生物を通してみると、環境に対する人間の営為がよく見える。四国の山中に分け入って昆虫を軸にした生物調査を重ねながら、街に住む人には届いてないであろう環境の変化を目にしてきた。山深い現地で見た四国の自然を連載の形でリポートする。(西原博之)
肥沃な土壌が消え、表土が流れる
愛媛県東温市松瀬川。県都松山から車で30分ほどの山間にある小さな集落だ。稔山(みのりやま・標高916メートル)を源流域とする本谷川は、松瀬川の集落を貫いたあと松山平野に至って一級河川・重信川に合流する。源流域と山塊には貴重な昆虫類が生息するため、筆者は長年にわたって調査に通い続けた。ところが近年、環境の変化が著しい。変化を目にするたび、しばし足を止め、ため息をつく。
先日、定点調査のために本谷川を遡上した。川に沿うように県道327号が走り、松瀬川地区を経由して上流へとさかのぼる。県道は橋をいくつも渡りながら右岸へ、左岸へと景色を変える。かつては美しい河原があちこちに広がった山麓だ。いまは見かけることがほとんどなくなったカワラバッタ(愛媛県レッドリストの絶滅危惧種となっている昆虫)も多産した。10数年前まで山を彩った美しい渓流の風景は、いまや見る影もない。
変化の原因は何か。まず挙げられるのはスギ、ヒノキの人工林問題だ。
山道をそれて谷筋を歩き、渡渉しながら沢を詰める。源流域に向かい、越冬している昆虫類を調べる。そうやって山奥でひっそりと生態系を支えている小さな命を定点観測する。観測の対象は、オサムシ、ゴミムシ、シデムシなどあまり人に知られていない昆虫たちだ。彼らはミミズや甲虫の幼虫を餌にしている。ミミズが生息するには肥沃な土壌がなければいけない。特にオサムシ類はミミズ食に特化しているので、肥沃な土壌が生存の前提となっている。その土壌が近年、危うい。戦後の拡大造林政策で人工林が山一面を覆った直後、木材価格の暴落で手入れされずに放置されるようになった。枝打ち、下刈り、間伐がなかったら日光が地面まで届かない。植物は育たず、木の根は大きくならず、土の栄養分は衰える。生物の多様性が失われ、肥沃さを失った表土はちょっとした雨で流される。
山奥の小規模河川に10数か所
人工林問題と並ぶ山地荒廃の主役は砂防ダムである。人工林問題は今後何回かにわたって触れることにして、今回は砂防ダムに焦点を当てる。
山域の各地で砂防ダムは頻繁に目にする。巨大なコンクリートの塊が沢を分断するさまは異様ですらある。しかしその実像を知る人は少ない。ほとんどが山道をそれた流域にあるので、一般の人の目にはなかなか触れないのだ。
砂防ダムは土石流危険渓流などに建設される。猛烈な速度で土石流が渓流を流れ下ったときにそれを止め、下流の土砂災害を防ぐのが目的だ。ここ本谷川でも、集落の外れから源流まで、本流だけで6カ所の砂防ダムを数えることができた。わずか3キロほどの間に、である。支流でも5カ所以上が確認できた。「小川」と形容してもいいほどの小規模河川の、わずか数キロの間に10数か所の砂防ダムが建設されていた。
堰堤に座って考え込んだ。砂防ダムの多くは人気のない山奥にある。もちろん災害防止に役立つ砂防ダムもあるだろうが、そうは見えない砂防ダムも多いのだ。ここ松瀬川地区でも、集落ははるか下方である。松瀬川だけではない。県内や高知など四国の山々に足を運ぶたびに、こんな沢に必要かと首をかしげる砂防ダムをたくさん見てきた。古いダムになると既に土砂がいっぱいだ。本谷川にある「昭和28年」のプレートがあるダムは、堰堤を越えて土砂が あふれていた。「昭和61年」のダムも土砂で満杯状態だ。土 砂崩れの防止には、あまり役立たないコンクリート塊となっている。四国には機能しなくなった砂防ダムが数えきれないほどある。
土砂の流出が肥沃な土地と豊かな海岸線を作る
長い歴史を振り返ると、当たり前のように山で土砂崩れは起きてきた。自然の摂理なのだ。山はいずれ崩れるし、土砂は流出して肥沃な土地を形成し、長い時間をかけて扇状地をつくり出す。自然は常に変化しているし、それは地史として日本の自然史に刻まれている。むしろ土砂の定量的な流出が止まると、流域環境自体が不安定になる。海への砂の供給もストップする。海砂の減少は現実に起きており、海岸線の変化も著しい。
もちろん下流に人の生活があれば土砂崩れは災害となるし、それを防止した砂防ダムもあるだろう。しかし半面、砂防ダムが引き起こす負の側面も現実として存在する。松瀬川の河川敷荒廃は、まさにこの砂防ダムの影響である。せき止められた土砂が美しかった河川敷に堆積し、巨大な石がごろごろと河原を覆う。前述のカワラバッタは、安定して維持された草の少ない河原に生息している。砂防ダムのために下流の河原が痩せれば、個体数は減少するのだ。県レッドデータブックでも、減少の原因としてダムの存在を挙げている。
愛媛県内に2000基。投じた予算は2500億?
