中山間

高知の土木業者が能登半島地震に遭って感じた違和感

20年にわたって防災に取り組んできた高知市の土木会社経営者が2024年元旦、石川県輪島市で能登半島地震に遭遇した。幾度も国内外の被災地を踏んできたが、自身が被災するのは初めて。すさまじい揺れに遭いながら思ったのは、「この体験を今後に生かさないとだめだ」。86歳という高齢にもかかわらず、「年なんか考えていられない」と被災のありさまを目に焼き付けた。(依光隆明)

無数に地割れした道路(2024年1月2日、石川県輪島市郊外)

車が1メートル跳ね上がった

特殊基礎工事や仮橋架設などで実績のある「高知丸高」会長の高野広茂さん(86)。妻と一緒にタクシーで能登を旅行中の正月元旦に地震に遭った。高野さんによると、輪島市街まであと15分ほどの山道を走っていた1日午後4時6分に携帯電話の緊急地震速報が鳴った。タクシーを運転していたのは前年の旅行で知り合った女性運転手。「機転が利いて賢い人」だったので、ことしの旅行も彼女に託していた。旅行先を前年と同じ石川県にしたのは、日本一高い橋脚で知られる北陸自動車道の鷲見橋を今一度見たかったから。1999(平成11)年に完成したこの橋の工事にも高野さんはかかわっていた。

緊急地震速報が鳴った瞬間、高野さんは電柱が倒れてこない場所、山肌が崩れてこない場所を探した。安全な場所にタクシーを停めさせ、中でじっとしているとすさまじい揺れがきた。「緊急地震速報から激しい揺れまでに4分間あった」と高野さんは言う。あとで分かるのだが、これは実は別々の地震だった。ともに震源は輪島の東隣にある珠洲市。気象庁によると、午後4時6分の地震はマグニチュード(M)5.5で震源は地下10キロ。4時10分の地震はM7.6で、震源の深さは「ごく浅い」だった。震源が近いため、いずれも緊急地震速報から揺れまではほとんど同時。走るタクシーの中にいたので高野さんは4時6分の地震には気づかなかった。安全な場所に車を移したあと、4時10分の地震に襲われたことになる。4時6分の地震の最大震度は5強。4時10分の地震は最大震度7を記録した。

想像を絶する揺れだった。「いきなりボーンとタクシーが1メートル浮き上がりました」と高野さん。そのあと横揺れがきた。高野さんの妻は「近くにいた3台の軽自動車がひっくり返るかと思うほど激しく横揺れしていた」と話す。右方向では瓦葺の古い農家3軒がばたばたと倒壊し、猛烈な土ぼこりが上がった。左方向を見ると、プレハブの新しい民家が3軒あった。高野さんによると、こちらはあまり揺れていないように見えた。

津波を警戒したのだろう、輪島市街から20台ほどの車が上がってきた。高野さんのタクシーはその場所を動かずに一夜を明かした。タクシーの残り燃料は30リットルほど。ガソリンを節約するためエンジンは切っていた。夜に入って気温は氷点下2度まで下がった。雪も積もっていた。寒かった。「冷うて、ぜんぜん眠れんかった」と高野さん。停電で辺りは真っ暗。片側が崖なので、「ライトを常に持っちゅうべきやった」とも。高野さん夫妻の携帯電話は通じなかったが、運転手の電話は通じた。その電話で妻が家族に無事を伝えた。

被災状況を見ながら歩く高野広茂さん(1月2日、輪島市。タクシー運転手が撮影)

「共助」という言葉が頭に浮かんだ

高野さんは1937(昭和12)年の2月生まれ。高知商業高校を卒業して高知通運に就職した。一時は大阪に赴任し、高知県の野菜を載せた貨物列車を大阪市場に配送する仕事に就いた。10年で独立し、高知丸高運輸を設立。運送から土木工事へと事業を転換し、1977(昭和52)年に高知丸高と名を変えた。

防災にかかわるきっかけは2004年12月のスマトラ沖地震だった。津波から命を守るために、と高知工科大の教授と協力して津波避難シェルターを開発。その後、高機能仮設住宅や手巻き式ゴンドラ、15メートルの人力架設人道橋、バックホー搭載組み立て式自航艇などさまざまな防災関連機材を開発している。

今も現役バリバリの経営者だが、80歳を超えたころから年に1度だけ2泊ほどの小旅行を妻や友人らと楽しむようになった。今回は12月31日に妻と2人で出発し、金沢市の手前で1泊。元旦、能登に入っていた。

輪島市の手前で夜を明かしたあと、2日朝に輪島市街へ入った。最初に感じたのは、予想を超えて閑散としていたこと。津波を避けていたのか、すでに救助を終えていたのか、高野さんが感じた第一印象は人が少ないということだった。

「朝の8時くらいやったと思うけんど、誰もおらんのが不思議やった」。7階建てのビルが倒れ、近くで何軒もの民家がつぶれていた。「助けを求める声が聞こえてこないか、耳をすませて一軒一軒確かめながら歩きました」と振り返る。うめき声や悲鳴は聞こえなかった。激しい揺れから16時間近くたっていたが、現場はまだ生々しい。救出活動が終了したあとのような感じはしなかった。違和感を感じつつ高野さんが思い浮かべたのは「共助」という言葉だった。能登半島と高知県の郡部は同じように高齢化が進んでいる。地形も似ている。津波も山崩れも想定される。消防隊や救助隊が迅速に来てくれない事態も予想される。必要なのは住民同士の「共助」だ、高知県は日常的に「共助」の力を高めておく必要がある、能登の災害から教訓をくみ取らないといけない、などと考えた。

倒壊した7階建てビルの基礎部分(1月2日、輪島市)

縦揺れで基礎杭頭部が引き抜けた?

