい。会合に呼ばれた西岡さんは、居並ぶメンバーに驚いた。県から中内力知事、和食延夫教育長。四国銀行から吉村真一頭取、久保忠武副頭取、浜田耕一専務、滝本浩専務。県総評から国沢秀雄議長、土電労組から香西誠一委員長。高知新聞の福田義郎社長。全員が西岡さんを向いてこう頼んだ。「土電をやってくれ。会長になって株主の頂点でおってくれ」と。土電の株主は2300人もいて、その中には暴力団絡みや本物の暴力団員もいた。ややこしい株主の防波堤になる人間が必要だ、という意味だったと思われる。嫌がる西岡さんを、まるで羽交い絞めにするようにして了承させる。社長と専務は県と四国銀行から出す、ということだった。合意に従い、西岡さんは1979(昭和54)年6月の株主総会で非常勤取締役、1983(昭和58)年6月には代表取締役会長となった。

土電内部に入ると驚くべき風景が広がっていた。西岡さんが言う。「土電の中の常識は外の世界の非常識やった。県庁以上にみんな働かざった。運転手も働かん、車掌も働かん、上も働かん。みんなあ公共交通は潰れんと思うちゅう。働かんことは県庁の職員以上でした」。会長になったあとも非常勤だったが、西岡さんは頻繁に会社へ出向いた。常識を超えたことばかりだった。「社長(久米滋三氏)は社長で、朝来て社長室に入ったらトイレのとき以外は外へ出て来ん」とも。当時、電車もバスも運賃の多くは現金で受け取っていた(あとは定期券と回数券)。日々の現金収入はあったが、その扱いも常識を超えた。「金庫へ現金が入り切らんがですよ。多すぎて。入らんカネは段ボールへ詰めて部屋へ置いちょった」

金銭管理の粗雑さが原因となってのことだろう、犯罪行為も横行していた。「鏡川橋の上から売上金を落としよった車掌もおった。橋の下に仲間がおって拾うがですよ」。鏡川橋を走る電車から車掌が売上金を袋に入れて河原に落とす。仲間がそれを拾って山分けにしていたらしい。「(全日空の)株主優待券は社員が勝手に金券ショップに持って行きよった」。全日空(ANA)の前身、極東航空の株主だった関係で土電にはANAの株主優待券が大量に入る。それを社員がカネに換え、自分の懐に入れていた。少数の社員ではない。多数の社員がそれをやっていた。「僕が入るまでは暴力団にも流れよった。みんなあ適当なことをしよった」と話す。

高知市の中心街。今も電車軌道が延びている=堀詰電停附近

安うしろとは言えません

そんな土電を少しずつ変えていったのが1983年8月に四国銀行から迎え入れた中山隆氏だった。銀行マン時代から「型破り」と形容された熱血漢で、出向ではなくすぱっと銀行を退職して土電に飛び込んだ。銀行での最後の役職は人事部調査役。土電には社長室長で入って常務となったが、給料はガタッと減った。それでもやってやろうというくらい土電再建にかける意欲は高かった。「会社を中山が変えていった。正常にしていった」と西岡さんは振り返る。

大阪に土電の子会社があった。24台の観光バスを持つ会社だったが、赤字体質なので潰すことにした。中山氏が大阪に行ってその作業をしたのだが、戻ってきたとき中山氏は「土電は燃料をなんぼで買いよりゃあ」と言い始めた。バスの燃料代について克明に調べてきたらしい。西岡さんが言う。「経理課長の入交を呼んで、『なんぼで買いよりゃあ』と聞いて。『(1㍑当たり)10円高いやいか。なんでそんなに高う買いよりゃあ』と怒って。そしたら担当役員が来て『(地元石油販売店の)○○石油と○○石油から買いゆうけんど、自分は行ったことがない。値段も知らん』と。『燃料を10円安う買うたら毎年バスが1台買えやせんか』と言うたら、『石油ショックがまた起こったときに売ってくれんかったらいかんき、(値段を安くしてくれとは)言えません』と。ぜんぜん動こうとせんがよ」。動かなくていい理由を見つけて動かない。仕事をしない。「燃料代は現金で払いゆうがよ。現金できっちり払いながら、安うしてもらうような交渉は一切せん。動かん。それが土電の体質やった」。役員から平社員まで、仕事をする雰囲気がぽんと欠落した会社を、中山氏が先頭に立って少しずつ変えていった。

