愛媛新聞を退職後、News Kochiで活躍中の昨年8月に64歳で急逝した西原(にしはら)博之さんを偲ぶ回顧展が1月16日から愛媛県西予市の宇和千哲記念館で開かれている。主催は東宇和自然史研究会。西原さんの記事を始め、採集した昆虫の標本や趣味のプラモデル、思い出の画像などさまざまな品が展示されている。26日まで。(依光隆明)
支局長を務めていた地で
西原さんは愛媛県北条市(現松山市)の出身。松山北高から九州大理学部生物学科に進み、昆虫を研究した。1985(昭和60)年に愛媛新聞入りし、今治支局を経て1997(平成9)年に東宇和(現西予)支局長となる。ここで出会ったのが地元の野村町(現西予市)で広報担当職員を務める2歳下の和氣岩男さんだった。和氣さんの同級生で野村ケーブルテレビに勤める山本和正さんを加えた昆虫好き3人で立ち上げたのが東宇和自然史研究会だ。
3人で昆虫採集ツアーに出かけ、定期的に酒を飲んだ。酒好きということもあり、西原さんは支局管内の人たちに愛され、頼りにもされた。2024年8月20日、西原さんが亡くなったと聞いたとき、和氣さんは信じられない思いだった。7月末に外出先で倒れていたものの、経過は上向きと聞いていたからだ。「倒れたときの後遺症は出ると聞いていたが、多少の麻痺は残ってもまた採集旅行に行けるやろうと思っていた」と話す。それだけに西原さんの急逝はショックだった。「これから虫のことを誰に相談したらいいやろうと思った。何かあれば西原さんに相談していたので」と明かす。
回顧展は和氣さんが発想した。「西原さんは東宇和支局に4年いて、いろんな記事を書かれていました。地元の人も西原さんのことをすごく大事にして」。突然の逝去だったため、「亡くなったことをまだ知らない人も多いんですよね」。西原さんを悼んでもらう意味も含め、西原さんが支局長を務めたこの地元で回顧展をやろう、と考えた。
「30年前の熱い心を持ったままでした」
和氣さんは、仲間や親しかった人たちに声をかけて回顧展を企画した。西原さんとの思い出を文章にして送ってくれる人も少なくなかった。80歳の元小学校校長はこんな言葉を書いてくれた。〈彼の存在感は格別のものです。社会は・庶民は・正義は・人情は…メディア人としての実績は一概に言いつくせません。月、火、水、木、金は記者。そして土、日、祭日には、生き物学者としてムシの生態系を保護する活動です。雨の日も風の日も自らの足で稼ぐ。彼の口癖「私には足しかありませんから」。365日無休の男、それが西原博之〉
東宇和支局長当時の西原さんと飲み歩いた男性は、昨年久しぶりに西原さんと会ったときのことを寄せてくれた。〈松山から宇和町までの車の中で熱く語る西原さんは30年前の熱い心を持ったままでした。人を愛し、自然を愛し、正義を愛して真っすぐに生きる。黄昏始めた私は、生きるとは何だろうかと考えるようになっていました。生きるとは。人は何時かは死んでいきます。命とはそういうものです。でも命は連鎖しながら繋がっていくものであるとも思います。意志の連鎖と云っていいかも知れません。意志は誰かに受け継がれて連綿として生きていきます。西原さんは、その意志を持って生きてきた人だと私は思います。そして、それを貫いた。私も、その志を少し戴いた一人です〉
寄せられたメッセージのほか、西原さんのスクラップブックや昆虫採集道具、趣味のプラモデルなども展示されている。圧巻なのは昆虫の標本だ。
新車のナンバーを「オサムシ」に
多種多様なチョウやカブトムシなど、「回顧展」では国内外の昆虫が標本となって並んでいる。中でもオサムシの標本は数えきれないくらい多い。和氣さんも「何点あるか、(数は)分かりません」と笑う。羽が退化したため、オサムシは移動が苦手だ。そのため地域変異に富み、谷ごとに違うとも言われている。西原さんはそこに魅せられ、愛媛や高知の山間部を渉猟してオサムシの採集を続けた。標本となった一匹一匹のオサムシに、西原さんの思いがこもっている。
