高校生が自分から教科書を開くって、ないんじゃないかな? この問題意識からスタートした教科書作りが行き着いたのは「漫才」だった。2025年度からの高校「公共」「政治・経済」にサンドウィッチマンが登場する。(依光隆明)

仕掛け人の一人、森本茂樹さん。朝日放送の名物お笑いプロデューサーだった
仕掛け人は灘高コンビ
仕掛け人は朝日放送(大阪)のプロデューサーだった森本茂樹さん(67)だ。森本さんはお笑いの世界では名物プロデューサーとして知られている。慶応大学落語研究会の部長を経てお笑い番組を手掛けたいと朝日放送へ入社。黄金期に向かうⅯ-1グランプリのチーフプロデューサーを務めた。傍ら報道畑の経験も豊富で、50歳を過ぎて朝日新聞東京本社編集局へ出向、編集局長補佐として朝刊の当番編集長を務めていたこともある。マルチ人間と言っていい。
その森本さんを教科書づくりに引き込んだ本物の仕掛け人は森本さんの高校時代の恩師、倉石寛さんだ。倉石さんは私立灘中高(神戸市)で1971年から2015年まで社会科を教え、教頭も長く務めた。奈良県大和郡山市出身の森本さんは、中学時代から下宿して灘中高に通う。森本さんが灘中に入ると同時に着任したのが倉石さんだった。初の東大出身教師ということで話題になったらしい。高校卒業までの6年間、森本さんたちの社会科は連続して倉石さんが受け持った。「だから社会人になっても倉石先生とは交流が続いています。ときどき電話をかけてきてくれるんです」と森本さん。ちなみに森本さんの父親は47年間にわたって奈良県立郡山高校の野球部監督を務めた達幸氏。一昨年に亡くなられたが、郡山高校を率いてたびたび甲子園に乗り込む名将として高校球界では著名だった。
2022年3月末、森本さんは朝日放送を退職し、独立する。間髪入れずに連絡してきたのが倉石さんだった。森本さんによると、こんなやり取りだったらしい。
「お前、仕事辞めたの? 4月からフリーなの?」
「はい。妻と起業しました」
「ちょっと神戸まで来い。相談したいことあんねん」
神戸に行き、食事をしながら話をした。
「俺、教科書作ってるんだけどさあ」
「はい、知っています」
「お前、教科書づくりのメンバーに入れ」
「え? 僕お笑いプロデューサーですよ。教員の資格持ってないですよ」
「分かってんだよ。編集メンバーはみんな力があってな、かっちりしたいい教科書はできるんや。けどそこに『面白い』という発想がない。面白い発想で、みんなが見たくなる教科書をつくりたいんや。お前、アイデア出せ」
「……」

教育図書の「公共」「政治・経済」教科書
発端は18歳選挙権
高校の「現代社会」が「公共」と名を変えるのは2022年度から。そのとき、倉石さんは教育図書(東京)の「公共」教科書づくりに携わっていた。森本さんに連絡した2022年春は初めての「公共」教科書を世に送り出した直後。教科書は4年に1度改訂されるので、倉石さんはもう2026年度の改訂版づくりに気持ちが飛んでいた。
「公共」はもともと「現代社会」だった。「現代社会」が「公共」に変わった理由の一つは2015年にスタートした18歳選挙権だったと言われている。高校生3年生で主権者となるのだから、社会に対して受け身であってはいけない。個人と社会との問題を主権者として考える必要がある、という問題意識が「公共」を生み出した。
併せて文部科学省はグループワークやディスカッション、プレゼンテーションを多用する「アクティブ・ラーニング」の導入も掲げていた。単に教師が教壇から知識を授ければいいという時代ではなくなっていた。
倉石さんは、従来の枠を打ち破る役割を森本さんに求めた。森本さんはその狙いを理解する。考えたのは「自分で開きたいと思う教科書」だ。森本さんが言う。「先生に開けと言われたら開くけど、高校生が自分で教科書を開くなんてないじゃないですか」
教科書づくりを話し合う会議は月1度の割合で開かれた。森本さんはさまざまなアイデアを出した。例えばQRコードを使って「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の規模感をドローン撮影の動画で見せませんか?」。提案はしたものの、森本さん自身もいま一つしっくり来ない。最後に提案したのが漫才そのもの、つまり漫才動画だった。
「漫才やりましょ、漫才」と提案した森本さんに、真っ先に倉石さんが反応した。「それ、やってみよう!」