現場に足を運び、あらためてそれを実感した。砂防ダムはいわゆる「公共工事」の典型かもしれない。愛媛県土木部のあるOBは、「実は災害防止にも予防にも砂防ダムはほとんど役には立たない。意味がない」と話す。意味があるのは工事の内容より工事そのもの。業者に工事を与えるための工事に近い、ということだ。災害防止という役割は小さく、自然の現状を大きく変化させるだけの構造物だということを、おそらく発注者側も認識している。
愛媛県土木部砂防課によると、県管轄の砂防ダムは約1900基。想像以上に多くのダムが県内の山塊に存在することに驚く。1基当たりの事業費は最低でも1億円以上なので、2000億円以上の金額が投じられていることになる。一級河川にあるのは国直轄の砂防ダムだが、国土交通省四国山地砂防事務所によると、愛媛県内の国直轄砂防ダムは98基。こちらの事業費は平均して1基あたり4億2千万円に上る。98基で412億円。
過去3年間のデータを見ると、平均で年6基の砂防ダムが建設されてきた。満杯になった砂防ダムから土砂を取り除く工事ついては、国交省は「近年の実績はない」と明かす。本谷川に見るように、満杯になって機能が大きく失われた砂防ダムは四国の各地に存在するはずだ。
底生生物の多くはダムを越えられず、生活史を全うできない
清流にはカワゲラやトビケラなどの幼虫である底生生物や、前述の地上徘徊性のオサムシ類、地中性のゴミムシなどが生息する。渓流やその周辺の森林を生息地とし、生態系の底辺を支える小さな生物群である。カワゲラたちの幼虫は渓流を徐々に下り、下流で脱皮して成虫になる。成虫は再び上流へと飛翔し、そこで産卵する。成虫が渓流を登って、幼虫が下って羽化するというサイクルで生活史が成り立っているのだ。ダムはかれらの生息地を分断する。もちろん、川魚の遡上も阻害する。
故人になったが、底生生物(ベントス=カワゲラやトビケラなの幼虫や貝類など水底で生活する生物)の研究者・松山淡水ベントス研究所の桑田一男所長はかつて「ベントスの多くはダムを越えられず、生活史を全うできない」と指摘した。沢を棲みかとする水生生物や小さな昆虫の減少は、地域生態系全体の危機だといえる。地域生態系の破壊は広範囲な生態系の破壊へつながり、さらに全国へと広がる可能性が高い。
多くの砂防ダムは、予算規模が小さいために環境アセスメントは必要ない。しかし、アセスメントを実施すれば、とてつもなく悲劇的な結果が出るであろうとは想像できる。山を歩いて調査を続けてきたからこそ、そう断言できる。近年の昆虫類の減少は著しい。砂防ダムのある沢からは生物が消え、工事の生々しい跡が渓流を破壊し、著しく景観を変える。「沢の墓場」である。
これからも砂防ダムの罪に目を向け、細やかではあるが、各地の地域生態系が崩壊に至るデータを記録し続けようと思う。山奥で繰り返される人間の「原罪」は、小さな生き物たちが見ている。