「オサムシを採るときには200個のコップを森の中に仕掛けるんです」と和氣さんが説明する。コップを一つずつ土に埋め、中に酢を入れておく。その酢に引き寄せられてオサムシがコップに落ちる。はい上がれないので、コップを回収したときに採集できる。大切なのは仕掛けたコップを一個残らず回収すること。でないとオサムシが次々とコップに入って出られない。「そうなってしまうと環境破壊です。西原さんが『誰かがコップを残している』と怒っていたことがありました」。すべてのコップを回収するため、赤の水性マーカーで木に目印をつける。その目印とコップの位置関係は個人個人の秘密。「回収時期は2~3日後から1週間後。200個を仕掛けて、数日後にまた山に入らないといけないわけです」
本格的に山に入ろうと、西原さんは黄色の四輪駆動車「ジムニー」を注文していた。亡くなったのは、納車を楽しみに待っているとき。和氣さんが言う。「ナンバーをオサムシ(0364)にするって言うから、「一桁目のゼロは使えませんよ」と教えて。「『・364じゃオサムシって読めないなあ』と残念がっていました。
不存在証明のため島に通う
和氣さんは2024年3月で西予市役所を退職、現在は市観光物産協会の事務局長を務めている。市役所時代は西原さんの昆虫標本を使って小学校の授業もしていた。「西原さんから標本を20箱借りてて、それを使って授業をしていたんです」。西原さんが昆虫学会での発表を準備していたことも和氣さんは明かしてくれた。「オサムシがいないと思われていたある島でオサムシを発見したんです。それを論文にして。原稿はもうできていたんですが、日の目を見なくなりました」。その島に西原さんは何十回も通っていた。「そこにいるという証明は個体を見つければ済むんですが、『いないという証明には何年もかかるんだ』と言っていました。その島からオサムシが消えたと証明するために何十回も通っていてオサムシを発見、それを学術論文に仕上げていた。
剥製は持って来れず
東宇和支局長時代、西原さんは動物の剥製作りも手がけていた。噂を聞いていろんな人が動物の死骸を持ってきた。和氣さんが言う。「あるとき、郵便局の人に『これ、中身が鳥の死骸だと書いてあります。お仕事柄、嫌がらせもあるでしょうから受け取りを拒否されてもいいんですよ』と言われたそうです。『いえいえ、喜んで受け取ります』と答えたそうですが」。こんなこともあったらしい。「骨格標本をつくるために動物の死骸を支局の屋上に置いていたそうなんです。動物や虫が肉を食べて骨だけにしてくれますから。ところが家(支局)の中に屋上からウジ虫がたくさん降りてきて…。さすがに奥さんが『やめてくれ!』と頼んだそうです」
今回、展示した標本は昆虫が中心。「日本のオサムシ」「日本の昆虫」「日本の蝶」「世界の蝶」などと分けて展示した。「西原さんの実家に剥製もいっぱい置いてあるんですが、そこまでは持って来れませんでした。プラモデルも同じです。いっぱいあるんですよ」
「虫の姿になってお別れに」
展示写真の中に、出棺のときに撮影された奇跡の一枚がある。2024年8月24日午前11時、まさに出棺というときに、家族の足元にカミキリムシが舞い降りた。和氣さんは「ちょうど出棺で出ようとしたときにカミキリムシがバーッと飛んできて、(家族の)目の前に落ちたんです」と振り返る。瞬間、そこにいたみんなが「あ、西原だ」と思った。「西原が虫の姿になってお別れを言いに来た」と。
回顧展のタイトルは「元愛媛新聞社東宇和支局長 『西原博之』回顧展」。30年近く前の支局時代に知り合った人たちが手弁当で回顧展を開いてくれるなんて、新聞記者としてこれほどの幸せはないかもしれない。「このような催しは聞いたことがない」と言うと、和氣さんも「よくそう言われます」。回顧展が開かれるのは、地元の人たちにとってそれだけ西原さんの記者活動が印象深かったからだろう。ちらしにはこう書かれている。〈愛媛新聞社東宇和支局長として赴任した4年間で培った仲間が、西原氏の愛媛県の自然史に残した功績と軌跡、そしてもう一つの顔を展示することで、その生きざまを回顧する展示を行います〉
会場は西予市宇和町の宇和千哲記念館2階。女性やお年寄りが足を運び、一つ一つの展示品に目を凝らしている。主催は東宇和自然史研究会で、協力が西予市と西予市観光物産協会。1月26日まで。入館無料。