超人気コンビ、サンドウィッチマン。宮城県出身の二人組(PR動画より)
「その手があったか」
教育図書編集部の堀内綾子さんは、倉石さんから「元教え子で面白い子がいるんやけど」と打ち明けられていた。それがまさか漫才につながるとは、そのときには思いもしなかった。堀内さんが言う。
「教科書にQRコードで読み込むコンテンツをつけるのが昨今のトレンドです。例えば裁判所のサイトに飛ぶとか。せっかく飛ばすのなら面白いコンテンツがいいよね、とは話していました」
森本さんの案を聞いたとき、「その手があったかと思いました」と明かす。「難解な用語が出て学びの姿勢にすらならないのはよくない。漫才なら入り口を開けてくれるのでは」と。
とはいえ前例はない。会議ではこんな声が出た。
「漫才の芸人、どんな候補者がいますか?」
ここで森本さんはサンドウィッチマンの名を上げた。即座に声が上がった・
「いや、森本さん、サンドウィッチマンは無理でしょ。人気ナンバーワンじゃないですか」
森本さんは答えた。
「それ、僕の仕事なんで。口説きます」

「公共の教科書でそんな事していいのか?」とサンドウィッチマン(PR動画より)
サンドウィッチマンしかない!
漫才を教科書に入れる案を、森本さんは腹案として考え続けていた。最も考えを重ねたのはネタではなく人選。教科書に載った芸人がスキャンダルを起こしてしまったらしゃれにもならない。教科書の改訂は4年に一度だから、少なくともその間は事件を起こさないような芸人を選ぶ必要がある。もちろん絶対的に人気は欠かせない。誰も知らないような芸人を出しても喜ばれない。教科書を開いてもらえない。
考えに考えた末、行き着いたのがサンドウィッチマンだった。「漫才を」と会議に提案したとき、森本さんの頭にはサンドウィッチマンしかなかった。
会議で声が出たように、サンドウィッチマンは「日経エンタティンメント!」誌が選ぶ「好きな芸人」ランキングでナンバーワン。2017年まで14年連続でトップだった明石家さんまを抜き、2018年からトップを続けている。いわば超のつく売れっ子だ。森本さんは売れない芸人だったころからサンドウィッチマンを知っているが、そのころとは異次元の存在になっている。しかも教科書は薄利多売の世界なので、人気者だからといってどーんとギャラを出せるわけがない。
八方ふさがりのような状況ではあったが、森本さんは可能性はゼロではないと戦略を練っていた。サンドウィッチマンの事務所「グレープカンパニー」(東京)を訪れた。倉石さんから話を受けてから1年後、2023年の春だった。