大町利夫氏の社長就任を伝える高知新聞の記事=1989年6月27日付朝刊

乱世の大町、平時の小松

中山氏が土電に来るきっかけは、ある人物が中山氏を指名したからだ。その名は大町利夫(俊夫とも)。西岡さんは1983年6月29日の株主総会直後に行われた取締役会で代表取締役会長に選ばれている。その株主総会で大町氏は取締役に新任され、直後の取締役会で専務に就いた。55歳だった。翌年に代表取締役副社長、1989(平成元)年に社長となる。最も困難な時代、西岡さんと大町氏、中山氏がタッグを組んで土電の再建に当たった。

大町氏は西岡さんよりも7歳年長で、県のやり手幹部として知られた。土電へ派遣する候補に名が挙がったのは県病院局長を務めていたときだったと思われる。和食延夫氏が教育長から副知事となったのが1980(昭和55)年。その翌々年ごろ、西岡さんは和食氏から言われたことを覚えている。「『大町利夫と小松三良のどっちかを土電に出す。どっちを取るぜよ』と言われたんです。『乱世の大町、平時の小松じゃ』と」。西岡さんは久米滋三社長のところへ行ってその通りを伝える。久米氏の答えはこうだった。「潰れかけちゅう会社じゃ、大町を取ろう」

大町氏の説得には西岡さんが当たった。「大町はああ見えてビビりでねえ。土電ゆう会社を知らんでしょ、話をしたときに『まだ(退職まで)1年あるき」ゆうて嫌がるんです」。西岡さんはある大物に相談する。「竹崎を呼んで相談したんです。『タケさんおまんどう思うぜ』と」。竹崎というのは県職員労組の専従で、自治労県委員長を長く務めた竹崎清彦氏。県の裏面を仕切る実力者の一人だった。竹崎氏が「大町もいろいろあるきねえ」と言って賛同し、2人で大町氏を呼んだ。西岡さんが振り返る。「竹崎と一緒に大町を説得しました。渋る大町を、竹崎が『退職金をもらえるうちに辞めや』と。『おまんもいろいろあるろうが。退職までおるより一年残して辞める方がえいわや』とゆうて」。いろいろある、というのは西岡さんにもよく分からない。「勤務時間中に競馬へよう行きよったですきねえ。酒も好きやったし」と話す。

熟考の末に大町氏は承知する。そのとき条件を出した。「大町が『ほいたら中山隆を連れてきてくれ』ゆうたがです」と西岡さん。大町利夫氏と中山隆氏は土佐鰹漁協が経営危機に陥ったとき、ペアを組んで再建に辣腕を振るった。中山氏の仕事ぶりにほれ込んでいたのだろう、大町氏は土電でもペアを組むことを望む。ちなみに土佐鰹漁協は近海カツオ一本釣り漁船を束ねる組織で、本拠を静岡県の伊豆半島に置いていた。大町、中山コンビが活躍したのは1960年代だと思われる。県庁と四国銀行がタッグを組んで水揚げ代金の一元化(全国どこの港に水揚げしても四国銀行の口座に入る)と建造資金の融資システム(農林漁業金融公庫以外の自己負担分を四国銀行が融資)を構築。第一次、第二次の石油ショックを乗り切った。ちなみにその後、土佐一本釣りカツオ船団は巻き網船団が獲る冷凍ガツオの影響で深刻な魚価安に直面。資金力の乏しい経営体から倒産が始まり、土佐鰹漁協も1997(平成9)年に解散した。

大町氏が県庁内でひときわ存在感を発揮したのは1972(昭和47)年、「補佐監」に抜擢されたときだった。字は少し違うが、要するに知事の補佐官。この職は溝渕増巳知事が作り、溝渕知事の退任とともに消えた。溝渕氏と補佐監、そして大町氏の関係には当時の高知新聞が微妙にかかわっている。(つづく)

(C)News Kochi(ニュース高知)

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