7階建てビルの横に消防車と救急車が停まっていた。女性が助け出されたが、亡くなっていた。すがりついて泣く人がいた。

高野さんは倒壊ビルの根っこ部分に注目した。

「われわれが言うコンクリートパイル、PC杭(くい)が4本、ぽっと杭の頭が外れとったんですね」。地面に打ち込んだ基礎杭の頭部にキャップをかぶせ、凸状に飛び出した杭と凹状にしたビル底面をビルの自重で活着させる工法だったとみられている。凸と凹がはまっているので横揺れには強いが、今回の地震は縦揺れが激しかった。大きな縦揺れで杭の頭が引き抜け、それがビルの倒壊を引き起こしたと高野さんは見た。杭頭部の埋め込み長が不足していたのではないか、と高野さんは言う。「東日本大震災でもビルが倒れていましたが、東北の場合(宮城県女川町)は津波の力でPC杭の頭部が引き抜けた。能登は激しい縦揺れで引き抜けたと思います」。基礎杭の頭部が引き抜けるとともに、液状化でビルの片側が沈み込んだ。それが倒壊を引き起こしたのではないか、と推測する。

東日本大震災の津波で倒壊したビル(2011年3月、宮城県女川町)

港に行った。漁船はほとんどいなかった。女性2人(妻と運転手)がいるので、港のトイレを借りた。水は出なかった。どこに避難所があるのか、どこに行けば食料があるのか、旅行者なので全くわからない。ファミリーマートが1軒、店外で品物を売っていた。食料品はなかったが、空腹は感じなかった。結局、食べ物はこの日の夜まで口にしなかった。余震の怖さは感じなかった。快晴の空に小さめの自衛隊ヘリと報道ヘリの2機が飛んでいた。

生活道にかかる橋はほとんどが通れなくなっていた。取付道路の側が液状化のために沈下していたからだ。ひどいところでは1メートル近い段差ができていた。道路では至る所でマンホールが飛び出ていた。道路が液状化で沈み込んだのに、マンホールは躯体がコンクリートでできているために沈み込まなかったらしい。

朝市のあった場所にも行った。焼け野原になっていた。焼尽の中、まだ煙と火が見えた。「道路を挟んだところにあるお寺も燃えていました。消火活動があまりされていない感じだった」と高野さんは振り返る。「朝市の近くまで津波が来ちゅうですきねえ、消防も逃げざるを得なかったかもしれません」。この火災についてはのちに様々な要因が重なったことが指摘されている。津波の影響で消防団員が集まり切れなかったこと。到着した消防車の少なさ(道路の寸断などが原因?)。消火栓の損壊。水不足‥‥。海にも川にも水はたくさんあるはずなのに、津波を懸念して川から取水しようとしたら水がなかったのだ。地震によって河床が隆起したのではないか、と考えられている。

過疎地域で地震、津波、火災という複合災害が発生したらどうなるか。想定したくない現実が、高野さんの目の前で起こっていた。

倒壊した家屋。左端は突出したマンホール(2024年1月2日、輪島市)

大阪市の消防隊に感激した

高野さん夫妻のタクシーが輪島市街を出たのは午後0時半だった。

国土交通省や消防、県、警察に問い合わせたが、道路状況は全くわからない。とにかく金沢方向に進んだ。地割れや山崩れがひどく、進んでは引き返しの繰り返し。通れるのはむしろ小さな生活道だった。4時間かかって20キロ進み、なんとか国道249号に出た。

輪島市街から9キロ進んだ辺りに輪島方面に向かう大阪市の消防隊がいた。「感激しました」と高野さんは言う。大阪から6~7台の車列で来ていたのだが、バックホーを載せた11トンの運搬車を帯同していたからだ。「さすがだと思いました。重機があれば道が抜けますし、倒壊家屋から人を救出することもできます。阪神大震災で苦労した経験があるんでしょうねえ」。86歳になった現在でも高野さんは手足のように重機を使いこなす。だからこそ重機の可能性がよく分かる。「重機があれば道路が通せます。橋の手前が1メートルの段差になっていたら盛り土をして斜路にすればいいし、道路の亀裂にしても土で埋めて鉄板を敷けば大型トラックを通すこともできる」。高野さんが首をかしげたのは、被災地にも重機があるのに動いていないことだった。「現地で建設用の重機を5~6台見ましたが、動いていなかった」と残念がる。「できることなら自分が重機を動かしたいくらいでした」と。

高野さんが懸念したのは、地元の建設業者と国や自治体との関係が密になっていないのではないかということだ。南海トラフの地震に備え、高知県はそこに気を付ける必要があると高野さんは指摘する。「地元で災害が起きたら地元の建設業者がすぐに動いて道を通すべきです。そのためには国も自治体も地元の建設業者を大事にしないといけない」と。「災害が起きたとき、地元の建設会社が自分の判断で道を通せるくらいの協定を結んでおくことが大事だと思います」

大阪の消防隊からさらに3時間進んだ辺りで自衛隊員たちが座って待機していた。重機を帯同しているようには見えなかった。

高野さん夫妻が金沢にたどり着いたのは1月2日午後8時半だった。

焼失した朝市周辺。輪島朝市は「日本三大朝市」とも呼ばれていた(1月2日、輪島市。タクシー運転手が撮影)

 

 

(C)News Kochi(ニュース高知)

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