登場する若手漫才コンビの一つ、カミナリ(PR動画より)
エンタツ・アチャコの名も出して
「スケジュール的に無理ですね」から交渉は始まった。何度か通ううち、話を聞いてもらえるようになった。森本さんはこんな説得を試みる。
「芸人さんの本芸が教科書に載るなんて史上初ですよ。エンタツ・アチャコ、やすし・きよしが1行だけちょこっと載ったことはあるかもしれないけど、芸の動画が教科書に載ったことなんてない。日本初です。こんな栄誉はありません。その第一号がサンドウィッチマンになるんですよ!」
横山エンタツ、花菱アチャコは現代に続く漫才の基礎を作った伝説コンビ。昭和の初め、時事ネタを盛り込んだしゃべくり漫才を編み出した。横山やすし、西川きよしも伝説的な漫才コンビで、昭和のテレビ全盛時代を彩った。2人とも育ったのは大阪だが、生まれは高知。横山やすしは宿毛市の沖ノ島で生まれ、西川きよしは高知市朝倉に生まれて朝倉小学校に通った。
森本さんはそれらの伝説的コンビを口にしながら訴え続けた。
「サンドウィッチマンの漫才が国の検定を通った教科書に載るんですよ。すごいことやないですか」
森本さんの熱弁に事務所も耳を傾けてくれるようになった。森本さんが言う。
「『忙しいけど、何とかしようかな』と言ってくれて。『若手も出してくださいね』と言うので、『OKですよ』と」
事務所が若手に場を与えたいと考えているのを森本さんはよく知っている。そしてグレープカンパニーは組織がコンパクトで実力のある若手がそろっていることも知っていた。
最後の問題はギャラだった。森本さんは打ち明けた。
「教科書だから、安いんですよ」
提示した金額を見てグレープカンパニー側はうなった。
「うーん、確かに安いですねえ」
お金より大事なものがある、と熱く語る森本さんに事務所はこう答えた。
「そうですよね、お金じゃないですよね」
森本さんが振り返る。
「大きな声では言えませんが、ギャラはすごく安くしてもらいました」

SDGsのネタで漫才をする若手漫才コンビ、東京ホテイソン(PR動画より)
全9組、完全オリジナル15本
そこからがまた大変だった。漫才の台本を作るため、森本さん、堀内さん、グレープカンパニーの座付き作家さん、サンドウィッチマンのマネジャーさんの4人で知恵を絞った。教科書の中身に沿ったネタを森本さんと堀内さんが提案し、それに作家が肉付けする。それをまた会議にかける。幾度となくキャッチボールが繰り返された。森本さんが言う。
「『そこ、カットしましょう』とか『もっと攻めましょう』とか。何度も何度も書き直して。1年かかりました」
完成した漫才は「公共」の教科書に7本、「政治・経済」の教科書に14本。そのうち6本は「公共」と同じ漫才を入れているので、完全オリジナルは15本。長さはどれもおおむね1分少々にした。
登場する芸人は、サンドウィッチマンを筆頭にカミナリ、TCクラクション、わらふぢなるお、あぁ~しらき、お見送り芸人しんいち、ティモンディ、東京ホテイソン、フランスピアノ。サンドウィッチマンを入れて全9組。
堀内さんによると、「公共」は高校の必修科目で高校1年または2年で履修するケースが多い。「政治・経済」は選択科目になっていて、「公共」を履修した翌年に学ぶことになるらしい。全国の高校数は約5500で、生徒数は1学年約100万人。自校の生徒のため、各校の先生方が教科書会社8社の教科書の中から適した教科書を選ぶ。一般に各校とも5月から選択に入り、秋口には決定する。

若手漫才コンビ、わらふぢなるお。ネタは「スーパーハイパーインフレとスーパーハイパーデフレ」(PR動画より)
「面白い!面白い!」
2025年5月半ば、堀内さんの元には教師側からの反応も入ってきつつある。
「『面白いだけではなく、本質的なことを突いている』と大絶賛してくれる先生もいます。授業力がある先生はいろんな形で使えるようです。『(漫才の)続きを考えてみて』とか『続きを演じてみて』とか、ほんと学校次第です」
堀内さんが注目するのは漫才の可能性だ。「『皮肉』との相性がいいんです」と堀内さん。
確かに漫才には風刺があり、ユーモアがある。ユーモアを通じて対立を和らげ、社会に目を向けさせる可能性を秘めている。
最近、知り合いに会うと森本さんは決まってこう言われる。
「よくサンドウィッチマンを口説いたねえ」
テレビやお笑いの関係者であれば、サンドウィッチマンを起用するハードルの高さを知っている。だからまずそこに驚くのだ。森本さんはこの教科書が一人でも多くの高校生の手に渡ってほしいと考えている。
「(漫才入り教科書が)少しずつ話題になっているので。採用してくれる高校が増えてほしいですね」と森本さん。完成した漫才動画を見た倉石先生は、「面白い!面白い!」と大喜びだったそうだ。

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